4-7 白い面影 ――帝都外縁某所
星司と帝徳への殴り込みの約束をした翌日、その早朝。
皐月は池の畔に立っていた。
彼の住む帝都郊外のマンションに程近い場所にあるのがこの遊水池だった。
微かに冷たさを感じさせる朝の空気。背の低い郊外マンションを背景にしながら、まだ朝日が上る前の瑠璃色が遠く広がっている。
都会の中に僅かに残された古池は静けさに満ちていて、いつまでもここで時間を潰したくなる。だが、その風景も朝日が本格的に照り始めるまでだ。
古びた木の欄干に体を預けていると、水面に白い魚影が浮かび上がってきた。
ゆらゆら揺蕩う錦鯉。我こそは池の主とでも言わんばかりの堂々たる振る舞いだった。
「兄ちゃん」
皐月は後ろを振り返る。
少し離れた場所に立っていたのは一人の老人だった。
恐らくは日課の散歩でもしているのだろう。この場所で毎朝のように目にする顔だが、声を掛けられたのは初めてだった。
「なんだ、もしかして騎士道やってるんか? 毎日よう頑張っとるな」
老人は皐月の懐に掛けられていた剣帯を指さしながら言った。
自分が騎士道競技者だという事実を他人に改めて言われると、何故か新鮮な気持ちになった。
「もしかして、毎日見てました?」
だからだろうか。気づけば皐月は見知らぬ老人に快く答えていた。
「ああ。その剣片手に毎日一生懸命だなって思っとったんだ」
皺だらけの顔がくしゃりと笑みを作る。普段から話好きな老人の人柄が分かる。
「一生懸命だなんて。ありがとうございます」
仄かに心に彩る老人の優しい『色』を感じ取りながら、皐月もぎこちない笑顔を浮かべて対峙した。
「練習、辛くないか?」
「こういうのはもう慣れちゃいました」
通りすがりだと思っていたが、やはり毎日練習しているとそれなりに印象に残るらしい。
――そう、皐月はここで毎日剣を振っていた。
亜姫に促され、騎士道を再び始めると決めたその日から。
一年半近くの空白を埋めるべく、つい最近始めた日課だった。
しかし、この短期間の朝練は皐月の戦いの勘を戻すのに一役買っている。
「えーあーる、か。わしらの若い頃に比べたら騎士道も偉く派手になったもんだ。今の若者はそういうの好きなんか?」
「どうでしょうか」
丁寧な口調で答える少年に、老人は感心したように顎を擦る。
見た目こそ今時の彼がこうも律儀な性格だとは、練習風景を見ているだけでは想像もしていなかったのだろう。
「俺はARよりも剣を振る事の方が好きです。あんまり考えないで騎士道をやっていたから、今でもよくわかんないんです」
騎士道をやっていた。後に続くべきは一度騎士道を辞めたという自分の過去だが、皐月はそこまで告げる事はしない。
しばらくの間が生まれた後に、老人が再び口を開く。
「高校生だよな? 目指すは秋の全国ってか?」
「その前の六月の都大会――シード決定戦ですね。うちは弱小の無名校だけど、それなりに頑張りますよ」
それなりが――打倒帝徳だという事は口が裂けても言えなかった。
老人は皐月が秘めた思いを知ってか知らずか、しばらくの間口ごもった後に、首にかけていたタオルで顔を拭う。
「頑張んなよ」
「ありがとうございます」
皐月がそっと長いまつ毛を伏せた先、欄干の近くまで来ていた池の主と目が合う。
白い鯉は足元近くの水面を、物欲しそうに口を開け泳いでいた。
生憎、餌になるようなパン屑は持ち合わせていない。
池の主に申し訳なさを感じながら顔を上げると、老人の背中は既に遠くにあった。
きっと、皐月がごく普通の高校の部活動をしているだけで、ごく普通の高校生らしい朝の練習に励んでいるとでも思っているのだろう。
だが、皐月は別に大会で勝つ為に騎士道を再開した訳ではない。
これでは先ほどまでの老人とのやり取り全てが嘘と綺麗事で並べ立てたようだと、罪悪感が微かに湧く。
心が感傷的になっている。そんな自分に気づいた皐月は欄干に身体を再び預けた。
「なんでだろうな」
常の自分ならば、不愛想な返答を一つして終わりなのに。
優しい言葉を掛けられたら、ついこちらも同じような優しい気持ちで老人の話相手をしていた。
これじゃあまるで――
不意に、脳裏で白い花がふわりと揺れた。
ぼんやり煙る雨の中、くっきり放たれた色彩は何物にも侵される事の無い色。気高き白。
「きっとあいつのせいだ」
皐月は不貞腐れた顔で、しかし、嬉しそうな声音で呟いた。
大会の結果に興味は無い。ランキングという目に見える指標を求めている訳でもない。
そんなものよりもっと曖昧だけど、はっきりと自分の中で納得できる物が欲しくなった。だから、再び剣を取ったのだ。それが例え酷く曖昧で歪な理由だったとしても。
ひたすらに後ろ向き。これはきっと取りこぼしてきた後悔を必死に拾い集めようとする、そうやって自分に安堵を覚える為の行為に過ぎない。
でも、それが彼女を喜ばせてくれる理由にも繋がるのなら。
彼女の騎士道がよりよく在るのなら――
「それでも――か」
そこまで考えたところで、自分の行動が偽善めいた綺麗ごとに帰結している事に気づき、皐月は自嘲した。
これでは、あれだけ嫌っていた騎士道の考え方そのものではないか。
無理だと薄々分かっている癖に理想を目指す彼ら。根っこではまだ同じ考えで生きている自分が甚だ可笑しかった。
池を見ながら大きく深呼吸をした。
白い花が揺れるよりもずっと前から皐月の心の片隅に残り続けていたもの。
白い花と対極の場所にある置き去りにされたままの黒い剣。その漆黒は鎧を着こんだ騎士の姿も連想した。
「あれは今までの俺だ。あいつを、今度こそ俺は完膚なきまで倒さなければいけないんだ」
皐月はスマートフォンを取り出しながら言い聞かす。
河川敷で会った時とは違う。
果たして『彼』が応じてくれるだろうか。
それでも連絡帳に埋もれていた番号を指先で呼び出した。亜姫と話していた時はあれほど決心したつもりだったのに指先が震えていた。
程なくして呼び出し音が鳴りはじめ、耳を近づける。一回、二回、鳴り続ける規則的な音。
突然、視界で何かが動いた。
ぽちゃん。白い魚影が吸い込まれるように池の淵へと消えていった。
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