CHAPTER VII

 眠気を感じながらの作業は効率が悪い、とは言うが、しかし今の私達はとにかく時間が惜しい。それだというのに二人揃って大口を開けて眠り、目が覚めたらそろそろ灯りが必要になるかという日暮れの頃だ。いくら民家から少し距離があり、林による目隠しがあったとしても、夜間にこの使われなくなって久しいであろう小屋の中で火を起こすのは居場所を知らせるようなものだし、煙が外へ流れ出るのを防ぐような工夫も必要だ。石造りで煙突もなく、小さな窓がいくつかと入口以外に大きく開いている部分は無いとはいえ、放置された建物は想像よりも格段に早く朽ちていく。たとえ外からはあまり崩れていないように見えたとしても、である。

 実際、この小屋の壁や天井などには隙間ができてしまっているので、そこから煙が漏れ出るであろうことは容易に想像できる。手頃な石があれば火を隠すような小さな釜戸を作ることはできるだろうが、灯りが漏れるのを完全に防ぐことができない以上、煙を発見されやすくはなるが昼間での作業が望ましい。

「起きたか」

 体を起こすと、イアソンが閉じた窓板の隙間から外の様子を窺っているのが見えた。室内も全く変わったところはなく、イアソンが鞄の中身を出していること以外は眠る前と同じだ。

「勝手なことをして見つかるわけにもいかないし、お前が起きるまでは何もしてないぞ」

「うん、それで良いよ。ありがとう」

 イアソンの隣に移動して外を見る。天蓋は薄灯り、時刻は午後七時過ぎといったところか。周囲の物音にも異常は無い。動くものといえば、風にされるがままになっている牧草たちくらいだ。

「憲兵も狩人も、この区域に住んでるやつらもこっちには来てない。杞憂だったか?」

 杞憂というのは、この小屋を見つける前に話していたことに対してだろう。人が来ないこの場所は、捜索の際にはまず最初に目を付けられる………と、そう思っていたのだが、ここで半日を過ごしても平和そのものだ。あるいはまだたったの半日しか経っていないからかもしれないが、境界森での痕跡の偽装が予想以上の効果を発揮したのだろうか。

 逃亡犯の逃走記録などは当然残っているわけもなく、逃走期間の最大日数も平均日数も不明、それどころか憲兵や狩人がいつ私達の捜索を開始したのかすら分からない。今こうして怯えながら身を隠しているが、あるいはまだ木札の一件は発覚すらしていないのかもしれないのだ。

 こういう状況では精神はすり減っていく一方だが、偽装した痕跡によって捜索の手が止まっているのだと思うことにしよう。

「この感じ、昔を思い出すな」

 窓際から離れ、椅子代わりの丸太に腰を下ろしたイアソンが言う。その正面の干し草の山に身を投げて、鞄の中身をまさぐりながら「昔って?」と返すと、彼は「一番酷かった家出の話だよ」と私の左足を指さした。

「四年くらい前に、おじさんおばさんと喧嘩したお前が、"こんな家出てってやる!"ってうちに来たことがあっただろ。あの後二人で境界森に隠れてたじゃないか」

「ああ、私が左足を骨折した時の話ね」

 確かに、あの時もこんな感じだったかと思い出す。古びた小屋の中にいるか木の根に寄りかかっているかの違いはあれど、状況自体はさほど変わっていないのかもしれない。私の内面的な部分も含めて。

「手術痕なんてそうそう消えないのに、お前のはもう全然分からなくなってるよな」

 家出以外でも境界森に入ることが多かった私は、子供の頃から毎日のように傷を作って家に帰っていたが、小さな傷なら数時間もあれば完全に消えてしまうほどに怪我の治りが早かった。母も同じような体質で、いわく神官筋の者は皆そうなのだという。

「今回の傷も、そうやって消えてくれたら面倒がないんだけど」

 灯りのない夜に作業などできないため、かつら作りはまた半日後になってしまうが、夜になる前に顔の傷の状態くらいは確認しておかなければならない。そう思い頭の包帯を取り、イアソンに傷の状態を確認してもらう。

「どう?痛みないもうほとんど無いし、傷口は塞がってると思うんだけど………」

 と顔を上げると驚いたイアソンの顔があり、何よりも彼以上に私自身が驚いた。包帯を取ろうとも視界の左半分は闇に覆われているはずだったのだが、一日前────つまり怪我を負う前と何一つ変わっていないのだ。あの時、確かにジネヴラは私の左目をペーパーナイフで切り裂いたというのに、失明どころか若干の眼球の痛み以外に違和感が無い。手で頬や左目の周りに触れてみても、皮膚のわずかな盛り上がりから裂傷痕があるのを感じ取れるだけだ。

「傷口が塞がってるどころじゃないぞ。ほとんど完治してるじゃないか」

「そう、みたいだね。………なんか、気持ち悪いな、私のこの体質」

 ジネヴラのペーパーナイフは白目部分を切り裂いただけではあるが、それでも失明するには十分過ぎる傷だ。それがたったの一日で治ってしまう神官筋の血に薄気味の悪さを感じ、これが神官が生神の次に尊い身分であると言われている理由の一つなのかもしれないな、と瞼の上から左の眼球を撫でる。

「気持ち悪いけど、でも顔の傷が治るなら変装も楽になるね。傷跡はまだ目立つかな?」

「抜糸前って感じだから、まだ目立つと思うぞ」

 この治りの早さだと、傷痕が分からなくなるくらいまで二日か三日といったところだろうか。今までも散々傷の治りは早いからと境界森に出かけて行ったりしたが、これではまるで化け物だ。腕を失ってもトカゲの尻尾のように生えてくるのではないだろうか。二日前、イアソンに冗談半分で"私は呪われている"なんて言ったりしたが、案外間違っていないのかもしれない。神官達は神の使徒という立場を得て、その代償として人ならざる魔物かいぶつになったのだ。両親も幼馴染の親友も、全てを切り捨ててでも書き手であることを止めない私は、確かに骨の髄のその奥まで魔物であると言える。

 だが、私のそのが神によるものなのだとしたら、私達の現状も、あるいは神が望んだことなのだろうか。その考えを頭を振って追い出し、頬を叩いてを取り戻す。神を信じない私にとって、神の呪いも祝福も、神に逆らう罪もそれに伴う罰も全て、ただの偶然に過ぎない。罰当たりなどという言葉は、神を信じている者にしか意味はないのだ。

「なぁ、メディ」

 そんな私をよそにイアソンが呼ぶ。

「傷の話は良いとして、かつらって俺の髪を使うんだよな」

「うん、そのつもりだけど」

「一人分の髪で足りるのか?」

 彼の言葉に思考が止まる。

 かつらは決して安い物ではない。最も高級な物では人毛のみを使用して作られるが、一つのかつらを作るのにも何人もの人の頭髪が必要となる。安い物では馬の毛を使うこともあるが、今の私達が作れるのはイアソンの頭髪を使った物だけだ。しかし彼の髪の長さがちょうど良いと言っても、一人の頭髪だけでは間違いなく量が足りない。重大な問題を見落としていたと頭を抱え、干し草の上で転がり回る。

「そうだよ、何やってるんだ私は!他人に阿呆だ間抜けだと言えるような頭の作りか!?あああああ~っもう!どうしよう!?ねぇイアソンどうしよう!!」

「うるさい落ち着け。お前が実は馬鹿だってのは皆知ってるから」

「酷い!!」

 しかし反論はできない。全て計画の内ですと言わんばかりに行動をしてきたというのに、肝心な部分が抜け落ちていたのだ。いや、そもそも気づいていたのならばなぜもっと早くに指摘してくれなかったのか。二日前の時点で言ってくれていれば、どこかの馬小屋にでも忍び込んでたてがみを刈って来たというのに、今さらそれを言われてどうしろと言うのだ。

「俺に頭脳労働を求めるなよ。今まで忘れてたんだし、何か考えがあると思うのが普通だろ、この馬鹿」

「また馬鹿って言った!!いいよもう、この干し草でかつら作るよ!!あと皆知ってるって具体的に誰!?」

「俺と俺の家族とおじさんとおばさん」

 本当に皆じゃん!!と干し草の束を投げつける。しかしこんなことをして遊んでいる場合ではない。

 勢いで言っただけだが、本当にこの干し草でかつらを作ることはできないだろうか………と手の中でいじくり回し、こういうところで不当な評価を下されているのではと正気に戻る。こうなっては髪を剃るしかないかと鞄の中からナイフを取り出すが、イアソンがそれを止めて提案をしてきた。

「この辺りは牧草地だって言ってただろ?なら、近くに厩舎くらいあっても不思議じゃない。ちょうど夜だし、馬がいないか探してくるよ」

「君一人で?」

「髪の色が目立つからかつらを作るって、お前がそう言ったんだろ。一緒に来られても邪魔だ」

 その通りではあるのだが、イアソン一人では捕まった時に上手い言い訳の一つも出そうにない。そう思っていると、顔に出ていたのか「少なくとも貴族を罵倒するようなどこかの誰かよりは適任だろ」と笑われてしまった。

「………私よりも力、弱いくせに」

「お前の髪を全部引っこ抜いても良いんだぞ」

「ごめんなさい」

 頭を押さえて干し草に隠れる。実際、それ以上の案はなさそうに思えるので、ここは素直に従っておくことにしよう。だが、その前に一つやっておかなければならないことがある。私は鞄から布で包んだビーフスモークジャーキーを六枚取り出し、イアソンに四枚を渡した。

「昨日の夜から何も食べてなかったから、お腹空いてるでしょ」

「四枚も要らない。お前と同じ、二枚で十分だ」

「イアソンはこれから外に出て、私はここで暇潰しをするだけなんだから、適切な判断ってやつだよ」

 鼻を鳴らしてエールを飲み、ジャーキーを齧る。

「その適切な判断が原因で、こうなってるんだけどな」

 イアソンがジャーキーを受け取りつつ苦笑する。しかし誰にだって失敗はあるのだ。あまり私を責めないでもらいたい。私は褒められて伸びるような性格でもないが、だからといって叩けば伸びるというわけでもないのだ。適切な言動と適切な距離感で扱ってもらわなければ困る。

「食糧の調達方法も考えないとね」

 鞄の中身を確認しつつ呟く。私が持ってくることができた食料は、ハルから貰ったビーフスモークジャーキーが十三枚と家にあった薄いパンが三つ、聖芽祭前の収穫の際に分配されたジャガイモと玉ねぎ、ニンジンが七つずつ、それから狩人が売れ残りとして町に卸した痩せたウサギの肉の切れ端が二つと、父が役場で貰ってきてくれていた干しイチジクとデーツで全てだ。このうち、手早く食事を済ませられるジャーキーは残り七枚しかない上、野菜やパン、肉はそのままでは長期間の保存はできない。干した果物は保存食にはなるが、一度の食事で食べきってしまう程度の量だ。イアソンの鞄の中には小さなパンが五つ入っているが、これを合わせても一週間程度の食料しかない。早急に食糧問題を解決しなければ、計画以前に命を繋ぐことすらできなくなってしまう。

 さしあたってウサギ肉を燻製にしたいところではあるが、これにも火を起こす必要があるため、今すぐに取り掛かることはできない。せめて酢があれば野菜を酢漬けにして保存できるが、荷運び人の家庭に酢も酢漬けに適したガラス瓶もあるはずがない。

「燻製にするって言っても、ずいぶんと痩せたウサギの肉なんだろ?そのままシチューにでも入れればいいじゃないか」

 二つ目のジャーキーを齧りつつ私の手元に視線を注ぐイアソン。狩人の稼ぎの大半は貴族へ肉を売ることで得られる。このウサギ肉はその売れ残りとして町に卸されたものなのだから、肉付きが悪いのも当然だった。

 鞄の中身を弄り回していた私は、中から布で包まれたウサギ肉の切れ端を取り出して、大仰に手を広げてみせる。

「ちょっとの砂糖も胡椒もなくて、スパイスなんて夢のまた夢。味付けはジャガイモと玉ねぎとニンジンの出汁だけの、ウサギ肉の水煮シチューなんてもう飽きちゃったよ。だからこの肉はじっくり美味しく食べるのです」

「砂糖だの胡椒だのスパイスだのと、あんまり贅沢を言うなよ。食べれるだけで十分だろ」

 食べられるだけ良い。確かに正論ではあるのだが、シチューにしたくない理由はもっと単純な部分にあった。料理に使えるほどの水がないのだ。エールを含めてもせいぜい数日分の水分しかない現状でシチューを作るというのは、それこそただの贅沢だ。東三区の雨があと二日遅ければ、地面の水たまりの横に穴を掘って湧き出た水を手に入れることもできただろうが、いくら水はけのよくない土地だといっても数日前の雨の水を地面から得て使う勇気はない。境界森の川から水を汲むというのも人に見つかる危険性が高くなるため避けるべきだろう。

「水と、明日から使う薪と、野菜を酢漬けにするための酢と容器も探す必要があるか。薪はいいとしても、水を手に入れるのは難しいだろうな。酢なんてなおさらだ」

 それは私だって百も千も承知だ。そもそも薄汚い格好の浮浪者が、酢だとかガラスや陶器製の瓶なんてものを探していたら、たちまちのうちに注目の的になってしまうではないか。

「だからひとまず、今夜は馬小屋を探して、人がいないって確信したらたてがみを刈るだけ。それと夜明けの一時間前までにはここに戻ってくること。ジャガイモも玉ねぎもニンジンも、気を付けてれば二週間くらいは保存できるから、今すぐに焦って何かをする必要はないよ」

「誰かが焦って行動した結果、馬を探す状況になったんだけどな」

 うるさいよ、と再び干し草を投げつける。

「小屋の外ではエリアルシートは使わない方が良いかもね。灯りの代わりにはなるけど、見つかる危険の方が高いだろうから」

「ああ、分かった」

 窓の外はすっかり暗くなっているが、まだ夜になったばかりだ。行動するにはもうしばらく時間を置いた方が良いだろう。今の時刻が午後八時過ぎだとすると、町が寝静まるまで二時間か三時間といったところか。

 ああそうだ、とイアソンに声をかける。人に見られてしまった際、本名を名乗るのは追われる者としての自覚があまりにも足りない。身の上も含めて、偽りの人間を二人、この場で創り上げておく必要がある。偽名はできるだけ目立たないような、どこにでもある名前にするべきだろう。アンジェラとマッティアあたりがちょうど良いだろうか。少し離れた町で少しばかりの権力と身分と立場、そして財産を有していたが、それら全てを手放さなければならないような失敗をしてしまい、流れ流れてアガタ=ペタラの外縁付近でつつましく暮らすことになった………ということにでもしておこう。

 私の考えた設定に「平民じゃ駄目なのか?」と質問してくるイアソンに、同区域内での移住であればいざ知らず、別の区域への移住となるとある程度の身分と事情がなければまず考えられないことだ、と説明をする。

 もちろん、名乗らなければならないような状況は可能な限り避けるべきだが、近いうちにこの辺りの町の住民に溶け込まなければならないとなると、偽りの身の上話もある程度は考えておいて損はないだろう。

「メディがその"少しばかりの権力と身分と立場"を持った家の娘なら、俺はどうするんだ?」

 ふむ、とわざとらしく顎に手を当て、小屋の中を歩き回る。イアソンが執事というのもどうにも不安が残るし、交流のある家柄の息子、兄、従兄、あるいは婚約者あたりが受け入れられやすい設定だろうが、しかし全てを失ったとはいえ、没落した名家の娘が兄あるいは従兄と二人で新たな生活を始めるというのは少し違和感がある。

 使用人も血縁者も怪しまれる可能性があるとなれば、やはり婚約者か夫しかないだろう。悲恋、駆け落ち、略奪愛に身分違いの恋といった、色恋沙汰の話などありふれたものだ。家名を捨て去ることになったという偽りの過去にも、多少の信憑性を与えることができるだろう。恋愛絡みの噂話の着地点など、どれも同じようなものなのだから。

「つまり今から私は、家に生まれたけど親が仕事で大きな失敗をして、政略結婚の道具にされるのを嫌って婚約者と駆け落ちしたかわいそうなアンジェラになる、ってことだね」

「そして俺はかわいそうなアンジェラに振り回される哀れなマッティアになれ、と」

 その通り、とイアソンの肩を叩き、再び干し草に身を放り出してエリアルシートを開く。どうせしばらく時間があるのなら、境界森を抜ける際に思いついた物語のあらすじだけでも纏めておきたい。

 エリアルシートを指でなぞり、パーソナル、テキストとページを進め、テキストページを新たに作成してページタイトルに"仮題"と入力する。

「また何か書くのか?」

 イアソンが私の手元を見て問う。私はそれに「だけでもメモしておこうかなと思って」と返し、文字を書き連ねていく。ジャーキーを食べ終えて暇を持て余したらしいイアソンは、隣に座って私の作業をしばらく見つめた後、「なんだか物騒な内容だな」と呟いた。

「そうかな?イアソンはこういうのは嫌い?」

「あらすじだけじゃ好き嫌いまでは分からないな。でも、お前らしいとは思うよ。厭世的?って言うんだったか、お前みたいなやつのことは?」

 厭世的とはなかなか言い得ているなと笑う。確かに私は、逃亡生活を選ぶ程度にはこの世界が嫌いだし、絶望的なまでにカローラの信仰心というものを疎んでいる。

 ページを上へ下へとやりながら、しかし、どうにも何かを書くような気分ではないなと溜め息を吐く。


『────さして理由も無く人々に嫌われる少年が、投げつけられた石で頭から血を流す毎日を過ごし、ある雨の日に酒飲みの隣人に刺されてしまう。いよいよ少年の命が終わるという頃になって、少年の前に美しい男が現れ、"不幸な人生を送ったお前の来世のため、一つだけ願いを叶えてやろう"と言う。少年は様々な願いを口にしてはそれが果たされるかどうかを夢うつつで体験し、それを何度も繰り返すが、どんな願いを叶えられても最後には必ず不幸の中で殺されてしまうと分かり、"来世は望まないから、このまま静かに死なせてほしい"と懇願する────』


 これにタイトルを付けるとしたら何が良いだろう、と小屋の外の音に耳を傾ける。必要とされなくなり伸びきってしまった牧草たちが、互いの肩やら腰やらを打ち付け合って文句を言って、それが風の音として私の脳内で色付けされて、青臭い空気の塊になって頭の後ろで静かに浮かぶ。

 "死人しびとの夢占い"が良いかな、とテキストページのタイトルを"仮題"から書き換え、エリアルシートを閉じる。胸とみぞおちの中間に水ぶくれができたようなこんな気分の時は、書くのを止めて寝転がってしまうのが一番だと、私は十分に心得ていた。

「俺達のは分かったけどさ」

 どうでもいいけど、というような口調でイアソンが言う。

「結婚なんてしたくないんだろ?お前は、嫌なことは嘘でもやらないものだとばかり思ってたんだが」

 疑われないようにってのは分かるが………と首をかしげるイアソンに、「ただの設定だよ」と言葉を返す。

「それに、結婚するのは嫌だけど、絶対にしなくちゃいけないなら、その相手はイアソンしかいないとも思ってるよ。面倒なさそうだし」

 幼少からずっと一緒にいたのだから、つまらない見栄もなく、嫁入り婿入り後の相手家族との関係にも精神をすり減らす必要がない。イアソンの場合は家族との縁も切れているので、そういう意味でも面倒がないだろう。貴族や見ず知らずの神の信徒との結婚などそれこそ死んでもお断りだが、イアソンであればまだ許すことができる。

 もっとも、イアソンが家族と縁を切る原因となったのは私なのだが。

「面倒なさそうって、お前本当に性格悪いな………」

 私が指す"面倒"が何を意味するのかをよく理解しているイアソンは、隠れ蓑としてであれば結婚しても問題ないという私の言葉に苦笑する。

「本当にね。なんでこんな女を好きになっちゃったの?」

「俺が聞きたいくらいだよ。毎分毎秒後悔してる」

 そうだろうね、と笑って相槌を打つ。しかし、それでここまで協力してしまうのだから、彼の一途さにはこちらが呆れてしまう。こんな異端を極めて不義理を通すような、鍋で腐肉と野草を発酵させたようなろくでもない女ではなく、もっと他の、普通の女を好きになっていれば、家族を愛し家族に愛される良き父、良き夫になれただろうに、全く運の無い男だとイアソンの目を見る。

「なんだよ?」

「ううん、別になんでもないよ。ただ、異端者だろうと不義理者だろうと構わないけど、イアソンには何かお礼をした方がいいかなって思って」

「道具に礼をするやつなんていないだろ」

 "私に使い潰されてほしい"という言葉は私の本心ではあったが、まさか彼が本気でそれを良しとしているとはと驚く。自分を私の道具だと割り切っているイアソンに「道具なら整備点検をしないとね」と悪戯っぽく笑い、口に指を当てて礼をするなら何が適当かと思案する。しかし持ち物と言えば細々としたものとわずかばかりの食糧くらいで、対価として渡せるものがない。

 ふと、仮にイアソンが私から離れるような未来があったのなら、と想像する。すでに私の共犯者として知られているはずの彼だが、今の段階であれば、まだ辛うじて脅されていたという言い訳が立つのではないだろうか。その未来での私は、彼以外の共犯者を得られるのか。いや、仮に私の共犯者になるという誰かが現れたとして、イアソン以上に信頼できる関係性を構築することは不可能に思える。

 労働には対価が必要だ。その対価は当然、労働に見合うものでなければならない。商人は商人として、狩人は狩人として、荷運び人は荷運び人として生涯を終えるとはいっても、正当な対価が得られないのであれば、取引先を変えるくらいのことはするものだ。

 今はまだ私の言葉に付き合ってくれているイアソンも、この生活が続くのであれば、鞍替えを考えるかもしれない。それは私が想定する中でも、最悪の部類に入る事態だ。しかし私には、彼に支払える正当な報酬の用意が無い。

 何か、手っ取り早くイアソンの心に鎖をかけられるようなものはないか………と、頭を揺らして唸る。私には他に頼るべき相手がいない。話し相手もいない。地の底まで転がり落ちるといっても、その道中を一人で過ごせるほど、私の精神は強靭ではない。道連れが必要なのだ。

 イアソンが私と共にいる理由は単純で、少し度が過ぎている恋愛感情によるものだ。ならば、それを刺激するのが良いだろうか。しかし明確に"恋愛対象ではない"と伝えてしまっている以上、恋仲になるというのは不可能だ。私が心変わりのするような性格ではないというのは、イアソンもよく知っているのだから。

「ん~………。あ、じゃあ、私を好きにしていいよ」

 私の言葉に飲んでいた水を吹き出しそうになり、慌てて飲み込んだ結果咳き込むイアソン。私はそれを横目で見つつ、物語の登場人物ならいざ知らず、現実でこんな反応をする人が本当にいるんだなぁとエールを少量口に含む。

「あのなぁ、俺も男なんだぞ?」

「うん、知ってる。だから言ってる」

「もう少し言葉を選べよ。聞いてたのが俺以外だったら、色々されてるところだぞ」

「でも今いるのはイアソンだけだし」

 イアソンに何かされるくらい別にいいよ………ともう一口エールを飲む。イアソンは少量の怒りと多量の困惑で酔ったような表情を私に向け、「俺と違って、お前の俺への感情はそういうのじゃないだろ」と声を出す。

 確かに、私が抱くイアソンへの好意は、友愛や家族愛に近いものだ。しかし先ほど言ったように、結婚しなければならないとしたら、その相手はイアソンしかいないだろうとも思っている。そういう行為の相手という意味でもそうだし、対価として他に差し出せるものがないからといって、誰にでも体を許すわけでもない。私は彼に恋愛感情は抱いていないが、感情の方向性としては大きく違ってはいないだろう、という自己認識もある。友愛や家族愛にと表現したのはそのためで、逆に言えばそれはただの友愛や家族愛ではないということだ。恋愛感情未満の感情、とでも言えばいいのだろうか。ただ、この先この感情が完全な恋愛感情になることもないだろうという確信もあるのだが。

「それに、夫婦として周囲に見てもらうためには、そういうのも必要になるだろうし。子供はいらないけど、いずれはすることになるんだと思うよ」

 地位のある者達の間では、恋愛の末の結婚などほぼありえないことだ。結婚とは血筋を残すため、他家との繋がりを得るためにするのであって、それは姓を持たない私達平民であってもそう大きな違いはない。しかし、物語────といっても、この場合該当するのは片手の指の数程度だが────の中でも見られるように、恋愛結婚をする者達も存在していて、その割合は圧倒的に平民が占めている。二年前の一件がなければ、あるいは私とイアソンは恋愛をして結婚をして………と、そういう人生があったかもしれないし、彼はきっとそれを望んでいたのだろうと思う。そのイアソンからすれば、今の私の発言は複雑などというものではないだろう。

「まぁ、他にお礼として渡せるものが無い、ってだけだから、深く考えないでいいよ。一回でも私を抱いたら、今以上に情が移って離れられなくなる………かもしれない、っていうのを、勝手に期待してるのもあるけど」

 視線を移す度に左目に痛みが走るので、少し目を休ませようと瞼を閉じる。今日でもう二日も水浴びをしていないな、と意識したせいか、目を閉じて敏感になった嗅覚が様々な臭いを感じ取って、眼球の奥の方でその臭いが靄のように揺れて、浮かぶ。夏に比べて比較的気温が低い季節とはいえ、やはり水浴びくらい毎日しなくてはなと汚れた服から不快感を得て、同時に小屋の中の、湿り気のある腐りかけの空気の臭いに顔を顰める。長い間使われていない小屋なのだ、空気も干し草も地面も石壁や天井も、腐ってしまっていても仕方がない。

「………お前は良いのかよ」

 軽く身を捩る際の、干し草の擦れる音と小屋の外の風の音、私とイアソンの息遣いだけの数分が終わり、イアソンがようやく口を開き、数拍空けて私が答える。

「良いよって言ってるじゃん。何回もさ」

 そもそもそこまで大げさに考えるようなことなのだろうか、という疑問は、わずかに残った人の心というやつからの忠告で口にせず、代わりに「もう九時も過ぎた頃かな」と呟く。都合良く馬のたてがみを刈ることができるだろうか、という不安を今考えても仕方がないことだと頭から追い出し、カルタやスカッキでもあれば時間も早く過ぎるのにと天井を眺めていると、まともな食事を摂っていないからか舌が二日前のイチゴジャムの味を思い出してしまって、濁った空気で口の中を洗浄するのに苦労した。

「────………明日は火を起こさないと」

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