5-6 果てまで轟け

 ――その時、間違いなく久条皐月は会場全ての敵だった。


 中学三年の最後の大会、皐月は初めて帝徳中等部の大将として公式戦に出場した。

 帝徳内で無敗を誇った彼の力が存分に振るわれる、筈だった。


 がん、と音が鳴る。

 剣の純粋なぶつかり合いが波濤のように繰り返されていた。

 力任せの強打は戦術という駆け引きをとっくに外れていた。当たれば全て良しという乱暴な攻め手。

 常ならば、そういった隙だらけの打ち合いこそ、決定打を叩き込む勝機に溢れている。

 皐月はそういう相手の隙を的確に攻め、確実に勝利を物にして来た。

 しかし、今はまるで演武のように相手の大振りに剣を合わせてしまっている。 


 大将戦。これまで圧倒的リードをしていた帝徳中は、相手校の猛烈な追い上げで首一つのポイント差にまで詰め寄られていた。

 果敢なプレーで挑み続ける相手校の騎士に観衆は心を動かされ、無敵の帝徳を倒せるかもしれない。そんな青写真を描き始めた結果、戦いの潮目が大きく変わったのだ。

 会場中の観客全てが相手校を応援している。

 皐月の敗退を心から望んでいるかのように思えるそれは、無垢なる暴威だった。


「うっ」


 強打を受け流しそびれ、皐月が大きく体勢を崩した。

 身を起こすその刹那、見えた先の仲間達の瞳を見てはっとする。

 なんで勝てないんだ。そんな非難を帯びたような視線だった。


 ――味方もいないフィールドで一人贋剣を振り続ける。

 その様はまるで、幼い頃に読み聞かされた風車に向かって剣を向ける騎士の寓話のようで。


 滑稽だと笑った物語の中に自分が投げ込まれているのだと、思い知りながら皐月は負けた。

 大敗だった。ここまでの負けっぷりは人生を振り返ってまだ経験が無かった。それも、初めての全国大会の晴れ舞台の場所でだ。

 試合後、勝利を決めた相手コートは大金星に沸いていた。

 笑顔で励まし合う相手騎士達。勝利の歓びを高らかに謳い合う彼らの姿。

 反対側のコートからそれを見せつけられながら、悔しさよりも先に心底羨ましいと思った。

 皐月がいくら才を振るっても彼の仲間達はあのように喜んでくれない。それがひたすらに辛かったのだ。

 皐月の視界を常に彩っていた五彩の色が急速に褪せていく。

 グレースケールと化した世界。それは果たして、頭部保護具ブリスターが展開する拡張現実が見せた幻だったのだろうか。

 

 その日から亜姫と出会うまで。皐月の心は常に灰色のままだった。

 彼女と出会い、失っていた色をようやく取り戻した。


 そう思っていた筈なのに。







「――俺は、あの時とは何も変わっていないのか」





 灰色に消沈した皐月の目は、今も優一が振るう全ての攻撃が見えていた。それなのに身体が思う通りに反応してくれない。

 絶望は無く、ただもどかしさと無力感が在った。


「お爺様のつるぎだな……!」


 静かな声音で優一が剣を叩きつける。

 久条の屋敷から持ち出したワンハンドソード。きっと皐月が出奔した後も、この剣の存在を優一は知っていたのだろうか。


「そんな剣、壊れてしまえばいい! 俺がそうしてやるよ」

「やめろ!」


 刃をぶつけられながら、皐月は叫んだ。

 彼にだけは、優一にだけはこんな言葉を言ってほしくなかった。

 二人が大好きだった祖父が用意してくれたこの剣を壊れてしまえばいいだなんて。

 この黒い剣は皐月にとって唯一形として遺された、あの日々を肯定できる存在だったのに。亜姫と一緒にまた歩き出す為に必要だった剣なのに。


「やめてくれ」


 弾ける火花に網膜を焼きながら、走馬灯のようにあの日が過る。


「俺は――」


 騎士道をやめると優一に伝えたのは試合に大敗した翌日の事だった。

 夕陽が照り付ける道場で、帝徳騎士道部を辞める事、高等部には上がらず別の高校に進学する意思だけ伝えた。

 伝えるべき肉親は既に海の向こうで、優一だけが皐月に遺された心の許せる存在だったのだ。

 だが、皐月が告げたその言葉を聞いた時の優一の、澄んだ黒瞳の底には何も映っていなかった。


 そして、今まさに、自分はその時の優一と同じ顔をしていると思う。



「そうだ。お前も俺も久条に囚われたままなんだよ、皐月」


 灰色の世界と化したコート。剣をぶつけながら、優一の声だけが聞こえる。

 まるであの時伝えた言葉の返答が時を超えてようやくやってきたように。


「俺達は道を違えた。騎士道に囚われ、故に騎士になりきれない」


 鍔迫り合う。肩が沈みそうな優一の剣圧を必死に耐える。


「全てが間違いだった――ッ!」


 間近に迫った刀刃の先で兄のような存在だった騎士は表情を酷く歪めていた。


「お前が騎士道を辞め、だからこそ俺は義母上ははうえの力になりたかった。けど、それもきっと間違いだった。俺もお前も流れに任せて生きちゃいけなかったんだ!」

「それは分かる。けど……!」


 今だからこそ優一の気持ちが痛いほど分かる。だが、既に過ぎ去った岐路だ。時計の針は戻せない。


「それじゃあ、どうすればよかったんだよ」


 もし、ここで全力を出して負けたならば。それは親友に対する贖罪になるのだろうか。

 だが、負けた所で優一は満足するのかわからない。

 どうしようもない事だけが分かっていた。


「何でだよ、優一」


 迷いだらけの剣が淡々と火花を散らす。

 戦いの本能が鳴りを潜め、身体が覚えた優一の剣に合わせる為の最低限な動きだけを再現していた。

 無心で出来る分、逆に動きは洗練しているのかもしれない。

 終わらない責め苦のような剣戟の応酬が続く。


「きっと何もかも俺のせいなのか。くそ」


 逆手で剣を受け止め、うわ言のように呟く。

 自分を律し、過去を捨て、優一も縛りから解放するつもりで来たのに。


「何をやっているんだろう」


 ただ、がむしゃらに生きていれば、手を伸ばし続けていれば。どこかで手繰り寄せられたのかもしれない。

 でも、それをしなかったのは『やっぱり弱さ』なのだと、今もそれができていない事こそがその証明なのだと。

 そして、皐月が見つけた答えは、きっと目の前の優一も知っている。


「皐月!」


 まるで思考がリンクしたかのように、優一が歯をむき出しにして声を荒げる。

 照明の逆光を受け、長剣が赤黒い後光を帯びていた。

 それはまるで罪人の首に襲い来る断罪の刃だった。


「ごめん……」


 剣を握ったまま、気づけば皐月は諸手を広げていた。何故か身体が勝手に攻撃を受け入れようとしていたのだ。


 

 ああ、そうか。



「せっかくここまで来れたのに」


 全てはARと同じ、幻想か。

 結局、俺は自分も友も助けられない。


「ごめん……」


 そして、誰よりも助けたかった人を想った。


「ごめん――亜姫」


 皐月が思わず口にしたのは、ここに至るきっかけを作ってくれた少女の名だった。




「あきらめるなッ!」




 しかし、それを遮るように清冽な声が高らかに響く。

 不意に、小さな光りが脳裏に揺れた。


「恐れず立ち向かえ! 負けるなあああああああ!」


 振り返った先、昏い二階席に彼女はいた。


「絶対勝つって言ったじゃん! そんなので諦めるのが君の騎士道か!?」


 アイスブルーの髪を鈍く輝かせ、亜姫は叫ぶ。

 はっきり見えずとも、確かに頭上に存在する白い花は。

 儚げに、しかし、たった一輪でも気高く高嶺で咲き誇り続ける。


「騎士よ、立て――ッ!」


 騎士道を貫けと叱咤する綺麗事だらけの言葉が飛び交う。


「そんな盾叩き割れ! 剣を止めるな! 皐月は私の騎士なんだろ! 騎士なら立ち向かって、君の騎士道を完遂しろ!」


 まるで、騎士道物語の登場人物のような言葉を亜姫は叫ぶ。

 幼い頃、暗い劇場の傍らで皐月はそれとよく似た言葉を聞いていた。

 銀幕いっぱいに映る鎧兜を身に着けた騎士達。彼らの鬨の声。

 横を見れば、皐月と同じように子供みたいにわくわくさせた目で見入る祖父がいた。今でも覚えている遠い過去のそんな一幕。


「ああ、知ってる――そんな事、わかってるよ」


 かつての自分は彼らの言葉を誰よりも信じていて、いつか自分も祖父や騎士かれらのようになりたいと思っていた。


「俺は君の騎士だからな!!!」


 どこまでも、俺が君の代わりに戦い続ける。

 その一念が剣を握る手に力を取り戻させた。


「それなのに君は! 身体だって弱いくせに――何で君は、いつもこうなんだ!」


 叫びながら、心のどこかでもう一人の自分が嘯く。

 俺だって。どうしていつもこうなんだ。

 でも、今日なら変えられる、過去の自分にも優一にも勝って明日を変えていける。そんな気がしたから――


「だから、君はそこで俺が勝つの見てろ!」


 両の足を踏みしめ、一杯に優一の剣を押し返した。


「はあああああああああ――!」


 生まれて初めて心の限り叫んだ。恥も外聞もない。こうも自分の全力を一つ事に集中し、開放したのは初めてかもしれない。

 何故、自分が亜姫に惹かれたのかようやく分かった。彼女はいつもぎりぎりの死線にいながら、いつも全力を出し尽くすから。

 自分はあの気高さに憧れたのだ。


「「いっけえええええええ!」」


 亜姫と共鳴しているのが心地よかった。力が限界以上に引き出され無敵になった気がするから。 


「ぶちかませ、皐月!!!」


 亜姫の声が拍車をかける。湿気ていた空気を割るように、ここぞとばかりに清々しい稲妻が走る。

 盾でその力を受け止めきれなかった優一が初めてよろめき、雷鳴がばりばりと遠くに抜けた。

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