CHAPTER IV

 成人の儀と聖芽祭の祭事が終わると、生神と大神官、祭神官、神官付は次の噴水庭園へと向かうが、むしろ平民達にとってはその後こそが祭りの本番である。天幕の下から各々料理を取り、数人かあるいは数家族で集まって、数時間ほど談笑するのだ。成人の儀の前に婚約話をしていた者達はこの場で正式に婚約をするため、この聖芽祭の後の会食を終えれば翌朝には嫁入りをする、ということもある。とはいえ、聖芽祭の翌日にすぐ婚姻を結ぶということは稀で、新年祭の直後か、新年祭後の誕生日────婚約をした男女の内、先に誕生日を迎える方────に挙式となることがほとんどだ。婚約から結婚までに期間が空くのは式や礼服の準備などがあるためで、聖芽祭の翌日に結婚をする者達は、大抵は十歳までに婚約をし、式の準備も終わっている。成人してすぐの結婚が可能となるのはそれが理由だ。

「ああ、臭い、臭い。アウリーを迎えに来てみれば、豚小屋のような臭いがしますわね」

 時計塔内部の二階、聖芽祭のために開放されている部屋の一つの中。真鍮の杖と白い礼服を返却し元の服に着替えた私は、天幕から食べ物を持って帰るための布はないかと右へ左へ前へ後ろへと視線を巡らせて探していた。

 ちょうど良いものが見つからないな、と困り果てていると、部屋の扉が無遠慮に開け放たれ、それに続いて発せられた腐りかけの材木のような湿っぽい声が部屋に響き、私は反射的に顔を上げる。部屋の入口に立っていたのはエスト=オニカの貴族令嬢とその取り巻き達だ。

「申しわけございませんジニー様。父は塔内の清掃と消臭には十分気を配っている、と申していたのですが………」

 部屋の中にいた一人の女、アウリーと呼ばれた者が私に目をやり、口元を抑えながら答える。するとジニーは扇を取り出して口元を覆い、私を見て「ああ、どうりで」と目を細めた。

「気のふれた異端者なら、道の隅ででも着替えていればいいでしょうに。アウリー、なぜそこの豚小屋女がこのアセラ=スティーレ時計塔に入ることを許可したの?」

「それが、こちらの言葉の意味を理解できない様子で、何を言っても無視をするもので………。それには力が強く野蛮ですので、私ではどうにもできず………」

 そう言ってアウリーは笑いをこらえながら泣き真似をする。ジニーは「全く汚らわしい」と吐き捨てて、取り巻きの一人に小声で何かを伝える。するとその取り巻きの女が、まるで威嚇をする子犬のように、必要以上に靴音を鳴らしながら私の前まで近づいてきた。その右手には水が入った木製のバケツが提げられており、私の数歩手前で立ち止まった彼女は、私に向かってバケツの中身を勢いよく被せた。初めからこれが目的で、この暇を持て余した貴族令嬢と友人方はここに来ていたのだろう。この水は庭園の噴水から汲んできたものだろうが、そもそもジニー・エスト=オニカの成人は来年だ。アウリーがいくら彼女のお気に入りであったとしても、アウリーがアセラ=スティーレ時計塔の管理人一家の娘であっても、それだけで貴族令嬢自らが迎えに来るものではない。ジニーの婚約者が成人する、というのであれば理解もできるが、彼女の婚約者であるエド・オヴェスト=オニカの成人の儀は昨年に終わっているのだから、なおのこと彼女達がここに来る理由がない。

オニカ=ペタラを混乱させた異端の雌豚の分際で、よくもまあここに来られるものね。信仰心も礼儀もなければ、分別もないのかしら」

 犯罪者風情が、と取り巻き女が空になったバケツを私の頭に被せ、ジニーの後ろへと戻っていく。

 二年前のあの事件は、神官達よりもむしろ貴族達からの攻撃材料として使われていたので、こういうことは時折あった。あの一件は彼らからすれば、平民を統率できずに顔に泥を塗られた挙句、神官からの信頼を一部失った苦い記憶に他ならない。神官達は統治者ではあっても統率者ではない。実際に平民を動かしているのはほとんどの場面において貴族なのだ。そして貴族と神官の間には、決して超えることのできない身分の差がある。

 バケツを頭から地面に下ろし、体を拭けるものなど礼服以外には見当たらないので、仕方がなく頭を振って水を飛ばす。

「まるで境界森の粗野な野犬ね。お似合いだわ」

 ジニーのその一声で、アウリーも含めた取り巻きだけでなく、部屋の中に残っていた数人も声を上げて笑う。

 このまま放っておけば、十分程度で飽きて帰ってくれるだろうか。それとも、聖芽祭の後夜祭と称して一時間か二時間か、私で暇を潰す腹積もりかもしれない。どちらにせよ、ここで大人しく下を向いて黙っていれば、そのうちこの雨も止むだろう。私の今夜以降の予定は埋まりきっているのだから、ここで無駄に反発して、結果時間を浪費するような愚かな行動は慎むべきである。

「………豚と言ったり犬と言ったり、表現に一貫性がありませんね、ジネヴラ・エスト=オニカ嬢。次は牛ですか?それとも羊?あるいは猫?意外性を求めるのであればカラスか鳩?もしくは鶏などでしょうか?」

 私の言葉にジニーが口元を扇で隠すのと、取り巻きが私に鋭い視線を向けるのはほとんど同時だった。

 言ってしまった後で、一瞬やってしまったと後悔したがもう遅い。

「今、何か言ったのかしら?」

「これは失礼を。皆様方は言語能力に少々難があるのでしたね。そちらの時計塔守の方も、私の言葉が理解できないご様子でしたし。やはり幼少からもてはやされて育つと、身の丈に合わない自尊心ばかりが肥大化してしまうものなのでしょうか?」

 取り巻きが口を開こうとするのを一瞥して止め、私は続けた。どうせ今夜で最後なのだ。今さら何を言ったところで後がどうのと考える必要もないだろう。長年溜まった鬱憤を晴らすのにちょうど良い機会に恵まれたと考えれば、水をかけられたこともさして気にはならない。

「しかし困りました。私は皆様程度の知的水準の方々でも理解が可能な未知の言語を習得してはおりませんし………。勉強不足で大変申しわけないのですが、会話を円滑に進めるため、あやし言葉でお話させていただいてもよろしいでしょうか?」

 ここからでもジニーの額に青筋が浮いているのが見えるほど、彼女は大層ご立腹であるらしかった。通常敬われる立場である貴族の娘だ、神官家以外の者からこうも侮辱されるとは思っていなかっただろう。取り巻きはジニーの様子を伺って互いに顔を見合わせたり、私に熱烈な視線を送ったりと忙しそうだったが、暇を持て余してここに来たのだろうから、むしろこれに関しては感謝の言葉があっても良いくらいだ。

「………今日はずいぶんと機嫌が良いのね。別にあなたが豚でも犬でも、牛でも羊でも猫でもカラスでも鳩でも鶏でも馬でも構わないけど、何も生まない粗野で野蛮で下賤な獣と同程度の存在である異端者風情が、エスト=オニカ貴族家の娘である私に対して無礼を働く意味が分かっているのかしら?」

 取り巻きが私を囲み、部屋にいた者達も出るに出られず、隅に並んで肝を冷やしつつ愛想笑いを浮かべる。

 今日はずいぶんと機嫌が良い。確かにそれは間違いではなかった。私は今夜、このフローラの中でまだ誰も行ったことのない場所へと進むのだ。そんな日に暗い顔をしていては、私が敬愛する数少ない物語の書き手達にこそ失礼というものだろう。

「私が獣であるならば、あなた方は獣以下ということになりますが」

 言い終わるか言い終わらないかというところで、先ほど私に水浴びをさせてくれた女が、私の腹部に拳を叩き込んだ。その衝撃は思いの他強く、一瞬呼吸が止まり、数拍の後に嘔吐感と共に咳を吐き出すことになったが、気分が高揚していたせいか口の端から笑い声が漏れて、そのままの勢いで、咳に続いて言葉も吐き出した。

「豚は肉になります。牛は肉と、何よりも乳が出る。羊は毛が役に立ちやはり肉にもなりますし、犬は良き隣人であって、牧場に必要な存在です。猫は家を守りますし、カラスは森の中の死骸を食べてくれます。鳩は街の景観に必須で隣人でもあり、鶏はこれまた肉になる上に卵も生む。馬は人を乗せ荷車を牽きます。

 私があなた方の言うところの粗野で野蛮で下賤で愚鈍な獣と同じだと仰られるのであれば、新しいものを生み出さんとするのが私であるならば、銀の食器で肉を貪り大理石のベッドで惰眠に身を委ねるだけのあなた方は一体、何を生み出しているのでしょう?そのあなた方のどこが獣風情に優っていると仰るのでしょう?」

 貴族に対して"お前は獣以下の穀潰しだ"と直接言った者が私以外にどれだけいるだろうか、とわずかな優越感が込み上げる。それも、実際に穀潰しと呼ぶに相応しいのは私の方だというのに、だ。

 しかし込み上げてきたのは優越感だけではなく、先ほどよりも数段強い嘔吐感と空気の塊も一緒だった。

 丈夫な体に育ったとはいえ数人からの暴行に耐えられるわけもなく、膝をついて呻き声と咳とを舌の上で転がして肺の奥に押し込む。その間も腹部を蹴り上げたり背中を踏みつけたりと彼女達のつまらないは続き、バケツ女の靴が視界を覆ってからの数瞬は意識が途切れ、意識を取り戻すのと同時に彼女達の声が徐々に近づいてくるのを"早朝の小鳥のさえずりみたいだな"なんて思ったりした。ベッドの中で重い瞼の向こうから少しずつ鳥の声が主張を増していくような、そんな毎朝の約束事と今の状況を重ねてしまっては鳥たちに失礼だったが、思ってしまったものは仕方がないと喉の奥に引っかかっている空気の塊を吐き出した。

 私は床に広がった水の上で仰向けに倒れているようで、アウリーとバケツ女、その他の取り巻きと、取り巻きに呼ばれたらしい部屋の隅に残っていた数人に見下ろされていた。彼女達は平民である自分よりも下がいる安心感からかこの上なく楽しそうに口を歪めていて、何度も頭の中で描き想像した、"境界森の小屋"に出てくる不細工な夫婦の姿が重なった。ああ、なるほど、不細工な夫婦が不細工と表現されているのはやはりこういう意味だったのだなと一人理解を深めていると、ジニーが初めて部屋の中に入ってきて、倒れている私の足の裏の前に立った。

「ここはオニカ=ペタラの象徴であるアセラ=スティーレ西部第二時計塔。異端の愚者ごときが足を踏み入れて良い場所ではないの。それどころか、汚らしいあなたがいたせいで、こんなに水で濡れてしまったわ」

 貴族の女というのは、なぜこうも扇で口を隠したがるのだろうか。自分の言葉を話さないからか、感情が顔に出やすいのを必死に隠して威厳を保とうとしているのか。そもそも茹で卵の殻すら剥けない時点で威厳も何もないだろうと思うのだが、そうでもしないと自身の存在意義を確認できないのだろう。血縁と生まれ以外に誇れるものがないとは、なんとも哀れなことだ。

 バケツ女とアウリーが私の脇の下に手を差し込んで引きずり起こし、ジニーの前に膝をつかせられる。

「服を脱いで、脱いだ服で床を拭きなさい。あなたが原因でアセラ=スティーレに汚れが染みついてしまっては、お友達やご両親にも不幸が起こることになりますから」

 ジニーが扇を閉じて床を指して言う。

 私が汚れているのなら、私が着ているこの服も汚れていることになる。それで床を拭くということはつまり、私という汚れをこの部屋に塗り付ける行為になるのでは────と考えたが、目の前の者達にそこまで深い思慮などあるはずもない。

「あなたの命令の結果としてこの部屋の床に小さな池ができあがったのですから、あなたがご自身のドレスの裾でもちぎって雑巾がけをなさればよろしいのでは?それとも貴族令嬢ともあろうお方が、ご自身の不始末にすら対処できないのでしょうか?」

 さすが、下の世話すら付き人にさせているだけはある。朝も一人で起きられず、やることといえば取り巻きを従えて散歩に繰り出すことくらいとくれば、口だけ達者になってしまっても本人を責めるのは酷というものだ。それは権力を持つ全ての者が到達する、敬われる側としての輝かしい低みであって、それを高貴さとして刷り込まれる環境にいれば、手拍子一つで周囲が全てを終わらせることも、自分の手による功績になるのだろう。

「私の命令の結果というのなら、その原因であるあなたに命じて不始末に始末をつけるのが貴族の責務にして世の道理というもの。知性も理解力もないあなたでも分かるように言うのであれば、あなたに床を掃除させて示しをつけるのがこの場での貴族わたしの使命よ。お分かりになって?」

「安い使命に生きておられますね。あなたの生涯が雑巾一枚と同程度の価値とは、お貴族様はさすがに格が違います。あまりにも格が違うので、井戸の底を覗き込んでいるかのように首が痛くなってまいりました。これもある意味ではあなたの不始末と言えますし、わたくしの肩でも揉んでをつけてはいかがでしょう?」

 バケツ女とアウリーが私の後頭部を掴み、床に額を押し当てさせる。その横から他の取り巻き達が私の脇腹を交互に蹴り上げ、そのたびに臓器という臓器が口から飛び出すのではないかと思うほどの、数日間台所の脇に放置した木皿の汚れのような、気持ちの悪い感覚が歯の隙間から逃げ出していく。

 やはり黙っておくべきだったな、と切れた口内から血を吐き出す。

 ジニーが命令したのか、蹴り上げる足が止まる。アウリーに髪を掴まれ顔を上げると、ジニーは取り巻きに古びた金属製の物差しを取るように指示をしていた。

「ベニー、これの肩が凝っているようだから、その物差しで肩を叩きほぐして差し上げて。祭りの前の羊肉のように丹念に、十分にが出るようにね」

「かしこまりました、ジネヴラ様」

「マルティ、汚れた服を処分してあげなさい。調理には邪魔よ」

 はい、と返事をするマルティと呼ばれた取り巻きの一人が、私の服の肩口を掴み、煮え立ったシチューのような音を立てながら破いていく。その間にもジニーと取り巻き達のやり取りは続き、物差し女が「そこに手を置いていると当ててしまうわヴィッティ」と言えば「こいつは力が強いから、変なところを掴むと暴れて逃げ出すんだ」とバケツ女が返したり、「私達に当てないでよ」とアウリーが言ったり、マルティが破いた私の服を指先でつまんでバケツの中に放り込んだり、ジニーが一番年下の取り巻きに「あなたも来年には成人ね、エンマ」と話しかけていたり、エンマがジニーのリボンの乱れを正していたりと実に愉快な一幕が展開された。

 その内に物差し女が私の前に立って物差しを振りかぶり、露わになった私の肩や首筋に叩きつけていく。守るものがなくなった私の肌はすぐに裂けたり赤紫色が広がったりして、水の臭いと、木の床に染み込んだそれが床板を少しずつ腐らせていく臭いと、取り巻き達の体臭と、ジニーの石鹸や香水の臭いと、自分の血の臭いとが混ざって視界が上下をなくして回転を始めた。

「神官付の身分を捨ててまで平民と結婚し、あげく生んだ子供がこんな気狂いだなんて。理解できないわ、そうでしょう?」

 取り巻き達だけでなく、部屋に残った女達にも同意を求めるジニーは、その声音だけで心底楽しんでいることが窺えた。部屋の女達は外に出る機を逃したのか、終始愛想笑いを浮かべながら再び壁に背を預けて立ち尽くしている。まさか成人の儀のすぐ後に、こんな場面に遭遇するとは思っていなかったのだろう。私と同い年であったことを不幸だと思って諦めてもらえれば幸いだ。

「全くですよ。神に与えられた神官付という高貴な身分を捨て去るなんて、神への冒涜としか思えません」

 物差し女ベニーの言葉に全くその通りだと返す取り巻き達と、私に物差しが振り下ろされるたびに機嫌がよくなっていくジニー。

 神への冒涜ときたか、と笑いをこらえ切れず、哄笑を上げる。

「さすがは貴族様。理解力の低さに関しては、並び立てる者はいませんね」

 私の肉が裂ける様子に機嫌を直していたジニーの額に、再び青筋が浮く。

「母は、あなた達が不細工に顔を歪めて必死にしがみついているその高貴な身分程度なんていくら捨てても構わなかったから、私が生まれたんですよ。お分かりになって、阿呆なジニー?」

 私の言葉に怒り狂うかと思われたジニーは意外にも表情を崩さず、扇で顔の下半分を隠したまま私を見下ろしている。貴族を愛称で呼ぶことが許されるのは、その身の回りの世話をする者や、貴族ではないものの権力を有する者、その中でも特に親交が深い者達に限られる。アウリーがジネヴラをジニーと呼んでいるのは、彼女がアセラ=スティーレ時計塔を管理する家の娘であり、古くからジニーの友人であることが理由だ。

 親しいどころか憎悪する対象であろう私にジニーと呼ばれた彼女は、少しの間私を静かに見つめていたが、隣にいたエンマに耳打ちをして階下に何かを取りに走らせた。

 それを待っている間にジニーはベニーを下がらせ、代わりに私のすぐ目の前、触れられそうな位置まで出る。そして下がらせたベニーから物差しを受け取り、私の顔にそれを強く、何度も叩きつけた。

 左の頬が裂けたかと思えば額に痛みが走り、目尻を裂かれ、左目を開けていられなくなる。

 何十回かの後、息を切らしたジニーが物差しをベニーに返してこちらを睨みつけ、口を開く。

「獣と同程度という発言は、確かに適切ではなかったわ。獣はただ吠えるだけで、私を侮辱しないもの」

 彼女がそう言い終えるのと同時に、エンマが階下から戻ってくる。その手には羊皮紙用のペーパーナイフが握られており、エンマはそれをジニーに手渡すと、ジニーの背後に控えた。

「二年前で懲りていれば良かったものを、貴族の娘である私まで愚弄するなんて。醜い顔になれば、少しは神への信仰心も抱けるでしょう。神官への畏怖も、貴族への敬意も、人としての礼儀も、貴族の血を引く者の責務として、この私が教えて差し上げます。光栄に思いなさい、獣以下の異端者」

 この娘は教育熱心なことに、下賤な私に自ら礼節というものを教えてくれるらしい。しかしそんなものは全くもって不要であるため、丁重にお断りさせていただかなければならない。

「お前の方がよほど醜い顔をしてるよ、純金頭のジニー」

「………平民以下の分際で、あなたは一体何様のつもりなのかしら?あなた程度が一体何だと?」

 鼻に筋を立て、声を荒げるジニー。貴族をこれほど罵倒したのは、間違いなく私が初めてだろう。だが、統率者であり神官を除けば最高位の権力者、フローラにおいては逆らう者など通常いはしない貴族は、実際のところ神官からすれば平民と大差はないらしく、平民が貴族を侮辱しようと裁かれることはない。憲兵は神官の管理下にあり、貴族が裁判に口を出すことはできない上、そもそも貴族を敬えという法は存在していないのだ。

 しかしそこは仮にも権力者、フローラの法では問題なくとも、平民による貴族への侮辱は貴族による私刑で示しをつけるのが普通だった。貴族への侮辱というだけでは極刑にはできないが、それ以外で命を取るような行為でさえなければ、神官達も私刑の内容や結果に口を出すことはない。

「私が、一体何か?」

 ペーパーナイフの使い道など想像するまでもないが、ここまで言葉を並べておいて今さら尻込みすることほど間の抜けたことはない。口をついて出てしまっただけなど、言い訳にも笑い話の種にもならない。口を裂かれようと、目を潰されようと、舌を切られようと、手足を失おうと、をしてやるのだ。………これに関しては、全くもって予定になかったことではあるが。

 ここで啖呵を切るくらいのことはしなければ、この先の街頭演説にも不安が残るというものだろう。

「私は書き手だ。書き手とは幻想ゆめの担い手であり記し手だ。それは幻想ゆめ世界おはなしの神に他ならない。信仰心を持てだって?ふざけるな。私が信仰しているのは書き手と書き手である私だ。私は私の空想せかいの神だ。私は書き手わたしの神だ。他の何をも信仰などしてやるものか。私の私による私への信仰心を、誰にだろうと否定などさせてやるものか。貴族ごときに、神官ごときに、神ごときに、私の御噺しんこうを否定などさせてやるものか」

 神が世界を創ろうとも、神が世界を統べようとも、私の世界では私が神だ。私の世界で唯一絶対の中心点は私自身だ。そこに世界の創造主とその信者と信者の教徒ごときが割って入ることを許す道理はない。私は私の世界の神で、私は私の世界の神である私の信者で、そこには砂粒一つたりとも入り込む隙間などありはしないのだ。

 異端者め、と誰ともなく呟く。

「愚者の言葉は耳に毒ね。あなたが神ですって?冒涜するのにも程度というものがあると知りなさい」

 押さえつける手に首の筋力だけで抗い顔を上げる。顔の前にはペーパーナイフがあって、その刃は部屋の灯りを反射して橙色を宿していた。

「毒すら飲めない臆病者よりはよほど神を知ってるよ。自らの意志で自らを神と宣う愚かな探究者、それが人でそれが神だ。私は神の使徒でも神の使徒の教徒でもない。私は私の神だ。私は人だ。

 とは違う。お前達のような、神と神の信者と神の信者の教徒に追従するだけの、獣以下の共と私は違う。私は起きて書く者で、お前達は貪り食って眠る者だ。私は朝の白湯で、お前達は夕餉の毒だ。

「そう。それは大層なことね。

 取り巻き達に顔を抑えられ、左眉のすぐ上にペーパーナイフの切っ先が押し当てられる。

 生まれつき私は体が丈夫で、体の成長も人より早かった。病気らしい病気など四歳の頃に一度だけ原因不明の高熱を出したことくらいで、傷の治りの早さは密かに自慢するほどだ。骨が折れても二週間もあれば痛みはあれど動かせるようになるくらいだったが、しかし今度ばかりはそうはいかないかもしれない。

 本当に少しだけ「言い過ぎたかもしれないな」と後悔の念が湧き上がるのを哄笑で押し殺すのと、ジニーがペーパーナイフを真下に引くのは、寸分の狂いもなく、全くの同時だった。

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