CHAPTER V
一言で表現するのであれば、それは"この世の終わり"とでもなるのだろうか。要するにとてつもない痛みが続くのだ。腹痛の時の比ではない。小指をぶつけた時とは比べものにならない。骨折をした時とは………あの時も泣いていたので正直比べる気にならないが、とにかく"痛い"、この一言に尽きる。今の私はきっと、涙と流血と脂汗が混ざり合って、見た目も臭いも酷いものだろう。
顔を抑えて裸で床に蹲る私を見たジニー達が、気を良くして部屋を出て行ってから少し後。私は礼服を破いて包帯を作り、それとは別の、おそらくは予備のものであろう礼服を着て時計塔の外に出た。その時の時刻は午後七時五十一分で天蓋の灯りもとうに落ちていて、庭園内にいる父と母に見つからないように木々に隠れてイアソンの小屋へと向かうのは、さほど難しい作業ではないはずだった。しかし痛みと貧血、徐々に荒く浅くなっていく呼吸と、重くいうことを聞かない両足のせいで、裏路地から裏路地へと渡ってイアソンの小屋に辿り着く頃には一時間以上が経過してしまっていた。
扉に寄りかかり、弱々しく不規則に叩くと、中から扉が開かれて「遅いから心配したぞ」とイアソンが顔を出す。その胸に倒れこむようにして気を失い、その後はシーツを被せられた藁のベッドの上に横になり、イアソンがスープを作っているのを眺めている場面まで記憶が飛ぶことになった。
「────………い、……ァ、ソン」
かすれる声を何とか押し出すと、鍋に向かっていたイアソンは勢いよくこちらを向き、駆け寄ってきて涙目で私の手を握った。
「メディ!よかった、俺が分かるか?ここがどこか分かるか?最後の記憶は?」
イアソンの質問に頷き、イアソン、イアソンの小屋、聖芽祭の後と答えていく。
あれからどれくらい気を失っていたかは分からないが、イアソンの小屋にいるということは、まだそれほど時間は経っていないはずだ。医者もいないところを見るに、今朝イアソンに「何があっても大人達に居場所が知られるようなことはしないでほしい」と言った通りにしてくれたようだ。
呼吸を整えているとイアソンが白湯を持ってきてくれて、彼に支えられて体を起こし、咳を出しつつゆっくりとそれを喉の奥に流し込むと、少しだけ気分が楽になっていくような気がした。
「………いま、は」
血が足りないせいか頭と舌が回らず、言葉を発するのに時間がかかる。イアソンはそんな私を急かすこともなく、手を握ったまま「ああ」と頷いて続きを待ってくれていた。
「十二月、二十五日………、の、夜で………。時間………は、十時くらい………。で、合ってる………?」
「俺は時計塔に行ってないから正確な時間は分からないけど、多分それくらいだ。お前が扉の前で気を失ってから、大体一時間弱ってところかな」
そう、と小屋の窓から外を見る。原因は完全に私にあるとはいえ、時間を無駄に消費し過ぎてしまった。今が午後十時前後となると、もういつ憲兵や貴族、神官達が私達を捕まえに来てもおかしくない。
「聖芽祭で何があったんだ?」
そう問いかけるイアソンに「貴族に嫌味と罵倒を浴びせたらこうなった」と正直に告げると、お前本当に馬鹿なんだなぁと呆れられてしまった。
顔を覆う包帯は礼服を破いたものではなくなっているらしく、その下の傷はエールで消毒した後、アロエから作られている簡易的な軟膏を塗ってあるとイアソンは説明した。その簡易アロエ軟膏は以前私が境界森に通っていた頃に自作したもので、出来はそれなりだったが無いよりは増しであることは確かだった。知識欲の一環として作ったものだったが、まさかこんな形で役に立つとはと内心苦笑する。
「悪いとは思ったが、体にも傷があったから、服を脱がせて簡易的な処置はしておいたぞ」
イアソンの言葉にふと自分の体を見て、着ている服が変わっていることに気づく。包帯は全て、私が着ていた礼服の、あまり血で汚れていない部分を使って作ってあるらしい。
「左目、潰れた?」
白湯を飲み終えた私がそう尋ねると、イアソンは一瞬表情を崩し、顔を伏せて「多分な」とだけ答えた。
やはり左目はもう駄目らしい。それにしても愚かな行為をしたものだ。これから逃亡生活を送ろうという時に、片目になってしまうとは。加えてこの包帯がいつ取れるとも分からない以上、かつらを被った程度で憲兵の目を欺けるとは思えない。ここまで派手な怪我をしている女などフローラ中を探し回ってもそうはいないだろうから、視界の端に捉えられただけでも記憶に残ってしまうに違いない。
「あ~もう、本っ当に短気だなぁ、私は!ほんの十分くらい我慢してれば良かっただけなのに、貴族の嫌味程度で頭に血を上らせて感情的になって、あげくがこの様だなんて!!全く、先の見えない子供でもあるまいに!!」
今さら反省してももう遅い。それは分かってはいるが………と、頭を掻きむしって、傷の痛みに身を捩る。ひとしきり呻いたり唸ったりを終えた後、視線を感じてイアソンの方を見た。
「何?どうかした?私の顔に何かついてる?」
「ああ、大きな傷と塗り薬と包帯がな」
それもそうだと笑う私に、笑い事じゃねぇよと静かに怒りを露わにするイアソン。
「えっと………。これは私が原因なんだし、イアソンが怒ることじゃないよ」
「怒るなってのは無理だ。貴族だからってやっていいことと悪いことがあるだろ」
それを言うなら、初めにその"やってはいけないこと"に手を出して一線を超えたのもまた私だ。私も貴族や神官は嫌いだが、今回に関してはむしろ左目だけで済んで儲けものだと考えるべきだろう。ジネヴラがその気であったなら、腕の一本でも落として、焼いて止血するくらいはできたはずなのだ。もっとも彼女にその勇気と覚悟があればの話ではあるが、実際にこうして私の左目を奪えているのだから些細な違いだろう。
「医者に行こう、メディ。その傷は塗り薬だけじゃ駄目だ。麻酔を使ってもらって、傷口を綺麗な湯で洗って、縫合しないと。このままじゃ化膿して病気になるかもしれない」
「それは駄目」
イアソンの提案を即座に却下し、藁のベッドから降りて立ち上がる。一時間程度では失った血が戻ってくるわけもなく、傷口の痛みも引いていない。一応思考は纏まっているし言葉も出てくるが、足元はまだ不安定なままだ。
「お、おい、まだ立つなよ」
私を抱きかかえるイアソンを支えにしてどうにか姿勢を保ち、部屋の隅に準備しておいた麻布の鞄に指を向ける。
「予定より遅れたけど、今すぐ行くよ。境界森を抜けて、朝までにアガタ=ペタラに入るんだ。それでどこか都合のいい小屋にでも隠れて、全部を計画通りに進めるの」
「本当に死んじまうぞ!お前が行かなきゃいけないのはアガタ=ペタラじゃなくて、アルバ=コローラの神官医師の邸宅だ!」
「なら、どうして医者を呼んでないの?」
なおも食い下がるイアソンの肩を掴み、目を見て質問をする。私の傷が擦り傷ではないということなど百も千も承知だ。しかしそれは「だからなんだ」の一言で済ませられる程度の些事に過ぎない。私は万難を排して、幾億の月日の彼方ででも書き手であり続けるのだ。
「目を潰されても、舌を抜かれても、耳を削がれても、腕を切られても、足を落とされても、私が"それがどうした"で済ませる大馬鹿者だってことは、君が一番よく知ってるはずでしょ」
確かにこれは後先考えない馬鹿な発言の結果だが、しかし、たかがこの程度で喚き散らして医者に泣きつき
「今の私を本気で行かせたくないなら、医者を呼ぶか医者の下に連れて行くかしてるはず。そうなってないってことは、イアソンはまだ私の協力者でいる。そういうことでしょ」
「いや、俺はただ、お前が………」
言い淀むイアソンの言葉を、彼の口に人差し指を当てて遮る。
「私がそれを望まないからそうしなかった。ならそれでいいし、これからやることも変わらない」
それに、自分の浅慮で怪我をしたからと医者に駆け込んでも、木札の一件がなくなるわけではない。医者に行って私の傷がどうにか治療されたとしても、イアソンが行くのは地下牢になってしまう。いつかイアソンが私の行動が原因で死ぬことになるとしても、それは今日明日ではない。そうであってはならない。できるなら、彼には死なずにこの先もずっと、私の隣で地の底まで堕ち続けていてほしい。気狂いだ異端者だと蔑まれても、きっと一人で堕ちるのは耐えがたいほどに寂しいだろうから。
鞄の中身を確認し、そこにさらに布やアロエ軟膏の箱を詰め込んで背負う。それからスープを鍋から直接喉に流し込んで、火を消して玄関の扉を開き、部屋の中のイアソンに振り返る。
「来たくないなら来なくてもいいけど、私が心配なら、私の隣にいて。………というか寂しいし痛いし泣きそうだから、できれば一緒に来てほしい」
ここで断られることはないだろう、という確信はあったが、幼馴染の親友を骨の髄まで利用しようという自分の考えに、心底腹が立った。もし仮にここでイアソンが断って憲兵に通報して、私が捕まることになったとしても、彼を責めることなどできないなと苦笑する。私は正真正銘、骨の髄どころか毛先の先まで腐っているのだ。自分に好意を寄せてくれている少年の気持ちを掌の上で転がして、天上の使者や地の底の畜生共と相対することを強いるなど、人間の所業ではない。人でなしという言葉は、間違いなく私のために存在しているのだろう。
イアソンは灯りの消えた部屋の中で頭を掻き、舌打ちをしてから、スープの残りを一息で飲み干して、鞄の中に私に白湯を飲ませた際に使った木皿と、スープを沸かしていた手鍋を突っ込んでそれを背負った。
「昔からそうだけど、お前って性格悪いよな」
イアソンのその一言に、表情が崩れないように気を遣いながら笑顔を作る。今の彼の言葉は、"死ぬ間際まで傍にいて、地獄の底の王でも何でも一緒に殺してやる"という意味で間違いはないはずだ。
「昔から思ってたけど、君は私に甘すぎるよね」
そう言い合って互いに苦笑し、イアソンの肩を借りてすぐ目の前の境界森に目をやる。天蓋の灯りが落ちた後の境界森は町とは別の世界のようで、黒いドレスが風を受けて踊るその様は、私達を誘い出して骨の髄まで堕落させようとしている魔女のようにも見えた。
私の顔のすぐ横でイアソンが言う。
「なぁ、知ってるか?俺、お前のことずっと好きだったんだよ。今でもな」
「うん、知ってる。ねぇ、知ってる?私もイアソンのことは好きだけど、そういうのじゃないってこと。ずっとね」
ああ、知ってるよ。イアソンはそう答えて、私を支えながら境界森へと入っていく。
「俺、多分一生後悔するだろうな。メディに惚れたってことと、それでも手伝っちまう自分にさ」
愛に後悔はないなんて、一体誰が言ったんだ────とイアソンは呟く。
「女は災いってやつだね。酒とたばこと女は男を堕落させる悪いものなんだから。用心しないと」
「特にお前はそうだよなぁ」
昔から恋は盲目とよく言うが、イアソンの場合は少々度が過ぎている、とその好意の対象である私でも思う。私を手伝うということは、私と共に地の底の底まで転落するということに他ならない。フローラの生神も、地の底の王も、天上の主も、全てを敵に回してどこまでも転がり堕ちていく。そこから這い上がる方法もおそらく無いのだろうから、私だけでなく、イアソンもやはり十分に異端者なのだ。行動や考えがではなく、もっと深い部分から壊れているに違いない。信じるもの自体が、フローラの民とは違うのだ。
十二月二十五日、時刻はおそらく午後十時三十分といったところだろうか。私の誕生日で聖芽祭でもあるその日の夜、フローラの歴史上で最も愚かであろう異端者二人は、逃亡犯となった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます