第2話 山田

 ホテルを出て、タクシーを捕まえた。自身の宿には戻る気はなかった。私物といえば着替えと煙草ぐらいしか置いていない。捨ててしまっても問題はない。


 新地に向かう。間宮最は黒縁の眼鏡ではなく縁なしの色付き眼鏡をかけ(「度入りです」と言っていた)、髪をさらりと後ろに撫で付け、ノーカラーの黒いボタンシャツにかっちりとした印象を与えるダークグレーのセットアップを身に着けている。足元も大阪にやって来た当日のワインレッドの革靴ではなく、黒いスニーカーだ。

 山田は昨日着たのと同じシャツ、同じジャケット、同じ靴で、とりあえず下着だけは換えた。間宮がホテル内にあるコンビニで買ってきてくれた。

「ずいぶんイメージが違うな」

「新地は、私のような人間を嫌いますからね」

「女って意味?」

「そう。私の恋愛、性愛対象には女性も含まれますけど、新地にそれは通用しない」

「まあ、それはその通りだな。幾らカネを積んで店の女を抱きたいって頼み込んでも、『女』な時点で弾かれる」

「不思議な街ですね」

「不思議……かな。そうかもしれない」

 タクシーの運転手に会話を聞かれても別に構わない、そんな気持ちで喋っていた。間宮自身が口にしている通り、彼女の恋愛、性愛の対象にはたしかに同性が含まれている。山田も同じだ。性別で相手を選んだことがない。それでも山田は新地の客として受け入れられ、間宮は拒まれる。

「要するにそれは、変装?」

「変装というか……山田さん忘れてません? 『しおまねき』では2年前に女性が殺害されている」

「忘れてねえよ」

 だから『禁足地のミッキー』の動画が大流行──。手ブレが激しい映像に映り込んだ2年前に殺された女の着物の袖、そこに浮かび上がる不気味な笑顔。手の込んだ悪戯と取るか、本物の心霊動画と解釈するか。見た人間によって抱いた感想は異なるだろうけれど、千蔵未樹本人はその動画で時の人となった。そして死んだ。

「私はまだ、その部屋を見ていない」

「俺だって見てねえよ」

「どうして見に行かなかったんですか?」

「それは……」

 どうしてだろう。言われてみれば不思議だ。山田徹は一度たりとも『しおまねき』に客として上がっていない。瓜生静も同様だ、おそらく。『しおまねき』に足を踏み入れて死んだのは、瓜生の部下であった谷家、そして東條組傘下の鉱山会の関係者たち。

?」

「……何?」

「『しおまねき』にはヤクザしか来ないわけじゃないですよね。?」

「──分からない」

 色付き眼鏡の奥の間宮の瞳が、じっと山田を見詰めている。やっぱり、と形の良いくちびるが僅かに動いた。

 タクシーが、新地の入り口に到着する。

 山田のスーツのふところでは、瓜生からの着信が続いている。面倒臭くなって電源を切った。


 瓜生も、何かを隠している。

 そして山田も、間宮という味方の存在を、彼には明らかにしていない。


 お互い様だ。


 糸雨が降り頻る道を、間宮と肩を並べてゆっくりと歩く。ふたりとも傘は持っていない。午前中の早い時間ということもあってか、どの店も入り口を固く閉ざしている。『しおまねき』に向かう途中『くさり』という名の看板の前を通った。鉱山会が取り仕切っている店だ。会長を含んだ構成員がバタバタと亡くなった今、この店の用心棒ケツモチはいったい誰が担当することになるのだろう。

 『しおまねき』の前に辿り着く。間宮の腕を引き、店の裏手に回り込んだ。裏口の鍵は開いていた。

「邪魔するよ」

 声をかけて、扉を開く。中にはいつも店先に座っているやり手婆と──雨ヶ埼あまがさき秋彦あきひこがいた。

「山田」

「どうも、おはようございます」

「こんな早くに、何を……そっちは?」

 山田の巨躯の陰に隠れていた間宮の姿を目敏く認めた秋彦が、唸るように尋ねる。

「おはようございます、探偵です」

 ぴょこんと顔を覗かせて、間宮は言った。

「探偵?」

「女は店には上げられへんで」

 婆が刺々しい声で言った。間宮はへにゃりと相好を崩す。友好的にいくつもりなのだ。友好的に──突破できるか? この状況を?

「はい、承知の上です! ですので、開店前にお邪魔しました!」

「はあ……?」

 婆が呆れたような声を上げ、秋彦に目配せをする。この女を外に放り出せ、の意だ。

 秋彦が大きく溜息を吐く。

「あのなあ、お嬢さん──」

「見せてください、2年前にあゆみさんが死んだ部屋」

「!」

 間宮が爽やかな口調で言い放ち、山田は眉を跳ね上げて女の横顔を見下ろす。殺人事件の被害者の名前を、間宮に告げてあっただろうか。2年前でここで人が死んだという話だけは伝えた記憶があるけれど。

「秋彦さん、あんた……!」

 婆の怒りの先が秋彦に移動する。火の点いた煙草を手にした秋彦が、間宮の顔をじっと見上げている。

「探偵さん──名前は」

「間宮最と申します。名刺です」

「雨ヶ埼秋彦。ここの責任者だ」

「存じております」

「だろうな」

 山田の顔に視線を向けながら、秋彦がうんざりと嘆息する。

「山田、なぜ彼女を、ここに」

「俺ひとりじゃあ手に負えんからですよ。分かるでしょ?」


 ──秋彦さん、あなたの手にも、もう負えないでしょう?


 山田の内心が、秋彦に伝わったかどうかは分からない。だが秋彦は、出しっぱなしの炬燵の上に置かれた灰皿に煙草を押し込んで、腰を撫でながら立ち上がった。

「二階か」

「秋彦さん!?」

 婆が血相を変えている。無理もない。

「今ならまだ、誰もいないだろう」

「そうだといいんですけどね」

 秋彦に先導されて、間宮が『しおまねき』の二階に上がる。

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