4-10 贋剣使いは騎士になる ――久条邸

 土間に掛けられた埃だらけのブレーカーをそっと上げると、暗かった廊下にぼんやりと光が灯った。


「どうぞ、入って」


 明治期に作られたという廃屋同然の屋敷の廊下を進む。

 窓から入る夕焼けは格子の影を作り、人足が絶えた後も積もり続けた埃の粒子がそこら中でふわふわと漂っていた。

 かつて、優一たちと走り回った廊下の木板の艶もすっかり消えていた。あの頃のはしゃぎ声も輝きも記憶の彼方にあるだけ。

 誰からも忘れられ、土深く眠る太古の化石のように存在し続けるだけの屋敷。廻り縁に居を構える蜘蛛だけがここの住人で、脈々と年月を見つめ続けてきた。


「どうかした?」

「昔は少し背が高くなるだけでもうれしかったんだ」


 皐月が曲がり角の一画で立ち止まり見ていたのは、柱についた古傷だった。高さもまばらな傷が幾つも刻まれている。


「爺ちゃんは俺や優一たちをよく背比べさせたんだ。この傷も爺ちゃんがペーパーナイフでつけたものだ」


 さつきやゆういちといった子供の名が消えかけた鉛筆で記されているのを亜姫が見つける。ささくれだった傷だらけの柱を懐かしむように撫でて、皐月はそっと歩き出す。


「そっか」


 曲がり角に消えていく皐月の背中を見ながら、在りし日のこの廊下の光景を亜姫は空想した。遠目で見るだけだった少年との思い出が数年遅れで作られていくようだった。

 幼い皐月の人となり、祖父や友との思い出は、亜姫自身もそこで共に過ごしたかのように追憶できる。それがたまらなく尊く感じられた。



「ここは?」

「爺ちゃんの部屋だ」


 突き当りの部屋にたどり着き、立ち止まっていた皐月が襖を開く。

 カーテンの無い窓からは夕陽が差し込み、和室全体をオレンジに染め上げている。

 壁際には蔵書が積まれていた。西洋書物から紐で括られた和書まで様々だ。一歩その部屋に踏み入れると古びた紙の匂いがした。


「あの頃のままだ。爺ちゃんが死んでもずっと残されてる」


 皐月はそう言って、床の間に置いてある木箱を手に取る。紫の紐で括られた桐の箱。皐月は躊躇なく紐を解き、蓋を開いた。


「やっぱり、ここにずっとあるままだったか」

「どうしたの?」


 白い絹織に包まれていたのは中ぶりの西洋剣だった。


「爺ちゃんが言ってたんだ。大きくなったらこの剣はお前が使うんだって」


 剣の柄に刻まれているのは久条皐月の名。黒い柄は夜のような黒を保ち続けている。


「爺ちゃんはいつも言っていた。『別に久条の騎士道だけがお前の全てじゃない』って」


 そう言って剣を見つめる皐月に亜姫は釘付けになる。


「楽しいと思える場所を探せ。お前はお前自身の内から聞こえる心の声に従えばいいって、口癖のように言ってたんだ。今思えば、嫌になった俺が騎士道から逃げ出すのを予見してたのかもな」


 諦めたように薄く笑う皐月の横顔。それを見て亜姫は酷くいたたまれない気持ちになった。

 多分、彼は自分自身の全てをずっと負い目に思っているのだ。大好きだった祖父との思い出ですらも素直に感慨に浸れない。手を伸ばせばすぐ届く場所にあるのに、彼は手を伸ばすことができないのだ。自分とは真逆だと亜姫は思った。


「でも、さ……俺は爺ちゃんが言っていた『自分の心の声』に従ったんだ」


 不意に、その灰色の瞳の奥底に何かが宿っているのに亜姫は気づく。


「だからこそ、皆瀬さんを助けられたのかもしれない――ほら、あの時の電車の話」

「ああ」


 心から安堵したように亜姫は溜息を漏らす。灰色の瞳が夕陽を浴びて黄金色に輝いている。もう大丈夫だと思った。


「爺ちゃんの言う通り、心の声に従ってよかったって、今になってようやく思えたんだ」


 そう言ってそっと、剣を握ってない左手を差し出す。


「うん……うんっ!」


 亜姫は胸に湧き上がる感情を抑えきれずにその手を強く握り返す。


「私の方こそ。あの時は道場の外から見るだけだったけど、今は違うから! それが本当に嬉しい」


 これまでの長く積み重なって来た空白だった年月が一瞬で埋め立てられるような、湧き溢れるような多幸感だ。亜姫は皐月の手を握り締めながら何度も、何度も頷き返す。


「俺、優一と戦うよ。今までずっと逃げて来たけれど、白黒はっきりさせたい」


 皐月は言いながら、振り続けていた亜姫の手をゆっくりと握る。じんと伝わる熱に亜姫は思わず黙りこくる。


「俺が久条から逃げたせいで、あいつは俺の重荷まで背負ってる。最初はそんな優一のおかげで楽になったと思ってた。でも、違ったんだ」

「どうするの?」

「久条の家も爺ちゃんの期待も今はどうでもいい。俺はあいつを助けなきゃいけない。それが俺の騎士道だ」


 もう迷いはない、と。灰色の瞳が彼の本心を如実に語っている。


「久条の剣、か」


 亜姫はふと、皐月が左手で握る黒い柄の剣に目を向けた。


「西洋剣なのに不思議なエンブレムだね」


 ずっしりとした重みを感じる黒い剣。その刀身の根本には菱形模様の中に渦を巻いたような文様が記されていた。それを一緒に見ながら、皐月が剣の柄を亜姫に回して向ける。


「久条流の剣はとにかく速さに重きを置かれている。この模様は稲妻を表しているんだって」

「お爺様が言っていたの?」


 何も言わずににっこりと頷く皐月を見ながら、亜姫は心底思った。本当にこの少年は祖父に愛されていた。そして、彼もまた祖父を敬愛しているのだと。


「大事な剣なんだね」


 見れば見る程に古めかしいその剣に時代の重みを感じた。

 皐月が、彼の父祖たちが背負い続けてきたものなのだと亜姫は思い知り――そして、ある決断をする。


「そうだ久条君。膝を立てて座って」

「え?」

「いいから早く」


 亜姫に急かされるまま、皐月は片膝を床につける。


「いい? 君は贋剣使いじゃない。弱きを助け強きを挫く騎士なんだ。だから、叙任式をしようと思って」

「叙任式? なんだそれ」


 笑いながらも戯言に付き合う気はあるらしい。片膝を立てたままの皐月を見て亜姫は得意げに胸を反らす。


「いつか読んだお伽話みたいに、私が君を騎士にしてあげる」


 亜姫はそっと剣を皐月の肩に置きながら、にこりと微笑む。


「お姫様気取りかな? 本当に君はこういうの好きだな」

「もうっ」


 言いながら、亜姫は反対側の肩に剣を乗せる。暫くの間、剣を乗せたまま時間が過ぎる。

 ずっとこの時間が続いてほしい、皐月の中にそんな錯覚めいた感情が起こりかけた、その瞬間。


「さあ、騎士よ。立つのです」


 言われるままに瞳を開いて皐月は立ち上がる。

 目の前に立つ亜姫は、威厳たっぷりの表情で皐月の剣を差し出す。


「覚悟は決まった? Sirサークジョウ?」

「そこは久条卿じゃないのか」


 流暢な発音の亜姫に失笑しながら言い返す。

 顔を合わせた所で二人は同時に噴き出した。


「ああ、でも……」


 ひとしきり笑い合った後で、皐月は声を落とす。


「多分これ、回路はもう死んでるよ。試合じゃ使えないかも」


 そう言って視線を落とした先、握り締めた剣を見る。

 木製の柄の方こそ状態は良い物の、よく見れば銀の刀身は白く曇り、微かに表面がざらついている。往時の輝きは既に失われているようだった。

 しかし、落胆する皐月を余所に、亜姫の表情は明るかった。


「ああ、これ。多分大丈夫だよ。修繕屋で手入れすればまだまだ全然使えるはず」

「そんなものなのか」

「そんなものよ」


 機械審判の技術は日進月歩だ。最新のレギュレーションに技術的な面で対応できなくなった武具は数あれど、そう言った伝統ある物を後世まで伝えようという技術も発展しているのだと。

 亜姫は物知り顔で説いて見せる。


「デザインは維持したまま、中身だけ最新の機械審判の環境に対応できるように手直ししてくれる店もあるんだって。有名な店を一件知ってるんだ。よかったら紹介しようか?」

「悪いな」


 抱えていた懸念事項はまたしても亜姫のお陰で何とかなりそうだった。

 皐月の表情から今度こそ陰りが消え失せる。そして、それを感じ取った亜姫も。


「だから、必ず勝て久条皐月。それで、帰ってきたらもっかい私と勝負よ」


 そう言って、亜姫は皐月の両肩を強く叩いた。

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