1-4 春に啼く蝉
再会を果たした二人。
だが、和気藹々と亜姫を囲むクラスメートの輪の中に、空気のような皐月が入り込む余地もなく、接点もないまま数日が過ぎた。
授業を終えて皐月が向かったのは図書室。
下校ラッシュを避け、ここで小一時間ほど時間を潰すのが一年次からの皐月の日課になっている。
そっと端末の電源を落としながら中に入ると蔵書の匂いがした。
そこには視界中で主張する雑多な情報も同期している様々なアプリからの通知もない。
紙の本で埋め尽くされたこの図書室は、唯一拡張現実から逃れられる場所だった。
「若きウェルテルの悩みか」
書架で目についた一冊は酷く陰鬱としたタイトルだった。
作者はゲーテ。皐月の曾祖母と同じ欧州はドイツ出身の文豪である。何となく親近感を覚えながらそれを取って机に座る。
そして、ある程度ページを進めた所で、眠気を感じている事に気が付いた。
昨日はなかなか寝付けられなかった。
新学年が始まった事で緊張もあるのかもしれない。そんな事を思いながら窓辺を見る。
開け放たれた窓からは春の風が舞い込んでくる。温かで心地良く、眠気を誘う風。
いつの間にか視界に移り込んでいた活字はぼやけ、ページをめくる手の動きも止まっていく。
「ふぁ……ああ」
打ち寄せる波濤のように。
ゆったりとした周期で肩先を擦るのはカーテンの布地の感触か。それに身を任せながら、皐月は微睡みに落ちていった。
――かなかなと、季節外れのヒグラシが鳴いていた。
血塗られたような夕陽の中、ここはどこだと皐月は己の心に問いかける。
磨き抜かれた光沢を放つ板張りの床の果て、壁際に並ぶのは西洋甲冑。
銀色のフルプレートアーマーの上にはバケツをひっくり返したような兜が乗せられ、壁中に剣や盾も掛けられている。
日本古来の伝統的な道場内には似つかわしくない、西洋の武具防具。和と洋が強引に同化した歪な空間。
しかし、それは皐月にとっては見飽きた光景だった。
忘れようにも忘れられない、久条の家の騎士道場。物心ついた頃から日常をここで過ごしてきた。
一人納得すると、微かに板張りの床が鳴く。
『戦え』
はっとして手元を見る。
左腕だけを覆う異様に重厚な籠手(ガントレット)。めくれ上がった鱗を幾重にも重ねたような造詣の籠手の先には、無骨な西洋剣が握り締められていた。
剣も籠手も等しく鈍い銀色。
その境目は曖昧で、まるで剣と腕が同化した怪物になったかのような錯覚に陥る。
『戦え』
自分の名を呼ぶ男の声。
凛として落ち着いた、耳障りの良い低音。
しかし、その声は皐月の心をかえって深く抉る。
遥か先には、黒く塗りつぶされた男のシルエットが佇んでいた。
夕日の逆光で隠れたままの影は、皐月を見つけるとゆっくり近づいてくる。
「俺はもう騎士道なんてやりたくない」
『戦え、皐月』
皐月の感情を無視したような、言葉が繰り返される。
「嫌だ」
剣を捨て逃げようとする。
しかし、足は縫い付けられたように動かなかった。
「嫌だ! やめろ!」
思い通りにならない世界で、必死に叫べども声がしない。
喉奥を押し広げ咆哮しているのに、叫び声が発せられない。
「――――――――ッ!!」
影を近づけまいと叫ぶ。
無音の世界で皐月はもがき続けた。
「……あ」
がくん、と身体がずり落ちた所で、皐月はようやくそれが夢だった事を理解した。身体を包む悪寒と寝汗が徐々に退いていく。
それと同時に沸々とこみ上げてくる現実感。
ここはまだ学校だ。胸に手を当てると、心臓がどくどくと脈打っていた。
「大丈夫?」
「えっ」
不意に発せられた明朗な声。顔を上げた先でアイスブルーが瞬く。
「どうしたの?」
夕陽の逆光から目が慣れ、真向かいに座っていたのが皆瀬亜姫だと気づいたのは程なくしての事だった。
ぱたん、と。亜姫が読んでいた本を閉じる。
その表紙には『赤い竜の伝説』のタイトル。どうやら海外作家の本らしい。
「あ、その……」
何か言おうとするが、上手く言葉にできない。
気まずくなり机の木目をじっと見ていた。
「すごい声で叫んでたよ」
不意に、出てきたのは思いもしない一言だった。
「へ?」
悪夢の中で、叫びまくっていた気がする。亜姫はそれを言っているのだろう。
「もしかして、聞いてた……?」
「嘘」
そこで初めて皐月は気づく。亜姫は面白い物でも見たように目を細め、今にも笑い出しそうな表情を必死でこらえているではないか。
「は? もしかして、今のってカマかけた?」
皐月の顔面に熱が回る。きっと今の自分は相当に赤面しているだろう。
「あー、大丈夫だってば。少しうなされてるみたいだったけど。誰も気づいてない筈だって」
そう言って亜姫がくいと顔を向けた先では生徒達がぽつりぽつりと座っている。
静かに読書に耽ったり、自習をしたり思い思いに図書館を利用しているようだ。誰も皐月を気にしている素振りはない。
「ねえ、どんな夢見てたの?」
ほっとしたところで、亜姫の悪戯っぽい顔か近づいてくる。
「何かさあ、目覚めてからの慌てっぷりが尋常じゃないよね。もしかして、いやらしい夢でも見てた?」
指先をくるくる巡らせながら、わざとらしく思案してみせる亜姫。
同い年の筈なのに妙に大人びていて会話のリズムが狂う。
「そんな訳――」
「向きになるとこがあやしー」
「違うから!」
白い歯を見せてからかう少女に、皐月もまた躍起になって言い返した。
「違うよ。ただ昔の夢を見てただけだ」
「へえ。昔の?」
「ああ。すごく嫌な夢だった。もう見たくないのに何度も見るんだ」
冗談ではないのを察したのだろう。
それを聞いた亜姫から先刻までのからかう様子が消える。
――ていうか、ちょっと待て。何でこんなことになってる。
一人で図書館に来た筈なのに、目を覚ましたら待ち構えていたかのように亜姫が対面にいた。しかも、とてもリラックスした様子で本まで読んでいて。
そもそも、彼女は教室内でたくさんの同級生に囲まれていて、普通なら真っすぐ友達と帰るものじゃないのか。
それが、何故ここに。
「あのさ。君ってもしかしてクラスで浮いてる?」
亜姫から予想しない一言が飛んでくる。
「電車で会った時とは大違いだよ。教室で殆ど誰とも喋らないし。これじゃあ私の方から話しかけにくいじゃん」
指先を机の上に滑らせながら、亜姫がちらちらと周囲を気にしていた。
「そうか?」
「不自然じゃない? 転校生が構ってくれる同級生を差し置いて端の席の君に直行なんて」
どうやら亜姫はこの数日で皐月の教室内での立ち位置を熟知したらしい。
「で、後追って図書室に来てみたら寝てるし、何なのもう」
まくし立てるように言うと亜姫は顔を背けてしまった。その吹っ切れた言い方に皐月は思わず苦笑してしまう。
「とりあえず皆瀬さん。図書室では静かにした方がいい」
カウンターの図書委員からの殺気に気づいた皐月が慌てて忠告する。
しかし、そんな心配を余所に、亜姫はぐっと顔を詰めてくる。
ぴんと伸ばされた白い指先が皐月の鼻先で止まった。
「なにそれ。じゃあ、君のその派手な髪色はいいの?」
「髪は関係ないだろ、髪は」
謎の反論を受け流しながら、皐月はそっと椅子に座り直して距離を取る。
これ以上騒ぎ立てると図書室を出禁にされかねない。
「皆瀬さんが俺を探してるのは分かったよ。でも、何か用事でもあるの?」
「もう。この前の電車の事だよ。あの時はありがとうって」
ああ、と皐月は曖昧な声で答えた。
薄々分かってはいたが、いちいち話にするほどの事かと思っていたのだ。
そもそも、周囲の生徒達に知られるのは何となく嫌だった。
「まあ、どういたしまして」
「って事で、私と君はそこそこな知り合いなわけだし。学校案内してくんない?」
「は? 何でそうなる」
「ほら、他の子達はいつもグループ組んでるし、ガイドしてもらうなら静かな人にゆっくり案内して欲しいんだよね」
思わず閉口した。
口ぶりからすると、どこぞのお嬢様かと勘繰りたくなる。
まあ、帰国子女ってくらいだからそれなりの家なのだろうけど。
「私、こう見えて人見知りするんだ。だから聞く相手もいなくって」
嘘つけ。皐月が内心でぼやくと、亜姫がそれに反応する。
「あ、疑ってるでしょ。州国のスクールにいた頃は結局数人しか友達できなかったんだから」
「本当かな。君の中での友達の定義を教えて欲しいよ」
そう尋ねると、亜姫は嬉しそうに指折り数え始める。
「んー。一緒に釜の飯を食べて、一緒に寝て――」
ちょっと待ってくれ。
皐月は今度こそ頭を抱える。
「そこまでしてやっと友達というカテゴリに分類されるのか。君は」
ツッコミをしながら、ふと皐月自身の過去が脳裏を掠める。
――久条の家、そして中学校時代。
寝食を共にして騎士道競技に明け暮れた同輩たちはしかし、皐月の友達と言えるような間柄では無かった。
「え、なになに。もしかして変な事言った? 私」
表情を重くする皐月を見て、亜姫は何故か申し訳なさそうな顔をする。
きっと自責の念を感じているのだろう。
「違うよ。少し別の事を考えてただけ。というより」
皐月が顔を上げる。
「さっきの話。校内の案内してもいいよ」
「え、ほんと? ほんとに?」
呆気なく快諾する皐月。
そのあまりの掌返しに亜姫がぽかんとしている。
「いいから。早く出よう」
しきりにカウンターの方を気にしている皐月を、果たして亜姫は気づいていただろうか。
理由は明快だった。図書委員が腰を上げ、こちらに向かってくるのが見えたからだ。
図書室を出禁にされたら皐月の居場所はもう無い。
「何で急に……もしかして君ってツンデレ?」
しきりに尋ねてくる亜姫から逃げるように図書室を後にした。
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