4-8 飛べない鳥 ――多摩川流域某所
多摩川沿いの河川敷を皐月は歩いていた。
大河にかけられた古びた鉄橋。海鳴りのような轟音を伴わせ、向こうから朝日を浴びた銀色の車両がやってくる。
高架下の暗がりに踏み入れる所で、丁度列車が通り過ぎていく。
がたん、たん。
頭上の橋桁を叩きつける超重量の鋼鉄の塊。車両が一つ走り抜ける度に、腹の底に浸透する規則的な轟音。
がたん、たん。
生きた鼓動と同期するかのような荒々しい暴音を、何故か嫌いになれない自分がいた。
寧ろ怖いくらいがいい。自分が生き物なのだと突き付けられているから。
自然に目を瞑り、橋の下を進む歩を緩めた。
「皐月」
最後の車両が通過し、轟々と震えていた空気が静けさに移りゆくその狭間。自分を呼ぶ声に、皐月はゆっくりと目を開いた。
「優一」
鉄橋の暗がりに人影が佇んでいる。夜のように暗いその正体は玄部優一だった。
河の畔で、皐月と優一は並んで腰かけていた。
「今もまだ、この場所で鍛錬してるのか?」
「俺は何も変わらない」
護岸に立て掛けられた剣を見ながら言うと、静かな口調で優一が答えた。
あの夜、狂気に駆られ剣を振るっていた黒騎士の面影は全く見られない。
「競技に復帰したのか」
あの公園で既に知っていた事実を優一は改めてこの場で問いかけた。
まるで、あの場にいた黒騎士は自分では無いと。そんな暗示を自身にかけているかのような嘘偽りを感じさせない表情で。
「そうだ」
彼女がそうしてくれたのだと――皐月はそう言いたかった。
帝徳の騎士道部を辞め、久条の家からも出て新たな生活を手に入れた。騎士道とは無縁な空虚だが平穏な日常だ。
しかし、それでも、物足りなさを感じ日々を潰していた。
そんな抜け殻のような皐月を亜姫は見つけてくれた。そして、皐月もまた亜姫に未来を見たのだ。
「あいつに応える事が俺の為になるんだ。別にあいつの為じゃない」
「俺たちからは逃げた癖にか」
しかし――
「お前は逃げたんだよ皐月。久条の家からも、俺からもお爺様からも」
語らいたかった春からの出来事、兄のような存在にこそ打ち明けたかった劇的な人生の変わり目。
それら全てはその兄のような存在だった優一から発せられた言葉で無に帰す。
「それを今更やり直すだと? 笑わせるな。騎士にすらなれない贋剣使いが」
耳朶を打つ川のさざめき。春の終わりを告げる風が水面を撫でつけていく。
「ユウはいつだって厳しかったな。俺は何をやってもかなわないよ」
「その名前で呼ぶのも辞めろ。俺はお前にとっての何者でもない」
皐月の言葉は全て優一に封殺される。
歯噛みしながら、気づけば草を握りしめていた。
これは悔恨か、それとも寂寞か。
取り合ってくれないかつての兄でもあり友人でもあった優一。目と鼻の先に確かに存在する筈なのに、心の距離はとうの昔に別世界へと離別してしまったかのようだ。
頭上が一瞬陰る。
「さっきの話だけど……それでも俺は、再戦を望んでいる」
白雲が目まぐるしい速さで流れていく。地表をゆっくりと動くまだら模様の影を見ながら、皐月は奥歯を嚙み締めた。
「くそ。みっともないけど、いつも後悔ばかりだ」
自分以外の万物がこの世界では今もまさに動き続けている。皐月だけが、ずっと取り残されたままだった。
「俺はいつも、どうしていつもこうなんだ」
脳裏に去来したのは過去の光景ばかりだ。
――あの時もこんな風な天気だった。
風が運ぶ若草の香りと共に去来したのは幼い頃の思い出だった。
♢
「何故、喧嘩なんてしたんだ」
「苛められてるあの子をほっておけなかった。だから助けただけなのに、ユウは何でそんな事言うんだ」
「サツキのやり方が悪いからだ」
幼い皐月と優一が道場の片隅で言い合っている。
感情論の皐月に対し、優一は努めて冷静だ。
「俺達は騎士だって、サツキもお母様から教わっただろ。騎士道に反する事はいけない事だって」
皐月よりも一歳しか違わない久条道場の少年騎士は恐ろしく大人びた口調で続ける。幼い頃の一年の差は如実に表れている。
「だいいち、あいつが苛められたのは弱いからだ。助けてばかりいても、いつまでもいじめられっ子は強くなれないじゃないか」
「でも、だって――僕は悪い事してる奴らが許せなくて! それで!」
掴みかかる皐月。
あっという間に取っ組み合いの喧嘩が始まった。
二人のやり取りを周囲の門下生はどうしようもなく見守るだけだったが、そこに一人の老齢の男が割って入る。
「なにをしてるんだ」
「お、「お爺様」」
白袴を着た皺だらけの白髪の老人。久条家の宗主を務める皐月の祖父、久条睦守だ。
「またやっちまったのか、皐月。本当にお前は……」
「だって、ユウも喧嘩しかけてきたし」
殴った優一も悪いだろうと反論する皐月を祖父は穏やかに諭す。
「皐月。お前の言い分もわかるし、いじめを止めに助けに入るのは素晴らしい事だ。勇気が要る、讃えられるべき行動だ」
気前悪そうに俯く優一を見ながら、老人は微笑む。
「だが、やはり喧嘩はいかん。優一が怒っているのは皐月が憎いからではない。達だから、間違いを指摘できるんだ」
そして、二人の頭を両手で激しく撫でつける。
「あい、わかった。それならば、わしが一番良い解決方法を教えよう」
「お爺様?」
恐る恐る見上げた二人の少年に、老人は優しく声を掛けた。
「二人とも剣で戦え。剣で互いの言い分を語り合え」
皐月の祖父はいつも、こんな風に言って皐月も優一も可愛がっていた。
♢
そんな遠い昔のふとした出来事を思い起こしながら、皐月は小さく息を吐く。
「俺達は昔っからいつもこうなるんだよな」
隣で訝しがる優一を見ながら、皐月はそれは仕方のない事なのかもしれないなと思った。
その後の優一との軋轢、祖父亡き後の久条の家との問題。
色々な事があった。負い目もあった――
「だけど、俺はもうお前から逃げたくない。昔みたいに剣でちゃんと戦ってこのモヤモヤした物を一掃させたい」
そうでもしないと、どこまでも本当の自分に戻れない気がするから。
「なあ、優一。お前だって同じじゃないのか?」
優一はじっと皐月を見たまま、何も言わない。
だけど、きっとわかっている筈だと皐月は思った。
「もし、お前が俺のせいで変わってしまったなら」
黒騎士となって、夜な夜な戦い続ける優一の姿。黒い兜を頭からかぶり、片手剣一つで戦う姿は中学時代の自分自身だった。
ただひたすらに帝徳の騎士たちを鍛錬するだけの存在に徹し続けた黒甲冑の騎士。騎士道にあるべき姿をただひたすらに貫く姿を他者に見せ続ける事を強いられた騎士道の権化。
「こんなしょうもない事をしている理由は多分俺だ。俺がちゃんとはっきりさせずに久条の家を離れたから」
「お前自身がそれを言うか、皐月」
「だって、そうだろ。優一の本来のスタイルは盾を絡めた攻防一体の立ち回りの筈だ」
あの公園で敢えて黒甲冑を纏いワンハンドソード――かつての皐月の模倣をしていた。まして、あれほど嫌っていた騎士道から逸れたような戦いを行っていた。
きっと、その鎧の中身は満身創痍に等しい。
「俺は自分自身を何とかしたい。でも、それと同じくらいお前も何とかしてやりたい」
「お前自身の都合だろ、皐月」
言ったまま、優一は立ち上がった。
「鍛錬に戻る。これ以上は時間の無駄だ」
皐月も追うように立ち上がった。しかし、同じ方へと歩く事は無い。
「またな、優一」
返事は無かった。
背を向け歩く優一。
それを見送る皐月の真横を一羽の白鷺が飛んでいく。
「飛べない鳥か」
小さくなっていくその姿を見送りながら皐月は思った。
優一とはもう一度剣を交える。然るべき場所で、必ず。
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