第四章 稲妻と雷鳴
4-1 サナトリウムの少女 ――武蔵野某所
窓からは、澄み渡る青空が広がっている。
床面に反射する白光に目を眇めながら、皐月は長い廊下を歩く。
リノリウムを叩く硬質な足音は一つだけ。
あの夜の一戦後、歩けなくなった亜姫をタクシーまで抱えて運んだ所まで覚えている。だが、そこから先の顛末は知らないままだった。
そして、週明けの登校日。唯衣から聞かされたのがこの場所だったのだ。
帝都を離れた武蔵野の、国分寺崖線に沿って作られた最先端の医療施設。
亜姫は今もナノマシン適合までの間、この敷地内で療養中の身だという。
「AR設備がこれほどたくさん備え付けられているなんて」
整然と植えられた白樺の並木の合間に機械的な黒の支柱が林立している。ARの連携設備だった。
白い幹と支柱はさながらチェスの盤上を思わせる黒白のコントラスト。
年代を感じさせる建物も外観だけで、中に入れば現代の粋を集めた最先端の施設なのだと思い知らされる。
程なくして受付で聞いた部屋に辿り着き、中を覗く。
広い病室内にはベッドとそれに机ほどもあるナノマシンの端末が並んでいて、亜姫が一人ベッドから窓辺を眺めているのが見えた。
いつもサイドで結わえられていた青銀の髪は下ろされ、彼女の頬を覆っている。
儚げな横顔に見とれていたら、風でカーテンが揺れた。
「小さな頃は、いつもこんな場所で過ごしてたんだよね」
皐月に気づいた亜姫がベッド横の花瓶に目を向けながら言った。
静かに咲き誇る一輪の白い花弁。皐月は花を日陰にしないような位置取りに椅子を運んで腰かける。
「ナノマシンの慣らしはまだかかるの?」
「順応化はもう終わったんだけどね。父がもう少しここにいなさいって。ほら、前もこんな事あったじゃない?」
亜姫は柔らかな笑みを浮かべて、ベッドから足を下ろす。
「もう歩けるのに……」
元気だと言わんばかりにぶらぶらさせてみせるが、皐月は気が気では無い。
あの場に助けに入っていなければどうなっていたか。しかし、今は敢えてそれを蒸し返すような発言はしない。
「ね。唯衣の様子、どうだった? 心配してたでしょ? 君よりも」
最後の一言をわざわざ付け加える必要はあるのだろうか。
亜姫は一番話したい事から逸らしながら、唯衣の事を尋ねた。
「結構落ち込んでたよ」
亜姫は困ったように笑みを作る。
「あの子はいつも私の事ばかり気遣ってるから。私よりも子供の癖に」
「姉貴分がこんなだからな。心配もするんじゃないの」
「分かってるよ。分かってるけど――けどさ」
駄々をこねるような口調で、亜姫は隅に立てかけられた剣帯に目をやった。
包帯のような白いベルトに巻かれた白い鞘。白骨のような不気味さと、浮世離れした白の神秘さが両立している不思議な剣。
持ち主がこのような状態になっても試合をする気は満々だと言わんばかりに存在感を誇示している。
「君がその心配をする必要はないと思うけどな」
その剣から視線を外しながら、皐月は小さく息をついた。
「俺に対する樫葉崎の心証が下がるだけだし」
「何で?」
「だって、二度も君をこんな目に遭わせた」
亜姫は腑に落ちない顔をしている。
「言っている意味が分からないんだけど……」
何故、あの場に皐月が現れたのか。亜姫はそれら事情を知らない。
だが、聞かれない限り皐月は教えようとは思わなかった。
「とにかく、君は親に心配されているんだ。それをもっとよく考えるべきだと思う」
「大丈夫」
「身体の事以外にも医療費とか……とにかくいろいろあるんじゃないの」
ついて出たのは、自分でも驚くくらい当たり障りの無い一言。
「別に。父は私を縛り付けておきたいだけなんだから」
「だけど、それは君を心配してるからで――」
「知ってる? 動物園のオウムは飛べないように尾羽(おばね)を短く切られてるの」
遮るように、亜姫の口から矢継ぎ早に出る言葉。思わず皐月は口ごもってしまった。
ふっと、どこか憑き物の取れたような笑みを浮かべて、亜姫はカーテンをそっと撫でた。
「広い屋外で飼われていても、オウムは逃げないじゃない? あれはね。羽根の見えない所を切り取られていて、大空高く飛べないようにしてるんだって」
「そうなのか」
大きな白いオウムなら、幼い頃に上野で見た事がある。
首を向ければ青空が広がっているのに、オウムは確かに飛び立つことが無かった。
幼かった皐月はその時はそれが何故なのか分からなかったが、すぐに記憶の隅に消えてしまった。
「でも、それってある意味、飛べないよりつらいと思う」
亜姫が静かに、しかし強い口調で言った。それこそが伝えたかった事なのだろうか。
「あのね。私が騎士道始めたのは、唯衣のお母さんの影響だったんだ」
「へ?」
驚く皐月に亜姫は愉快げに白い歯を見せる。
「唯衣のお母さんは元々フェンシングの世界大会にも出た凄い人だったんだけど、事故で足が動かなくなってね、私の入院してた病院でリハビリをしてたんだ」
「それで、知り合ったというわけか」
思えば、唯衣の家の事を聞くのも初めてだ。二人の間には幼い頃からの深い繋がりがあったのだと分かる。
「唯衣のお母さんも私と同じ、ナノマシンを使ったBMIの治療をしてたんだ。でも、どうしても適合しないみたいで、競技をするまでの運動機能に回復するまでには至らなかったの」
まるで、自分の事のように亜姫は声を震わせる。
すぐ身近で幼い亜姫がどんどん動けるようになっていく。唯衣の母が体感したであろう寂しさは、形は違えども皐月にも共感できた。
「それでも、唯衣のお母さんは諦めなくてね。今は車椅子でフェンシングやってるんだよ。ちょっと前の世界大会でもかなり良い所まで行ったの」
「すごいな」
反応する皐月を見て、亜姫は嬉しそうに肩を竦めた。まるで、自分の母親を褒められて照れているような、そんな風に顔を赤くしながら。
「本当に強い人なんだ。そういう姿に私はますます憧れたんだ」
「皆瀬さんは樫葉崎のお母さんの姿を見て頑張って来たんだな」
自分の事も褒められ照れ臭そうにする亜姫。それを見ながら皐月は窓辺に立った。
「今の強い皆瀬さんがいるのは、きっと樫葉崎の母さんのお陰なんだな」
「それは違うよ。久条君」
「え」
まだ何か言いたそうな顔をして、亜姫は皐月を見上げる。
「私が今日ここまで来れたのは……」
二人の間に垂れかかった白いカーテンが穏やかな波のように靡く。引いていく白紗の向こうで、亜姫が少しだけ寂しそうに微笑を浮かべているのが見えた。
彼女は何故、こうも寂しそうな顔をしているんだろう。
皐月はそんな疑念感じ、見つめ返すのだが、
「ううん、何でもない」
小さく息を吐きながら、亜姫はこの話を締めくくる。
穏やかな春の終わりの昼下がり。弛緩したような温かみが病室内に流れる。そのただ中で、二人は窓辺をしばらく眺めた。
「――じゃあ、樫葉崎も二人の影響でフェンシングを始めた感じ?」
「うん。そんなとこかな」
二人は本当に血が通った姉妹のような関係だと思う。誇らしげな亜姫の顔を見ながら皐月はそんな事を思った。
「あいつの君への懐きっぷりの理由はよく分かったよ。俺にも幼馴染みたいな奴は何人かいたけれど、皆瀬さん達みたいな感じじゃなかったから羨ましいな」
「君は、小さかった頃の君はさ――」
これまでと打って変わって静かな口調。
うっかり風で聞き逃しそうになるほどだった。
「どうしたの?」
「ううん。何でもない」
きっといろいろ知りたい事があるのだろう。皐月の事に関して聞きたい事もあるのだろう。
それでも、亜姫は言葉を止めた。
「いや。君はまだ聞きたい事があるよな?」
「えっ」
皐月は珍しく遠慮がちな亜姫の目をじっと見返しながら続ける。
「この前の公園の――」
ここに来て初めて、あの夜の事を切り出した皐月に亜姫ははっとしたような表情を浮かべた。
「ああ、そっちの話かぁ」
目を逸らしながら自嘲するように笑う亜姫。
余程悔しかったんだろうな、と皐月は思う。
「伝えるべきだと思うから言うよ。君が戦った『黒騎士』は俺が良く知っている男だ」
ああ、と。亜姫は分かっていたのだろう。
小さく声を漏らすも、その表情に驚きは無い。
「俺は星司から聞いて、確かめる為にあの場所に行った。そうしたら、君とユウ――玄部優一が戦っていた」
「玄部……それがあの黒騎士の名前なの?」
「そうだ」
「あの人の剣筋、君にとても似てた。振れば雷みたいな音が鳴る剣。でもね――」
あの夜の公園での死闘を思い返しながら、亜姫が小さく声を紡ぐ。
「力強く打ち震えてくるのに、とても悲しい響きがするの」
「あいつも俺の爺ちゃんから鍛錬を受けたんだ。だから、多分戦いの雰囲気も似てるだろうな」
遠くを見ながら語る皐月を見ながら、亜姫が訝し気に首をかしげる。
「幼なじみ?」
「いや、もっと違う」
皐月は少し考えてから、
「そうだな。強いて言うなら――家族ってやつなのかもしれない」
そう言いきった視線の先、ビルディングの背後には、巨大な入道雲がもくもくと膨れている。
「優一は久条の家の人間じゃない。けれど、家族同然に育てられた。んで、あいつがああなったのは、多分俺のせいだ」
振り返ると逆光の暗がりの中、見上げる亜姫と目が合う。
彼女が身体を横たえる白いシーツを覆う黒い影は皐月自身の物だ。
「それってどういう……」
「久条の家を今取り持っているのは俺の伯母だ。伯母は孤児だった優一を養子にして、あいつは伯母の期待に応えようとしてる」
けど、と。皐月は噛み締めるようにぐっと拳を作る。
「伯母も優一も立派にやってるのに、俺は。本来久条を継ぐべきだった俺や親父は久条の家から逃げ出した。そのせいで全部背負わせた」
黒い鎧に身を固めた優一は、彼の心の在り処は今どこにあるのだろう。
公園で見せた優一を覆っていた禍々しい色を思い出しながら皐月は続ける。
「あいつは闇の中にいる。それで、あいつは一番自分が忌み嫌っていたような騎士道をしてる」
黒と赤に滲んだ幼馴染を思い返しながら皐月は絶望する。
「全部、全部俺のせいだ」
「久条く――いえ、皐月」
不意に、すっと入り込んでくる亜姫の声。
はっきりと言い聞かすように強い語調で名前を呼ぶ。
「苦しむべきは自分だったと? 君はそう言いたいの?」
思わず声を失った。
心もとなく震えていた膝元はやがて、しっかりと静止する。
亜姫が浮かべた穏やかな笑み。陰る瞳が鈍く光沢を帯びる。
「ねえ。少し歩かない?」
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