終章 青天

第1話 神戸市 南京町

 ようやくの晴天に、神戸中華街、冬の事務所に客人があった。

「暑いな。もう夏か」

「や、この暑さはフェイクやで。こっからまた梅雨に入って──それから本気の夏が来る」

 客人の名刺をじっくりと眺めながら、ふゆは応じる。今日の冬は黒いハイネックレースのトップスにたっぷりしたサイズのデニム、足元はサンダルという出立ちだった。丈の短いトップスでは隠せないくびれた腰と臍で光る小さなピアスに視線を奪われる者も多いだろうが、窓辺のソファに腰を下ろした客人はその大多数には含まれていなかった。

「ようやっと来れた。神戸の事務所」

 感慨深げに呟く男をちらりと見た冬は、

「そんなしみじみ言うほどのこと?」

「冬さんは会いに来られる側やから実感ないんやろ。俺はちゃうで。今の東條組で、冬さんと直接繋がれるパイプを持っとるんはだけやからな。あいつを出し抜くためにも絶対に──俺はここに辿り着かなあかんかった」

「出し抜く」

 物騒な言い方やね、と冬は白くなめらかなの肩を竦めて微笑む。

黒松くろまつ朝水あさみさん」

「おう。覚えてくれたんか」

「書いてある」

 名刺をひらひらと振る冬の指先に視線を向けた客人──東條組傘下朴東ぼくとう組組長黒松くろまつ朝水あさみは、分厚い体を揺らして笑った。

「覚えてくれや」

ヅゥは覚えとったで」

「おん。ヅゥさんな。下で会うたわ」

なんか喋ったん?」

「あん時? ああ、あの時か。いや別に。……ただヅゥさんにもビートルん中に避難してもらおと思ったら急に拳銃持って出てきて。驚いたわ」

ヅゥはな。ああ見えて結構な」

「結構、何や?」

「まあまあ。お互いあんまりぐいぐいするんもアレやないですか。ゆっくりやりましょ、ゆっくり」

「……せやな」

 ソファに背中を預けた黒松は「そういえば」と丸テーブルの上に置いてあった手提げの紙袋の中に手を突っ込む。

「こういうの好きなんやろ。買うて来たで」

「あ! 新作やん! やったーフラペチーノ!!」

 生クリームの上に鮮やかなピンク色のソースがたっぷり掛かった飲み物を、冬は満面の笑みで受け取る。

「黒松さん気ぃ利くやん。ええなあ、好きになっちゃう」

「なってくれなってくれ。こう見えて俺はな、次の東條の組長候補なんや」

「組長〜?」

 フラペチーノに付属の紙ストローではなく、部屋の奥から取り出してきたシリコンストローを突き刺しながら冬は小さく顔を傾ける。

「黒松さん、もう組長なんと違うん。の」

「なんで名前違うん?」

「最初の組長は俺やないから」

「そういうもんか」

「そういうもんや」

「ヤクザシステムよう分からん。まあええか。で、朴東組の組長もやりつつ東條の組長にもなりたい、と」

「なりたい、というか、せやな、東條の──うちの親父が入退院を繰り返しとるってことぐらい、あんたの耳には入っとるやろ?」

「そらね」

 自分の分のアイスコーヒーの蓋を外し、ストローを使わずに飲みながら黒松は尋ね、冬はあっさりと首を縦に振る。

「ざっくりとした話は聞いとる。警察避けの入退院やのうてほんまに具合が悪いって」

「癌や」

「癌か」

「年やからな。全身に転移して、もう手術もでけへん」

「そんな状態でよう生きとるな。生きとる方がつらいんと違うか」

「気力や」

「気力か……」

「次が決まるまでは親父も死なれへんやろ。せやから、そういう」

「ふうん。ヤクザも大変やね」

 葉巻に火を点けながら冬が呟くのと同時に黒松の背後から、「お茶は淹れないんですか?」という声が聞こえてくる。一階から上がってきたらしい、ヅゥの姿があった。あの鉄砲雨の日に出会った女と同一人物とは思えないほどに地味な佇まい──白髪をお団子に纏め、灰色のシャツに黒いエプロンを身に着けたヅゥは、テーブルの上の紙袋を目にするなり大きく顔を顰める。

「お客人にはお茶という約束でしょうに!」

「違うて! 黒松さんがうてきてくれてん! たまにはええやんかぁ……」

「人のせいにしない! まったく……今お淹れしますからね」

 呆れ顔のヅゥがいそいそと部屋の奥に向かう。おそらく台所か何かがあるのだろう。

「仲ええなぁ」

 ぽつりと呟くと、冬が大きな瞳を細めてにこりと笑う。

「ええよぉ。ヅゥには毎日叱られとるけど、叱られても腹立たへんのはヅゥだけ。あとユエ

 ユエ──というのは、ヅゥと同じように一階で仕事をしている男性、老人の名前だろう。二階のこの部屋に上げてもらうに当たって、男性の方とは特にこれといったやり取りはなかった。だが、冬がヅゥユエのふたりを心底信頼しているということだけは良く分かる。

 木製のトレーを持ったヅゥが、冬と黒松が向かい合って座る円卓の方へやって来る。トレーの上には白い牡丹が描かれた急須と、同じ柄の茶杯が置かれている。

ヅゥさんは一緒せんのか?」

「私は、これで」

 名残惜しそうな黒松に優雅に頭を下げ、ヅゥは現れた時と同じように静かに階段を降りていった。

「黒松さん、ヅゥのことがそんなに気に入ったん?」

 意外そうな声を上げる冬に、黒松は小さく溜息を吐く。

「あのド修羅場で回転式拳銃リボルバー出してくる人間にはそうそう出会えへんからな。俺は、こういう縁を大事にしたいタイプの古風なヤクザやねん」

「……『』って言わんのやね」

「言うわけあるかい。雨ヶ埼みたいな口は利かん」

 強い口調で断言する黒松の手元の茶杯に琥珀色の茶を注ぎながら「そんで」と冬は言った。声色が変わる。

「今日の黒松さんのご用件をまだ聞いとらんかったな。フラペチーノ差し入れして、ヅゥの顔見て、そんでお茶だけ飲みにきたわけでもないやろ」

「ああ」

 夏用スーツのふところから紙巻き煙草の箱を取り出す黒松の表情もまた、変わる。

「今日は、直接確認したいことがあって来た」


 まず──と黒松は人差し指を曲げる。

「ひとつ目。これは山田から聞いた話なんやけど、あいつ、雨ヶ埼邸の前で運転手の乗っとらんクルマに轢かれそうになったらしい」

山田さんペインレスが」

「おん。この件と、新地の『しおまねき』に幽霊が出た件は何か関係はあるんか? 山田がホラ吹いとるかラリっとるんでもない限り、化け物バケモンの類やろ」

「……ふたつ目は?」

 手元のお茶を啜りながら冬が促す。黒松は眉根を寄せ、

「『しおまねき』で死んだ連中の件や。大方鉱山会の関係者……会長から若衆まで20人前後ぐらいやけどな。あいつらの遺体が腐った理由は何や。東京で死んだ配信者の遺体が腐っとったんと何か繋がりでもあるんか」

「……」

 葉巻を咥え、煙を口の中で転がしながら冬は首を傾げる。「続けて」の顔だ。

「みっつ目──これは俺があんたに聞くんは筋違いなんやろうけど。配信者の動画に映り込んだ幽霊の件や。瓜生が解析を依頼しとったよな。結局どうなったんか、誰も聞いとらん。折角やから解析結果がどないやったのか聞いとこうとおもて」

「黒松さん、欲張りやなぁ」

 煙を吐き出しながら冬が苦笑する。

「いきなりそんなぎょうさん質問して……普通の依頼やったら七桁は取るで。いやほんまに」

「払え言うなら払うけど」

「ああ要らん要らん。なあ、ええか? 黒松さんがここに辿り着けたんは奇跡や。ああいう形で一緒したから、うちも、それにヅゥも黒松さんならええやろって話になったんや。ユエにはなんとなくしか説明してへんけど、そのうちちゃんと喋る機会もあるやろ。分かる? でもなく、わけでもなくうちとこうして茶ぁを飲める人間は──この世の中にはほとんどおらん。現時点やと、黒松さんが唯一無二や」

 唯一無二。その響きに黒松の頬が少しだけ緩む。

「基本、誰かの紹介やないとうてくれんのか」

「まあな。他の同業者がどういう手ぇを使つことるのか知らんけど、うちはそうしとる。ただ、紹介状を書いた人間には二度と会わん。そういう決まりなんや。信頼できる前任者が選んだ信頼できる人間に──ってそれはええねん。質問は以上か? もうないな?」

「いや、まだある」

「あるんかい! 追加料金取るど!」

 裏返った声を上げる冬の目を真っ直ぐに見詰めながら、黒松は続ける。

「冬さん、あん時……雨ヶ埼令に言うたやろ。『』って。あれはどういう意味や」

「あー……記憶力のおよろしいことで……」

「それから、最後に。雨ヶ埼はこれからどうなるんや」

「……以上やな。もうないな?」

 首肯して茶杯を口元に運ぶ黒松に、冬は声を抑えて言う。

「分かりやすいとこからいこか。まず配信者の動画に映り込んだ幽霊。うちが調べた限りあれは本物ホンモンや」

「CGとかやない、ほんまもんの幽霊ってことか」

「せやね。やけど、あの部屋で死んだあゆみかどうかは分からん」

「うん……?」

 訝しげな黒松に、冬は続ける。

「2年前にあの部屋であゆみという名前の女が殺された。この情報は、今回の事件に関わった人間だけやない、つまり──動画配信サイトやSNSなんかで、全員が共有しとる情報やろ」

「まあな。あゆみって名前は伏せられとったけど、2年前の殺人は当時のニュースにも載ったし」

「名前、源氏名だけやのうて本名もSNSとか検索したらすぐ出てくるで。人間はみんな人の不幸が大好きなんや」

「つまり?」

「映り込んだんはあゆみかもしれんし、あゆみやないかもしれん。そこはうちには……うちらには判断でけへん。実際、あの動画に映り込んだ女があゆみやっていう根拠の──見た連中がみんな言うとる桃色の着物の袖」

「あゆみが気に入って着とったっていう仕事着か」

「それがうちには

「え?」

 想定していない台詞だった。少しばかり焦って紙巻き煙草を咥える黒松に、

「あゆみやと思ったからあゆみに見えた。あゆみの気配を感じた。それだけやと思う。『しおまねき』が『ごくらく』やった時代に何らかの事故か事件があってあの部屋に思い残しがある、うちらの知らん誰かの幽霊って可能性も……まああるわね」

「なるほど」

 あの部屋で殺されたのはあゆみだけではないという可能性。そこには思い至っていなかった。あゆみだと思ったからあゆみに見えた。。雨ヶ埼は女性を人間扱いしていない。あの部屋で殺された女性が、あゆみだけとは限らない。想像力が足りていなかった。

「納得した?」

「ああ……この機会に自分の存在を世に知らしめようとしたんは、あの配信者だけやなかったってことか」

「ほな次」

 冬はさくさくと話題を移動させる。

「運転者のおらんクルマな。それに関しては、

「分からん……?」

 あまりにも軽やかな断言に、黒松はまた眉を顰める。

「あんたにも分からんことがあるんかいな」

「あるよそれは。いっぱいある。それに、うちとヅゥも雨ヶ埼邸の前で運転席が空のクルマにぶつけられそうになった」

「!」

 息を呑む男の顔を見据えながら、冬は淡々と続ける。

ヅゥグオやて言うてたな」

グオ?」

幽霊オバケって意味」

「……要するに、この世のものではないってことか」

山田さんペインレスがホラ吹いとるわけでもラリっとるわけでもない、と思う。実際うちらも遭遇しとるしな。問題は場所や」

「雨ヶ埼邸前か」

「そう。いかにもやろ。あの場所はな、やで黒松さん。……中に入ったことは?」

「ない」

 即答した黒松は「瓜生と山田はあるらしい」と付け加える。

「さよか。お祓いとかした方がええとは言わんけど、まあ──良くない場所には良くないもんが溜まるって話ですよ。正体不明のなんか知らんバケモンが、山田さんや、うちらを襲撃しようとした」

「ふむ。理由は、雨ヶ埼に敵対しとるから、ってとこか」

「……これはヅゥの受け売りやけど、あんま深く考えん方がええとは思う。グオは見られると喜ぶから」

「一般的に言う幽霊オバケも、せやな。意識されると喜んで付き纏ってくるとか。部屋に入りたがるとか」

「そういう話。黒松さんももう忘れた方がええ。うちもこの話題に触れるんはこれで最後にするわ」

「分かった」

 紫煙を吐き、茶杯を空にした黒松に、引き続き、と冬は続ける。

「『しおまねき』でのうなった人らが腐った件な。……ちなみにやけど、警察の司法解剖とかでも解決せんかったん?」

 問いかけに、黒松は素直に頷く。

「俺の情報提供者──あの日パトカー率いてきたおっちゃんがおったやろ。櫛崎くしざきていうねんけどな。その刑事おっちゃんから話を聞いたんやけど、死んですぐあんな風に遺体が腐るとか有り得へんて話で。解剖した医者もみんな混乱しとったって聞いたわ。せやけどこう……ウイルスとか、菌とか、そういう、死体を腐らせる物体も発見できてへんらしくて。今のところはやけど。ただ腐った。腐っただけで、原因はなんも分からんって」

「そんなら、やろなぁ」

 呪い。冬の口から溢れたその響きに、黒松はほとんど違和感を抱かなかった。

 そうだろう、と黒松自身考えていたからだ。

「雨ヶ埼の女の呪いか」

「せやね。そう考えるのが自然やね」

 警察によって掘り返された雨ヶ埼の私有地。禁足地。そこから溢れ出た大量の遺体。死骸。人骨。いくら四宮が葬式を上げたからといって、肉体そのものをあれほどまでに粗雑に扱われて、ゴミのように打ち捨てられて、いや、ように、などという話ではない、ゴミだ。ゴミとして扱われて、穏やかでいられる者などいるのだろうか。

 自分ならば無理だろう、と黒松は考える。

「いつ頃からあの場所に死体遺棄が行われてたか──とかは、警察の方では調べはついとんの?」

「まだや。だいぶ時間がかかるらしい。大雨でのせいで地崩れの恐れもあるし、そこをどうにか……って土を掘り返せば掘り返すだけ遺体や骨が増えてってどもこもならん、って櫛崎が言うとったわ」

「そんなら……まあ、やっぱ、呪いや」

 積もり積もった恨みが、憎しみが、新地で亡くなった者に向かう。そういうこともあるだろう。配信者・千蔵未樹は新地にカメラを持ち込むという禁忌を犯した。面白半分で伏せられていたものを暴こうとした。で、あれば。

「アレやな、こっちも……クルマの件と同じで、突っ込み過ぎん方が良さそうやな」

 冬は黙って首肯した。そういうことだ。

「そういえば──」

 茶杯が空になる。急須の中にももうお茶は残っていない。冬が席を立つ気配はないので、急須を片手に黒松は部屋の奥にある台所に向かう。

 紫がお湯を沸かしたと思しき薬缶が置いてあり、中にはまだ温かいお湯が残っている。

「もひとり死んだやん」

 冬の声が聞こえる。

「もひとり?」

 その話か、と合点しながら急須を持って窓辺のソファに戻る。

「仮出所の模範囚」

「そうそう。出てきてすぐ死んだって。心臓発作やっけ?」

「ほんまのとこは俺らも知らん。ただ、刑務所の前でぶっ倒れて死んだ。そんだけや」

「そんだけか」

 雨ヶ埼からの依頼を受けて新地の『ごくらく』のあゆみを殺害した男。雨ヶ埼というイエそのものが半壊している現在、彼を守る者はどこにもいない、誰もいない。

「言うたら全部繋がってるのかもしれんね」

 冬が呟く。

「あゆみ殺しの犯人は仮出所の時期まで聞いた上で仕事を引き受け、それとは別の場所で薊秋彦が駆け回り、更には雨ヶ埼令によるヤクザ殺し──2年前から、こうなるように全部繋がっとったんかもしれん」

「けったくそ悪い話やで」

 もしも雨ヶ埼が無事に薊秋彦を排除していたら。もしもあの配信者がこのタイミングで『しおまねき』に上がっていなかったら。もしも瓜生静と山田徹のあいだに何も繋がりがなく、千蔵未樹の死体の状況を確認することができなかったら。もしも──ひとつでもパーツが欠けていたら。

「薊秋彦は死なんで済んだんかな」

「代わりに別の誰かが死ぬ羽目になっただけやと思うで」

 軽やかに一蹴され、黒松は「せやな」と呟いて苦く笑う。

 そういうものだろう。

 そうして、命を落としていたのは黒松だったかもしれない。それはごめんだ。薊秋彦の死を悼む気持ちはあるけれど、彼の身代わりになる気はまったくない。

「うちらは」

 薄い味の茶を啜りながら冬が言う。

「情報を売り、人材を派遣する。自発的に動くことはほとんどない。外からの依頼がなければ動かれへん側の人間や」

「地獄の人材派遣業──て聞いたで。どえらい通称やな」

「実際その通りやしな。黒松さんの知らん殺し屋も何人も抱え込んどる。でもその殺し屋連中も、依頼を受けてようやく派遣できる。うち自身もそうや。依頼がなければ、にでけることはなんもあれへん。必死こいて集めた情報もうちのここで、」

 と冬は己の胸元をトントンと叩き、

「腐るだけ」

「それは……」

「雨ヶ埼のことは気色悪い連中やとおもてた。ここ十数年で女の不審死が増えとるな、って気になっとった。それでも、思うだけや。依頼人がおらなんだら、うちには、何もでけん。雨ヶ埼を相手に喧嘩をするんは、冬の仕事ではないんよ」

 冬とは、そういう存在なのだろう、と黒松にも理解ができた。

 黒社会の裏側を、裏の裏をすべて把握していても、情報を持っていても、何を知っていても、何を知らなくても、自発的に動くことはできない。事件に自ら首を突っ込むことは許されない。。冬にはそれだけの力がある。

「瓜生が依頼してくれて、助かったんはうちも同じや」

「……さよか」

「──さて、これが最後の解答になるけど。雨ヶ埼の今後な」

 手元の茶杯をひと息に空にして、冬は言った。

「たとえばの話や。たとえばやで、黒松さん」

「おう。そんな念を押さんでも何もかも全部頭から信じ込むほど若ないわい」

「ほなら良かった。雨ヶ埼はな──雨ヶ埼令には、生殖能力がない」

「は?」

 茶杯を手に、黒松が眉を寄せる。冬の言葉に、というよりは、その情報を今開示する意味について混乱している顔だった。

「インポってことか」

「いや。せやなくてもっと根本的な。無精子症とでも言うたらええんかな。うちも今回この件に首突っ込んで初めて知ったんやけど……これ、雨ヶ埼の息がかかっとる医者の診断書」

 と、冬が取り出したタブレットを黒松は神妙な顔で受け取る。診断書というものに、そもそも縁のない商売をしている。何が書かれているのかも良く分からない。

「あいつがのうなったら雨ヶ埼は終わるんや」

「終わる……」

「意外やろ。金儲け大好き一族やのに、血ぃの繋がりも金とおんなじぐらい大事にしとるんや。キッショ」

「確かに気色悪い話やな。そういえば自分らの家に生まれた人間を売ることにも固執しとったし、そうか、血の繋がりが途切れたらあいつらは終わるんか」

 それではこれ以上、悪いことは起きないのだろうか。雨ヶ埼令の身柄は警察にあり、彼が檻から出る日は当分──いや、永遠に来ない。それほどまでに雨ヶ埼の罪は重い。

 安堵の色を浮かべる黒松とは裏腹に、冬の表情は冴えなかった。

「終わるとええんやけど」

「なんや。歯切れの悪い」

「なぁ黒松さん。これはうちの独り言として聞いてほしいんやけど」

 胸の前で指を組み、窓の外に視線を向けながら冬は呟いた。

「25年前。薊秋彦と雨ヶ埼烏子は一緒になった。烏子は結婚から半年でのうなったけど、秋彦と烏子の関係は半年やそこらの短いもんやない。高利貸しと客として、かなり長い時間を付かず離れず過ごしとったはずや」

 黒松は黙って紙巻きを咥え、ライターで火を点ける。冬の視線は逸らされたままだ。

「薊秋彦が婿入りを決心したきっかけ。何やろなってずっと探ってた。それで気付いたんよ」

 こども。

 冬は、くちびるの形だけでそう呟いた。

 黒松は、飲んだばかりの茶が喉奥から迫り上がってくるのを感じた。

「──雨ヶ埼が、まだ、どこかで、続いてたとしたら、どないする?」

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