4章 遠雷

第1話 山田

「秋彦さん」

「なんだ」

「あんた、雨ヶ埼の女と寝たことありますか」

「あるよ」

「……それ嫁さんのことですよね?」

「嫁? ああ、烏子からすこか。そうだよ」

「嫁さん以外に、ですよ。『』の──」

「あるはずないだろ、馬鹿が。雨ヶ埼の人間が売り物に手ぇ付けてどうするんだよ」

「雨ヶ埼の人間、ですか」

「そうだよ」

「……秋彦さんは、自分のこと本気で雨ヶ埼の人間だと思ってるんですか?」

「どういう意味だ?」

 煙草の灰が落ちた。

 フィルターぎりぎりまで吸った紙巻きを灰皿に放り投げ、山田徹は溜息を吐く。


 今日は、雨ヶ埼秋彦をホテルの部屋に招いた。雨ヶ埼家の客室に行く気にはなれなかった。令を同伴しても良いかと聞かれたが「できれば遠慮して欲しい」と返した。秋彦は事情を詮索せず、ひとりでホテルのエントランスに現れた。


 部屋の中にあるバーカウンターで何か酒を用意しようとしたら「買ってきた」と2リットルの緑茶のペットボトルを渡された。洒落たデザインのグラスに緑茶を注ぎ、座り心地の良いひとり掛けのソファにそれぞれ腰を下ろし、丸テーブルを挟んで向かい合った。

「俺にとってのあんたは今でも高利貸しの鬼薊おにあざみです。瓜生もそう思ってんじゃねえかな」

「──だが俺は、烏子に頼まれて雨ヶ埼家に養子に入った。書類上も、完全に雨ヶ埼の人間だ」

「書類一枚でそこまで何もかも変えられるもんですかね?」

「何が言いたい?」

 秋彦を怒らせる意図はない。山田は秋彦を──高利貸しの薊秋彦を尊敬していた。過去形ではない。今でも。彼は常にひとりだった。誰ともつるもうとしなかった。ひとりで金を貸し、ひとりで取り立てた。山田たち関東玄國会の人間と衝突することもあった。また、ケツ持ちを申し出たこともあった。秋彦はすべてを鼻で笑って一蹴した。


 孤独に耐えられる人間を、山田徹は尊敬する。


「瓜生に聞きました。秋彦さんが雨ヶ埼に入って、仕事の内容を整理して、不本意に体を売らされていた女たちも別の場所に移したりして……随分雨ヶ埼は変わったって」

「だから?」

「でも、秋彦さんのやり方を嫌う女もいたんですよね?」

「男と寝て金を得るのが性に合ってるやつだっているさ」

?」

 銀糸の髪をゆるく流した秋彦が、色素の薄い目で山田を睨んだ。令も似たような瞳の色をしているが、彼のあの色合いは生まれつきだろう。秋彦の目が今よりもっと濃い色をしていた頃を山田は知っている。

 鬼薊も、寄る年波には勝てないのだ。

「なんだろうな」

 短い沈黙ののち、秋彦が言った。

「俺も知りたい」

「秋彦さんが別の仕事を斡旋するって提案して、それを断って新地に座り続けるにしても雨ヶ埼家のために魂を削るようなやり方をする必要はないって言ってるのに、そのすべてに反抗する女たちっていうのは……何、なんですか」

「山田おまえ本気でその話がしたいのか?」

「質問で質問で返すの良くないと思いますけど」

「うるせえな」

 秋彦が嗤う。

「生きてて地獄でも死んだら極楽。そう思わないとやっていけないんだろ」

「あんたが、地獄から普通ぐらいの場所まで引っ張り上げようとしてるのに?」

「辺りが暗すぎて、蜘蛛の糸が見えてねえんだろうよ」

「令くんってなんなんですか?」

「は?」

 秋彦の痩せた頬が僅かに痙攣する。苛立ちの色が見て取れる。

「令がなんだって?」

「俺あの子も雨ヶ埼の『』なのかと思ってた」

「山田」

「でも違いますね、自分で言ってた。令くんも雨ヶ埼の男だって」

「やめろ」

「秋彦さんどうするんですか。嫁さん死んだでしょ。もう東京あっちに戻りましょうよ」

「おまえ……」

 手元の緑茶をひと息に飲み干し、秋彦は大きく溜息を吐いた。

「令を連れて来るなというから何事かと思ったら……」

「やっぱこの件おかしいと思うんですよね。極楽浄土? 殺人事件? それに東條組の人間がもう20人近くくたばってる。正直もう関わり合いになりたくない」

「正直だな山田。俺はおまえのそういうところ嫌いじゃなかったよ、ヤクザのくせにな」

「正直で可愛らしいところが売りなんです俺は。それで、秋彦さん」

「……俺の女房は、俺に賭けてくたばったんだ」

 秋彦は言い、ひっそりと笑った。

「期待を裏切れない」

「もう死んでるのに?」

「もう死んでるから」

 余計に、な。

 秋彦の情緒が、山田には正しく理解できない。

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