CHAPTER VI

 フローラを囲む神域の壁は直径二キロメートルだが、実際に居住可能とされているのはその内側にある直径一・八キロメートルの区域だ。その円の中を中央区、南区、東区、北区、西区と大きく五つに分け、そこからさらに各区域に、各街に………となっていくのだが、ごくわずかな時間帯以外、ほとんど人が出入りしない場所というのが存在する。それが"境界森"、神域の壁とフローラを隔てる、円形状に広がる森だ。フローラの外縁と神域の壁の間は、神域の壁の外に通じる唯一の道であるロズマリーナ=ステーラ正面通りとその周辺を除けば全てが未開の森であり、狩猟小屋や薪小屋以外では人工物を見ることはない。とはいってもフローラ外縁から神域の壁までは直線にしてわずか二百メートルで、様々な動物がいるとはいっても人二人ならばすぐに見つかってしまう程度の森だ。その片方が怪我をしていて進む足が次第に遅くなっていくとなれば、追手に捕らえられるのも時間の問題だろう。

 加えて野犬や猪などの存在もある。リスやネズミによる感染症にも気を配らなければならないし、今の私は破傷風を起こす可能性も高い。私を支えながら森を歩くイアソンが葉などで切り傷を作って、そこから破傷風に………という未来も十分にありえる。

 それを回避するためにも、怪我をしないように注意をしつつ可能な限り速やかに境界森を抜け、他の区域に入らなければならない。イアソンは南南東区ディアスプラ=ペタラに入ることを提案してきたが、私は少し考えた後にやはり東南東区アガタ=ペタラに進路を決めた。南南東区は正面通りに近く、フローラ内でも人口密度が高い区域の一つだ。しかしその割にいわゆる貧民街と呼ばれるような地区もあり、それゆえに憲兵の数も多い。裏をかいて、あえて南南東区に潜伏するという手もあるが、ここは安全策を取っておきたいところだった。私の体力に不安がある現状では長時間境界森にいるのは得策ではないし、森の中で包囲される危険性も高いとなれば、南南東区という選択肢も決して愚策ではないのだが、やはり南三区は危険が多過ぎる。何よりも、今の私の体の状況で貧民街に身を隠すのは自殺するのと同義だ。最低限の治安維持はされているとはいえ、怪我でまともに動けない若い女がそんな場所に足を踏み入れたのなら、その末路は三つに一つといったところだろう。つまり、都合の良い性処理道具にされて性病で死ぬか、その前に娼館街にでも売られるか、そこから逃げて盗賊家業に身を移すか、である。

 もし今、すでに憲兵が動いているとしたら、私達が境界森に入ったことには気づいていると考えるべきだ。怪我を負った者が町中にいれば、その話は馬よりも早く駆け巡る。それが紫の髪をしていればなおのことだ。だからこそ境界森を素早く抜ける必要があったのだが、痕跡の偽装に手間取ったせいか、アガタ=ペタラの外縁に到着する頃には夜が明けようとしていた。

「お前が倒れた草を起こしながら歩いてなけりゃ、もっと早く来れただろうにな」

 そう愚痴るイアソンだったが、それこそ境界森を抜ける際に最も重要な行動だったのだから仕方がないだろう。

 幅わずか二百メートルで円形に広がる森といっても、ほぼ隙間なく木々が生え、その枝には緑の葉が茂り、地面は背の高い草が覆っているのだ。中央区の丘と森のような、遊歩道や休憩所が設置され人の手によって整備されているわけではない自然そのものの中では、昼であっても十メートルも離れれば木々や草葉で視認性は著しく落ちる。夜の境界森ともなれば、痕跡を辿ることなど不可能に近い。境界森の中では、実際の距離と視覚的、感覚的な距離は一致しないもので、五十メートルは進んだと思っていても、実際にはまだその半分も歩いていなかったということもある。境界森は、最も身近な非日常の土地なのだ。

 では、どのようにして森の中での痕跡を発見し、追い詰めるのか。

 最も手早い方法は、獲物が通ったを見つけることだ。土が剥き出しになっている場所では足跡を、草が生い茂っているのであれば草が倒れているか否かを見分ける。草場では草が倒れている方向に向かえば、それは獲物が進んだ方角にほぼ間違いはない。細く低い位置にある枝が、他の同じような枝と共に本来生えている方向と違う向きに押されていたら、それは人が邪魔な枝を手で押して通ったことの証明にもなる。そういった枝は時間が経てば風で元に戻るため、不自然な向きの枝を見つけるということは、時間的に標的と距離が空いていないことを意味するのだ。枝が折られたり切り落とされていたのなら、その切り口を見れば最近のものかを知ることもできる。土の上の足跡も、崩れていないかどうかである程度の経過時間を推測することができるし、雨の後ならば本来足跡を探すことが非常に困難である岩の上であっても、その痕跡は靴裏に付着した泥によって残ることになる。

 私とイアソンは夜の間、動物たちに怯えつつ何度も方向を変えたりして、ある時は倒した草をそのままに、また別の時には倒した草を足で元に戻しながらと草が生えている場所を選んで進んだため、予想以上に時間がかかってしまったのだ。しかしそれでも時間稼ぎ程度にしかならないだろう。十分に気を配っていたとはいえ、私の血液がどこかに残っていれば、足跡を追うのをやめて血痕を探すようになる。血痕が発見されるということは標的────この場合は私達────が血を流すほどの怪我をしていることを意味し、それが分かればその先の行動を予想することは容易になる。そしてそれにはおそらくそう時間はかからない。境界森での人探しは憲兵ではなく狩人の領分で、狩人にとっては私の偽装など少し時間があれば見破れる程度の子供の浅知恵に過ぎないし、そもそも私が持っている境界森での知識の大半は、子供の頃に狩人に教えてもらったものなのだ。知識欲の一環として教わっていた私の知識や技術と、生きるため、生活のために狩人になった彼らのそれが同等だとは思えない。

「もうすぐ朝になる。その前に町の中に入るか、森の中の狩猟小屋で準備を整えるかを決めないとな」

 イアソンが木々の隙間からアガタ=ペタラの外縁を覗き込む。私はその隣で座り、革袋の中の水で喉を潤していた。

 オニカ=ペタラで生まれ育った私達には、他のペタラの外縁がどのようになっているのかは分からない。私は父の仕事の手伝いで何度か別の区域へ出たことがあるが、その際の目的地は、どれも街の中心部にほど近い場所だったからだ。

 しかし過去の記録などから、ある程度の推測はできる。建築関係の職種が比較的多かった西区ヴェルダ=コローラと違い、ここ東区ジャラ=コローラは畜産が最大の特徴だ。農業に従事する者が大半を占める南区アズーラ=コローラとは切り離せない関係性で、それゆえに狩人の数が最も少ない区域でもあるらしい。各区域の生産物や技術はフローラ中でやり取りされているが、畜産業が盛んな東区で狩人として生きることにはあまり利益がない。畜産業が盛んであるということは、他の区域と違って羊や牛、豚、ヤギ、ウサギ、鶏などの肉が日常的に手に入りやすいということでもある。あくまで比較の話ではあるが、危険を冒して狩りをしてまで肉を手に入れ、それを高値で買い取ってもらうよりは、家業として将来肉になる動物を育てていた方がよほど楽だし確実だ。東三区で様々な制限────狩猟可能な期間や前回の狩猟からの日数など、その詳細によっては罪に問われることすらあるという面倒極まる狩人という職を選ぶのは、一部の変わり者くらいなのだろう。

 そういった特徴のある区域だからか、牧草地や牧場として利用されている土地が多く、それは外縁近くが顕著だった。

 オニカ=ペタラとアルバ=コローラ以外の区域の風景をゆっくりと見られる日が来るとはと内心興奮し、状況が違えば観光気分で見て回りたいところだと木々の向こうに視線を送る。オニカ=ペタラの外縁に住んでいた私達だが、こちらは同じ外縁でもまるで様相が違う。森の境に柵はあるものの開けた草地が広がっていて、その光景はまるで境界森がアガタ=ペタラに出て散歩でもしているかのようだ。森の奥を進んで来たため南区を見ることはできなかったが、農場が多いということは、やはり向こうの外縁もこのような雰囲気なのだろうか。

 しかし記録を見ていて何よりも驚いたのは、中央付近の居住区には平民向けに酒や食料を提供する店が数軒あるらしい、ということだった。一つの店で酒も食料も出すなど、仮に元手があったとしても貴族や商会から何を言われるか分かったものではない。しかし特にこれといった問題が起こっていないらしいことを考えると、牧場主達の憩いの場として機能しており、円滑な牧場運営に必要であると判断されているのかもしれない。そうだとすれば、その店………仮に"食事屋"か"酒飲み場"とでも呼ぶならば、そこの利用客はその区域の牧場関係者に限定されているのだろう。

「なら、この辺りの狩猟小屋には滅多に人は来ないってことか。しばらくそこに隠れるのも良いんじゃないか?」

 イアソンが現在のおおまかな時間を知ろうと天蓋を見上げる。枝葉の隙間からではどのくらい明るくなり始めているのか、その正確なところは分からないが、決断を急がねばならないことは私も理解していた。

「人がいない場所に隠れたい。そう考えるのは当たり前だし、だから時間をかけてまでジャラ=コローラにまで来たわけだけど………。憲兵や狩人が境界森の捜索をするのなら、まずはその"人がいない場所"を探すはず。一見安全に治療ができるなら、普通はそこに身を隠すものだから」

 一度町を離れて境界森にまで入っているのだからなおさらだ。それに、人がいないはずの場所で人影を見れば、誰だって不審に思うだろう。他の区域に比べて境界森に入ってくる者が少ないというだけで、全くいないというわけでもないのだ。私達のような逃亡犯と鉢合わせする可能性だってある。このまま森の中に留まっていても、逃げ続けることは困難だ。

「森の境付近を調べよう。牧草地が良いかな。長い草が生えてて、姿勢を低くすれば姿を見られないようなところ。それでいてある程度建物があって、人もいて、空き家と民家の区別がつきにくいような場所があれば、一番良いんだけど」

「条件が多いな………。そんなに都合がいい場所があるとは思えないんだが」

 まずはそこで、私のかつらを作らねばならない。それと並行して傷の治療だ。ここまでの道中で、犬の屍骸から骨や皮などを入手している。とても嗅げたものではないが、骨を細く削り、火で炙って消毒をすれば、縫い針くらいにはなるはずだ。家から持ってきた裁縫用の針は細すぎて強度が心もとないため、傷の手当以外で針が必要になる作業にはこちらを使うのが良いだろう。傷の縫合の際には麻酔などはないので、そこは二つ目の革袋に入れてきたエールを飲んで気を紛らせるしかない。犬の屍骸の毛をかつらに使おうかとも考えたが、何日もかけて湯で洗わなければ臭いが落ちないだろうし、それを被るのは何かの病気になりそうだと諦めた。やはりイアソンの髪を使わせてもらうのが良いだろう。彼の髪は男にしては少々長めで都合が良いのだ。

「俺が一人で見てこようか?」

 呼吸が荒い私を心配したのか、イアソンが一人での偵察を提案してくる。確かに私がいては動きが制限されるが、正直この森の中で一人取り残されるのは何があっても避けたい。

「今置いていかれたら私一人じゃ何もできないし、野犬に食べられるかも」

 笑いながらそういうと、イアソンは「分かったよ」と私に肩を貸した。

「草が生えてないところは避けて、倒した草と押しのけた枝は元に戻して。木の皮が剥がれるかもしれないから、幹にはできるだけ触らないようにね」

「さっきまでと同じようにってことだろ。分かってる。捕まってろよ」

 まだ夜明け前ではあるが、牧場主の朝は早いと聞く。どこに人がいるか検討もつかないため、先ほどまでよりも数段静かに、慎重に草の中を進まなければならない。

「ねぇ、イアソン」

「なんだ?」

「綺麗なところだね、ここ。幻想的というか」

 草地が広がり、放置された丸太と倒木が重なり、その下には花や古い薪、薪から生えるキノコなどが見え、草の上に顔を出して少し遠くを眺めれば、まばらな家々とその向こうの町の影が目に入る。とまではいかずとも、十分過ぎるほどに幻想的な光景だ。

「呑気なやつだよお前は。風景を楽しんでる余裕はないぞ」

「分かってるよ。言ってみただけじゃん」

 そっけない相槌に口を尖らせて返す。

 しかし、都合の良い小屋を探すといってもそう簡単に見つかるものでもないだろうし、かつらができるまでの数日間のみを民家から離れた空き小屋でやり過ごすとしても、その後に活動拠点となる場所は確保しておかなければならない。世俗から距離を置いて生活する者というのは総じて噂を立てられ目を付けられることが多いため、近隣住民との交流を絶つのは得策とは言えないだろう。逃亡生活などと気取っていても、結局狭い世界の中でのことだ。頻繁に住む場所を変えていては悪目立ちしてしまう。それよりも、何食わぬ顔で町に溶け込めるのであれば、それに越したことはない。

 もっと早くに計画を立てていれば、逃亡先で変装道具を制作するなどという間の抜けた行動は避けられたはずだが────と、意味のない思考を肺の奥に溜めて吐き出していると、左前方の林の隅に小屋が建っているのが見えた。

「────………イアソン」

 袖を引かれ立ち止まったイアソンが、私の視線の先に目をやる。

「ここからだと人の気配はなさそうか………。さっき言ってた条件とは大分違うけど、あそこにするのか?」

 あの小屋は境界森からは若干離れてはいるが、林の存在が邪魔に思える。かつらが完成するまでは目撃されたくないとはいえ、憲兵や狩人が真っ先に疑うであろう"人のいない場所"に建つ古い小屋など、見つけてくれと言っているようなものだ。

 草地を進む際にも倒した草は元に戻してはいるが、それに時間を取られてしまったこともあって、天蓋はもうずいぶんと明るくなってきている。

 長い草が辺りを覆っているのならば、草を編んで簡易的な屋根を作り、そこで数日過ごすという選択もできるか………と、そう思ったが、東三区は数日前に雨が降ったばかりで、水はけもそこまで良いというわけではないため、地面はまだ少し湿っていた。貴族に喧嘩を売ったせいで持ち合わせの服の替えも一着だけになってしまっているし、準備が整うまでは洗濯をしている余裕などないだろうことを考えると、服に泥が付くようなことはすべきではない。そんな身なりをしていては何を噂されるか分かったものではないからだ。

 古い小屋。もう使われていない小屋。小屋の二方は林で目隠しがされており、背の低い石の壁のようなものも見える。この辺りの草は牧草地と呼ぶには成長し過ぎているようにも思えるが、するとあの小屋は牧草を保管していた建物の成れの果て、といったところだろうか。特別崩れているわけでもないらしいことから、最後に人が出入りしていた時期からせいぜい二年かそれくらいのように思える。

「どうする、メディ?」

 黙ってしまった私にイアソンが問いかける。

「あそこにしよう。この辺りの背の高い草はきっと牧草だと思う。その牧草がここまで伸び放題になっているってことは、あの小屋に来る理由がある人はいないはず」

 私達を追ってくる者達を除いては、だが。

「準備不足なのは事実だけど、ここは賭けに出ないといけない場面だと思う。追手が近づいてるなら草で家を作ってる場合じゃないし、準備が終わってない段階で人に見られるのも困る。なら、今はあの小屋を使う以外の選択肢はない………かなぁ?」

 徐々に自身を失っていく私の声に「しっかりしてくれ」と呆れるイアソン。しかし賭けだと言うのであれば、先に判断の正誤が分かることなど無いだろう。

 行こう、とイアソンの肩を軽く叩き、周囲を警戒しながら小屋の近くへと進む。中にはやはり誰もおらず、野犬などの糞も見当たらない。残っていた干し草の束を箒代わりにして軽く掃除を終わらせ、丸太椅子に腰を下す頃にはすっかり朝になっていた。

 その後、屋根のある安心感からか、私達は不用心にも二人同時に眠気に身を委ねてしまい、ようやく目を覚ました時には天蓋が暗くなり始めていた。

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