4-9 この坂 ――帝都中枢某所

 週明けの月曜日、亜姫は何事もなく登校してきた。

 これまでと変わらぬ元気な足取りでクラスメートと談笑を交わし、授業には積極的に発言していく。隣の席に座り仏頂面でノートを取る皐月とは対照的な、いつもと同じ姿。


「久条君。ちょっといいかな?」


 放課後の鐘が鳴ると、亜姫は軽い口調で皐月の席をへとやってきた。


「どうしたの。改まって」

「ちょっと一緒に来てほしいところがあるの」


 柄にもなく亜姫が視線を外しながら、窓の方をじっと見ている。

 どこか緊張した面持ちに、逆に皐月は気になってしまう。


「ほんと何、部活は校外の騎士道センターでやるとか?」


 元より断るつもりはない。優一との再戦に向け、最近はずっと自分で鍛錬を行っていた。

 本格的に競技選手時代だった自分へと心身をアジャストしている最中。個人の自主練メインの緩い騎士道部の活動も要望があればいつでも其れに応じる準備は済ませている。


「ううん。そうじゃなくて」


 しかし、予想に反して亜姫は皐月の予想を否定する。


「今日の部活は休み。ちょっと遠い場所に行きたくて。それで久条君も来てほしいなあって」

「おい、見ろよ。あれ!」


 驚く皐月の真横で、クラスメートが大きな声を上げた。亜姫との会話を中断し、反射的に見た窓の外。


「え」


 校門に停まるのは黒塗りの胴長の車――リムジンだった。







 薄くスモークのかけられた車窓からは五月の空と、高層ビルの街並みが広がっている。

 皐月はだだっ広いシートの端に腰掛けながらそれを見ていた。


「何で俺を拉致した?」

「してないよ。同意の上だったじゃない」


 低い鳴動を震わせ進むモーター駆動のEV式リムジン。静かな車内で亜姫の玲瓏な声が響く。


「もっと早くできる?」


 亜姫が前席を小突くようにノックすると、バックミラーに映る運転手の男が無言で頷く。


「それにしても、この車。君は本当に金持ちの令嬢なんだな」


 加速感にシートの背もたれに押し付けられながら、皐月は悪態をつく。

 校門前で向けられた好奇の視線。目立たないように振舞っていたのに、これでは学校内で変な噂が立ちそうだ。


「ところで、久条君って普段あまり車に乗らないの?」

「こんなダックスフントみたいに胴長な自動車。乗りなれてる訳ないじゃないか」


 亜姫は余裕の表情だ。学校で見る時は感じなかったがこの場に身を置くと、やはり彼女は令嬢らしい立ち振る舞いをしていると思った。


「ていうか、どこに向かってるんだよ」


 話題に詰まり、道路の上に交差するように掛けられた高架を見上げた。

 丁度、リニアが走っている所だった。音もなく滑る流線形の車体を仰ぎ見ながら皐月は問う。

 いつもは電車から見える風景がより近くにある。ホログラムのアドバルーン、投影された広告群がビルというビルの壁面中を賑やかしている。


「本当に歪で取っ散らかった街並みだ」

「ねえ、君はこの景色を見てもそう思うだけなの?」


 しかし――亜姫はまるで言い聞かすような口調でもう一度問いかけた。


「そう言われてもな――」


 だが、何度も指摘されるとつい周りを気にしてしまう。皐月の灰色の瞳に移る景色の先。

 ふと、立ち並ぶビルの合間に見えた一点に目を凝らした。


「え」


 摩天楼に囲まれた帝都の一等地。その中に緑の小山が見えた。

 無数の建物の中で際立つ木々に覆われた緑は、そこだけ周囲から浮いていて、ARが見せる虚像かと錯覚しかける。

 だが、それは紛れもない本物の緑の群生。そして、その風景は皐月の記憶にある景色でもあったのだ。


「確かに、よく知ってる場所だ。でも――」


 なぜ、と心の中で戸惑いながら呟く。胸に生じた疑問を目の前の少女には直接聞く気にはなれなかった。


「この辺で良いわ」


 はっきりとした口調で亜姫が運転手にいうと、車は路肩に停車した。

 降りたった皐月の目の前に聳えるは帝都中枢のオフィス街。しかし、その先に皐月の良く知っている場所がある。

 坂の下の欅の傍にある古びた看板に目が吸い寄せられた。


『久条騎士道場』


 見逃してしまいそうな程に小さくて古びた立て看板にはそう記されていた。


「忘れようがない場所だ」


 看板の先には坂道が続いていた。

 緑の木々が斜面に沿うように並び立ち、古びたフェンスがそれを覆うように張り巡らされていて昼でも薄暗い。

 亜姫と共に坂の袂に向かいながら、かつて自身が住んでいた生家に向かう。


「この坂の先だったよね?」

「なんで君がこの場所を知ってる」


 亜姫は括られたサイドテールをふわりと揺らして微笑む。


「君は分からないかもしれないけれど、この坂、私も上った事あるんだ」


 亜姫はしっかりとした足取りで坂を踏みしめていく。


「ずっと小さな頃だけどね。あの頃はまだナノマシンが馴染む前で、車椅子でずっとリハビリしてて……ほら、すぐ近くに病院があるじゃない? あそこにいたんだよ、私」


 そう言って亜姫の指先が向けられた先に巨大な白い病棟の外観が見えた。帝都でも有数の大学病院だと、皐月も昔聞いた記憶がある。


「君がこんな近くに居たなんて、初めて聞いたよ」

「だって、君には初めて教えるもん」


 亜姫は得意げな表情を見せて歩を進めるが、少し汗ばんでいるようだった。それ程にここの勾配は激しい。

 幼い皐月も毎日往復したが、心臓破りの坂の感覚は成長した今も変わらない。


「車椅子で上った先には、私と同じ歳くらいの子達がいつも騎士道の模擬試合しててさ。君みたいなブラックゴールドの髪の子も見た事があるかも」


 そんな、と皐月は口を開けたまま放心状態になっていた。

 確かに、久条道場はいつも開放されていて、門下生や客人を交えて自由に試合をしていた。


「でも、俺は君を見た記憶がないよ」

「私、あの頃は黒い髪に染めさせられてたし。今みたいな目立つ色じゃなかったから」


 それならば仕方がない事なのかもしれないな。皐月はそう思った。

 久条流の本家本元と言う事もあって、皐月の屋敷にはあまりに多くの人が訪れた。その中に亜姫がいたとしても幼い皐月は気づかなかったかもしれない。何よりも、血の滲むような鍛錬を課せられていて周囲に気を配る余裕などなかった。

 舗装路に埋め込まれた玉砂利が靴裏を押し付けてくる。

 共に坂を上りながら、亜姫は続ける。


「唯衣のお母さんの影響なのかな。私の担当の看護師さんが騎士道競技も好きでさ。私のリハビリとか理由付けて一緒に通ってたんだよ?」


 辛い鍛錬や嫌な思い出ばかりの皐月とは逆に、楽しい思い出しかないのだろうか。

 懐かしそうに目を細ませる亜姫を見ながら、絶対にそんな事はないと思った。亜姫もまた、皐月と同等かそれ以上の道を歩いてきた。


「それに、この坂を上った人間は願い事叶うんだって。だから、亜姫ちゃんは頑張って上るのってよく励まされたんだ。ねえ、願い事が叶う坂って話は久条君は知ってた?」

「初めて聞いたな」

「嘘。絶対知ってるでしょ? 有名なんだから」


 そう言って口元を隠して笑う。皐月も釣られて微かに笑みを作った。

 両脇に鬱蒼と生い茂る木々は枝葉を広げ、木漏れ日は陽光を反射した水面みたいにきらきらしている。

 春と夏の狭間、奇妙な季節。

 何よりも――この場所でかつて二人が出会っていたというのもまた、奇妙な話だと思った。


「ねえ、久条くん。私達って幼馴染みたいなものなのかな?」


 先をゆく亜姫が、ぴたりと歩を止め振り返る。


「どうだかな」


 そう曖昧に答えた。亜姫が一方的に知っていたとして、自分は本当にまるで知らないのだ。

 そのような関係を果たして幼馴染と言えるのだろうか? こんな事で悩む自分が可笑しかったが、はっきりと亜姫には頷けないのもまた事実だ。


「それでもいい」


 皐月の葛藤が自然と伝わったのだろうか。亜姫は言い聞かせるように二度頷く。


「これは私の一方的な押し付けだから。私だけが君を知っている、それで十分なの」


 そう言って、最後の傾斜を上っていった。


「幼馴染か」


 思えば、亜姫がこうも自分に対して興味を示したのは、昔の事を知っていたからだったのだろうか。

 だが、皐月の方は亜姫の事など眼中にすら無かった。

 他の門下生ならば車椅子の少女の事も知っているのかもしれない。足繁く通っていて、しかも車椅子に乗っていたならそれなりに印象は残る筈。

 だが、皐月はそんなギャラリーを見る余裕すらなく鍛錬に打ち込んでいた。やはり亜姫の事は思い出せない。

 多分、当時の自分は亜姫の存在など歯牙にもかけなかったのだろう。

 それなのに、幼馴染だなんて。

 あり得ない過去の虚像を一瞬だけ巡らせた後で自嘲した。


 「与太話もいいところだ」


 しかし、皐月はこうも思った。

 今度は亜姫と共に、この坂を上る事ができて本当に良かったと。

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