1-2 気高き白き花
「はぁ~、助かった。ここ座らない?」
ぽんぽんと二度、空いていた隣の空席を叩かれ、促されるままに皐月は腰を下ろす。
「別に俺は」
咄嗟に返すものの、額を拭った手はうっすらと汗で湿り気を帯びていた。
「もしかして、さっきので疲れてる? 顔赤いよ?」
それに気づいたように皐月の額に手を当てる少女。綺麗な手だと思った。
触れた感触はひんやりとしているが、どこか優しい心地がする。
「そんな事よりも! あいつら、見るからにヤバそうだった」
ハッとした皐月が手をどけると、少女は残念そうに眉を寄せる。
懐いてくれない子犬に心を痛くしているような顔だった。
「下手に言い返して、事件に巻き込まれたらどうするつもりだったんだよ」
「ああ――それなら大丈夫だよ」
少女が床におろしていた荷物を膝に乗せる。見るからに重そうなそのショルダーバッグが白い膝にぐっと沈み込んでいた。
「何かあったらこれで小突いてやるつもりだったし」
ファスナー越しに見える金属質の輝き。フルートほどの長さのそれは剣だった。
鞘の全体には茨の生えた蔓を思わせるエングレーヴィングが施されている。
一目でそれが『騎士道競技』に用いる
平静を取り戻しながら、皐月はシートに腰を掛けなおす。
「君の剣か?」
「わかるんだ。もしかして、君も経験者?」
鞘鳴りの音を微かに響かせて現れる刀刃の煌めき。
間近に迫った紅い瞳は爛々と輝いていた。
「昔やってた。けど、もう辞めたよ」
「そっかあ」
背もたれに身体を預ける二人。
帝都の西へと向かうにつれ、がらんどうの車内の窓から見える景色は背の低いマンションやビルばかりになってきた。
「汝、弱きを尊び、かの者たちの守護者たれ」
その景観に眠気を覚え始めた頃合いで、唐突に発せられた言葉。
「汝、敵を前に退くことなかれ」
ぼんやりと聞き流す間も少女は詠唱のように言葉を続ける。
「汝、いついかなる時も正義と善の味方たれ、不正と悪に立ち向かうべし――って聞いてる?」
一人で唱え続けるのが流石に気まずくなったのか。少女が皐月の脇腹を小突く。
「聞いてるよ。騎士の精神とは何たるかとかそういうやつだろ?」
騎士道競技は技術以上に競技者の心構えも重要視されているスポーツだ。
弱きを助け、強きを倒す競技の理念は騎士道主義として、この国では武士道と並び人々が目指すものとされている。
これら理想を掲げする事で人々は戦争や災害で失われた八十年を耐え、今の世界平和に繋がっているのだと、そういう生き方こそ今の時代の人間には必要だと――皐月は幼い頃、嫌というほどに聞かされて育った。
しかし、同時にこうも思う。
「そんなもの所詮は綺麗事だよ」
道場を家族が運営していたせいか、騎士道競技は常に幼い皐月の身近な場所にあった。
家族から読み聞かされたのは西洋の騎士道物語や英雄譚ばかり、物心つく頃から皐月は騎士道という物を叩きこまれて生きてきた。
しかし、現実は非情だ。
ヒーローを目指した少年がいつかその夢から覚めるように、騎士道の美徳だけで上手くいくほど世界は簡単にできていない。
何より、それを皐月は散々に思い知らされてきたのだから。
「きれいごと? 違うわ。私が思うに、大切なのは『騎士道精神の精神』よ」
「なにそれ……」
しかし、少女は皐月が幼き頃から持っていた一つの真実を容易く粉砕して見せた。
「君が行動して証明してみせてくれた事だよ。さっきは助けてくれてありがとね」
「騎士道精神の精神、ねえ」
得意げに語られる少女の言葉を、皐月は呆然と聞いていた。
線路の継ぎ目を叩く列車の走行音がどこか遠い。
「この
「合衆国? 君、留学生なの?」
「これでも生粋の日本人だし。一応キコクシジョってやつ? 最近戻ってきたんだ」
そう言って、少女は鞄をそっと元居た足下に置き直す。
「でも、その髪」
その青みがかったブロンドから海外の留学生だと思っていた。
しかし、彼女が口にしているのは流暢な日本語。疑念が増していく。
皐月もまた日本人にしては風変りな金色混じりの黒髪だが、それは三代前に欧州の血が入っているからだ。
「こんな色だけど地毛なんだよね」
そんな皐月の心を透かしたようにサイドテールを摘み、見せつけるように揺らす少女。
「生まれつき髪の色素が薄くてさ」
「生まれつき? すごいな」
まじまじと見る皐月に、少女は耐えられないとでもいうのか。悩ましげに身をよじる。
これまでの自信に溢れた振る舞いが嘘のように照れているのがどこか可笑しい。
「そうだ。君は、今の君はさ――騎士道が嫌いなの?」
と、これまでの話を逸らすように、顔を上げる。
「どうして?」
「だって、さっき――」
少女は一瞬だけ物憂げな顔をするが、その言葉が続く事は無かった。
「あ! やば!」
急いだようにこめかみの端末を小突きARを起動させる。
彼女の視界を覆う帯のようなホロディスプレイには時刻表のような物が表示されているようだった。
「やっぱり次で乗り換えだあ」
「どこか用事?」
「昔の友達と久しぶりに会うの。高尾で! 高尾山観光! わかる?」
「あんまり」
ぼんやり答える皐月とは対照的に、少女は感情を前面に出してはしゃぐ。
それを見ながら、ふと思った。
皐月には昔馴染みの気心の知れた友人はいない。反面、少女は新しい友達を作るのも難なくできそうだ。何となく、自分との間にある壁を感じて空虚な気持ちになる。
「急いでるのに俺なんかの話に合わせてくれて……悪かったよ」
「悪くなんかないし。長々と付き合わせたのはこっちだよ。ほんと――」
そして、小さく目を逸らしながら、
「今日はありがと。助けてくれて、ありがとね」
密やかに付け加えられた言葉。
皐月の心の中にそれは栞のように挟みこまれた。
「だって、ああいうの許せなかったから」
ふと、彼女の視線がこちらを食い入るように見ているのに気づく。
まだ何か言いたかった皐月の感情はその視線に根負けしたように鳴りを潜めていく。
少女の深紅の瞳はその後も暫くの間、じっと見続けていた。
「例え騎士道を辞めても、君は誰よりも騎士らしい生き方してる。私を助けてくれたもん」
満面の笑みを作る少女の顔を、皐月は正視できない。
「俺はそんな大層な人間なんかじゃないよ。俺は――」
皐月は言いかけて思わず息をのんだ。
こちらを見る少女がいつの間にか、とても痛ましい表情をしていたからだ。その悲しげな表情は皐月の心もまた苦しめる。
しかし、彼女をこんな顔にした原因は自身の振る舞いのせいだ。
少女を助けようという一心で勝手に動いた身体だが、今はこうやって一つ考えを巡らした途端踏み止まってしまう。
そんな風にあれこれ考えてしまう自分自身が皐月は大嫌いだった。
「そうだ。せめてものなんだけど、君の名前を教えてくれるかしら?」
「名前?」
列車は駅に停まる。
放送に耳を傾けると、一つ速い電車との待ち合わせに入るとらしい。
「いいわ。私から名乗る……私はアキ。
皐月は声を詰まらせたまま見上げていた。
目の前で白い手を差し出され、握手を求めているのだと理解した時には既に遅かった。
「ねえってば。先に教えたんだから君の名前も教えてよ」
急かすように亜姫は手のひらを揺らしている。
仕方ないなと思いつつ、亜姫の掌を握り返す。
「皐月だよ。久条皐月」
温かな手のひらの感触がほんの僅かな時間、皐月に伝わる。
「皐月、あのさ。私は――」
荷物を持ち上げながら、何か言いたげな横顔が小さく声を紡いだ。
「私は騎士道競技好きだよ。じゃ、またね!」
満足そうな顔をしながら、亜姫は対面に丁度入って来た車両へと向かっていった。
春の陽に美しいサイドテールがきらきらと舞っている。このまま季節が温かくなると溶けて消えてしまいそうな、そんな儚さと危うさを想起させる
「変わった子だったな」
席が埋まり始めた車内で皐月は聞こえない程度の小声で呟く。
亜姫の乗った特別快速は一足先に駅を発ち、行きかう人波に鮮烈だった存在感は上書きされ消えていく。
まだ肌寒い風が入り込む車内で、皐月はふと手のひらを見つめた。握手の感触は思い出す事が出来るが、白い手の温かさは既にない。
「もう会う事なんてないのにな」
轟々と列車が動き始める中、一人
この広い東京で、たまたま同じ路線と時間、同じ車両で居合わせただけ。その中で交わした僅かなやり取り――それなのに。
「またね、か」
聞く者の心を引き付ける凛とした声音。記憶に遺された肉声が胸の内でもう一度甦る。
流れていく車窓。西日に染まった皐月の表情は、とても晴れ晴れとした物だった。
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