3-6 五彩の虹
「何で……皐月?」
久条皐月が黒騎士と戦っている。
しかも、先ほどまで亜姫を圧倒していた黒騎士が防戦一方になりつつある。
翻弄するように振るわれる切っ先の短いワンハンドソード。
リーチに差がある筈なのに皐月の振るう剣撃は黒騎士の兜と肩甲をこれでもかと叩きつける。まるで血に飢えた獣のような酷く乱雑な戦い方。
「これが君の本当の強さなの?」
混沌とした夜闇で一層に剣閃は強く煌めく。見る者を強く惹きつける残光は、亜姫を魅入らせる。
「ああああああああああああッ!」
黒騎士の持ち点ゲージが僅かずつではあるが確実に、一方的に減っていく。
それでも生存本能が身体を動かしているのか。黒騎士は致命的な一撃を剣でいなし、応戦を続けていた。
「見つけたぞ、とうとう見つけた。
長剣の周囲を一際黒い瘴気が覆う。
黒騎士の立つ芝生、その一面があっという間に黒く染まり枯れていく。まるで命を全て融かしていくような禍々しい闘気だった。
「俺は貴様を今ここで――!」「うるさいんだよ」
皐月が繰り出したのはこれまでとは打って変わった、突き。亜姫が幾度となく見てきた樫葉崎唯衣のレイピアの得意とする動きだった。
しかし、その一撃は亜姫が見慣れた幼馴染のそれよりも遥かに重厚に相手を刺す。
「ふごおおッ」
遠雷の轟きは黒檀色の鎧から発せられた物だった。嗚咽のような呻きに滲む憎悪と敵意。
明らかに手ごたえがある。
「皐月ッ!」
亜姫は一人果敢に戦う少年の名を叫んだ。
反撃に出る黒騎士。皐月の剣よりも長い両手剣が片腕で振るわれる。
渾身の一撃が一度、二度。打ち合った剣の重苦しい残響が、地に伏す亜姫の腹底を震わせた。
「おおおおおおおお!」
黒い騎士は瘴気を撒き散らし、足元に展開されていたARの石畳を黒い粉に分解していく。
「力負けしてるじゃないか。出し惜しみはしないって決めたのに」
呪詛のように呟く皐月。
「まだ振り絞れるはずだ。いくぞ――」
迫りくる黒騎士を前にしながら、夜の空気を吸い込んだ。
そして、自身の深層まで言い聞かすように言の葉を紡ぐ。
「――オーバーカレント」
途端、瞬く間に極彩色の帯が七つ。まるで、黒騎士のARが展開する漆黒の力場を押し戻すように、
それまで朧気に展開されていたARの景色は霧散、その向こうに立つ灰色のビルの景色までも上書きされ、亜姫達の視界に映る世界から夜の公園の姿は消え去る。
――果たして、そこに在るのは石畳の広場。中世の都市を思わせる世界だった。
皐月がこめかみを二度小突くと、亜姫から共有された黒騎士の持ち点が視界に表出する。それを確認しながら今一度息を整える。
彼女を助けたい一心でここまで来た。
試合が成立してるのかどうか、それすらも分からない。
だが、今はそんな事はどうでもよかった。
「絶対に許さない――潰す」
剣に力を込める。
この勝負を終わらせる最大級の一撃を。
ぴりと虹彩を焼く感覚は遠い日の記憶を呼び起こす。
「ああ、そうだ。俺は」
剣を握る手に宿った記憶が思考をあの頃に舞い戻らせていく。
――夕暮れの騎士道場、相手を迎え撃つ間合い、身体を巡る筋に込める力のタイミング、そして踏み込み。
じりじりと、夏の終わりの驟雨のように降り注ぐ蝉の声が耳朶に蘇る。
遠い昔の走馬灯。それはまるで、昨日の出来事のように鮮やかに色をもって皐月の脳裏に映し出される。その光景全てをことさら鮮明になぞった。
「俺は、あいつを――」
構え直した剣の重心を僅かに沈ませると、喧しかった蝉の声が遠く消え、見開いた先に夜闇に閉ざされた公園の姿が一瞬だけブレて見えた。
呼び起こすのは、あの日の自分。戦いと勝利を純粋に渇望していたあの日の自分。
とうの昔に消えたと思っていた心の芯はしっかり残っていたと、彼女が教えてくれたから。
「グラウラアアアアアアアアア!」
兜のスリットから覗いている、黒騎士の眼。青白く揺れる鬼火。
皐月にはとっくに分かっていた。奴の剣は久条の剣だ。
あの黒い影は自分自身だと、剣を合わせた時から感じた疑念は確信に変わる。
教導騎士として、帝徳で幾度となく身に纏った黒の鎧によく似た何かが目の前にいるのだ。
まるで、あの頃から舞い戻り皐月を殺しに来たかのように。
「来い」
向かい来る闇から逃げ続けるのはもう止めだと――心の中で強く叫ぶ。
それに応えるように、ぐんと音を立てて左腕が鳴る。
肺を、全身の血管を、灰色の濁流が皐月の中で決壊する程の
「おおおおおおおおおおおおお!」
剣を振りかぶると、夜天から一直線に稲妻が迸る。
眼前に迫りきっていた黒兜と交錯。夜闇でも鮮やかさを失わぬ青白い眼光を睨み返した。
鬼火のような黒騎士の眼光が尾を引いて跳ねる。次の瞬間にはロングソードの白刃が迫り、逆巻く剣圧が皐月の顔面をなじった。
「「はあああああああああああああ――――――アアアアア!」」
互いの切っ先が跳ね上がり、剣戟音が低く鳴り響いた。
黒騎士は右手、皐月は左手。腕一本で振るう剣が何度も打ち鳴らされる。その度に雷が幾度も鳴る。稲光が迸る。
ARの織り成す過剰ともいえる幻影が暴走したように表出しては消える。
「うっ!?」
亜姫はまだ動く両手で必死に耳を抑え込んだ。
どんな強敵にも臆せず向かってきた剣姫が怯むほどの衝撃音。
どん、どん。二度、三度。轟くのは腹の底まで響く低い唸り。
皐月が剣を渾身の力で打つ度に獣が唸る。残響のエフェクトは流星のように白く色づき夜に消えた。
「「ああああああッ!」」
どちらも倒れない。刃に肉を焼かれる痛覚。それでも尚、二人の騎士は霧煙る決闘場に立ち続ける。
試合などとっくに破綻していた。ここで行われているのは終わりのない剣の打ち合い。
戦いに死んだ古の戦士が行きつく先の天上で、永遠の時まで殺し合うように。
そんなやり取りを繰り返す中、皐月はふと思った。
――お前も俺も、囚われている。
手首を返し、そして、沈んだ諸刃の剣が思いもしない上天へと飛翔する。
皐月の剣が黒騎士の兜の顎先を打ち――
「え?」
遠くから聞こえたのはこの戦いを見ていた亜姫が漏らした声だ。
飛沫を上げた血潮のように、黒兜の赤い緒が夜天に舞う。
からん、と。遅れて聞こえるは間の抜けた音。それが終幕の鐘だった。
「やっぱり、お前か」
ARの虚飾が風に消え、剥がれた兜の下に現れたのは色白の青年だった。
目鼻のくっきりした誠実そうな顔立ち。静止したまま、細く薄い唇だけかたかた震えている。
「あ……ああ」
漆黒の籠手がゆっくりと動いた。鉄甲に包まれた五本の指先が別々の命を持った蟲のように彼の白貌を這いずり回っていた。
「久しぶりだな、優一」
そっと、皐月は剣を納めた。
「え? 終わったの?」
皆瀬亜姫はそう呟き、判断に迷っていた。
黒騎士の兜が弾かれ、あとに残されたのは静寂だけ。彼らはこれ以上の殺し合いを続けようとしない。
カチャリ、と鎧が鳴る。
皐月の背中越しに、ゆっくりと闇に消えていく青年の長身が見えた。
決闘を終えた雄鹿が勝敗を悟り慎ましく去り行くように。それを見送る皐月の背中。
一体、どんな気持ちで見ているのだろう。亜姫はどう声を掛けるべきか、見当もつけない。
「あの」
震える身をようやくの想いで起こした。腰が抜けていて下肢は未だ動かないままだ。
もう一度微風が吹き込み、亜姫の頬を撫でる。
「――良かった。無事で」
振り返った皐月に、思わず亜姫は息を呑んだ。
闇に包まれたその世界で。皐月の灰色の瞳は金色に輝いている――少なくとも、亜姫にはそう見えた。
「ああ、そうだったわ」
こめかみの自身のデバイスに指を伸ばし、解除する。それでようやく、すべて日常に戻る。
「俺はさ……皆瀬さん」
皐月は小さく笑みを零し、目いっぱいの優しい表情を作った。
この状況下でも自分を気遣っているのだと、亜姫は思った。
「うん。聞いてるよ、久条くん」
「きっと、俺があいつを殺しちゃった」
告げられるは、あまりにも純粋な殺意。
「それで、今も俺はあいつをきっと殺したい」
亜姫は初めて皐月の本心を聞いたような気がした。それほどまでに真っすぐな声音だった。
「そうなんだ」
騎士ならば勝利の為に生きるのは必然だ。
久条皐月に欠けていた何か。未だ其れは片鱗であるものの、亜姫は思い知る。
「ああ。何度でも俺はあいつを殺す。それで多分、ようやく俺は自分を取り戻せる」
純粋に剣を振りたい。ただそれだけの感情が源泉にある筈なのに。それはきっと変わらない形の筈なのに、殺すだなんて。
彼は何故こうも歪んで物事を捉えてしまうのだろう。
あまりに危うすぎる騎士の姿を見て、亜姫は思った。
「あの雨の日、君が俺を頼ってくれたから。だから俺はここに来れたんだ」
「そっか」
――私がそうしちゃったんだ。
亜姫の中で形作られていた久条皐月は完全に変容した。彼女の宿望が、彼を戦いの場に呼び戻した。
地獄の犬はやがて肥大し、自らを縛っていた鎖を噛み千切り――神を殺す。亜姫の脳裏にそんな、昔読み聞かされた絵本の一幕がよぎる。
だが、それをどうして亜姫に止める事ができよう。
亜姫は皐月に標を与え、彼は自らの意志でそれを目指そうと決めただけ。
そして何よりも、亜姫は神話の怪物を止める役目を帯びた英雄でも、まして神でも無い。
「ごめん、ごめん。優一」
月光に照らされた頬を伝う涙の筋を、亜姫は生涯忘れ得ぬ。
「皐月」
地べたに座ったまま、亜姫は騎士の名を呼んだ。
今すぐ立ち上がれたら彼の手を取れるのに。しかし、それはけして適わない。亜姫は立ち上がる事はできない。
「皆瀬さん」
不意に皐月が手を伸ばす。がっしりと開かれた手のひらが、伸ばし開いた亜姫の五本の指と絡み合う。
「聞いてくれ、皆瀬さん。俺は君の求めに応える」
「うん」
「この先もずっと、君の願いが叶うまで」
「うんっ」
今度は亜姫が、目いっぱいの涙を浮かべながら首を縦に振り頷いた。
皐月の背中には灰色の煙が燻っていて、不思議とそれが痩せぎすの馬の形にも見えた。
彼女を迎えに来た騎士。彼が乗るのは高貴な鎧を纏った戦馬でも、白い羽をはためかせた神馬でもなく、亡霊のように色あせた灰色の痩せ馬だ。
そして、その背に共に跨るお姫様もきっと灰にまみれた酷い姿をしている。
「私の方こそ、ありがとう」
じんと伝わる恍惚すら感じられる熱情に、亜姫は思わず身を震わせる。
「私を迎えに来てくれて、本当にありがとう」
二人はもう引き返せない。この誓いはきっと彼と彼女を縛るだろう。
騎士と姫君。
二人が解放されるのは唯一、この物語が終わりを迎える時だけだ。
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