第2話 瓜生
やはりというかなんというか、面倒なことになった。一旦部屋を出て行った黒松が勢い良く戻ってきて「山田、来てくれ」と無理やりに東京からの客人を連れ去ってしまったのだ。山田は飼い主から強引に引き離される仔犬のような目をしてこちらを見ていたが、幸いにも瓜生は山田の飼い主でも親でも恋人でもないのでひらひらを手を振って彼の後ろ姿を見送った。
内科医の診察室に、ひとりになった。話し合う相手もいない。
デスクに「使用終了」とメモを一枚残して部屋を出、階段で一階のエントランス(内科医の診察室は総合病院の三階にあった)まで降りて、タクシーを捕まえて許勢組の事務所に戻った。事務所の雰囲気はいつも通りだった。鉱山会の七人が亡くなったという話は既に全員に知れ渡っていた。箝口令を敷いていたわけではないので、特に気にはならなかった。
神戸に行くことにした。
谷家に運転手を任せようとスマートフォンを手にし──気付く。谷家は死んだのだ。
仕方なく、部屋の掃除をしていた若衆を捕まえて駐車場に連れて行った。神戸、と短く行き先を告げた。バックミラーに映る若衆の顔は明らかに困惑していたが「神戸市に入ったら起こしてくれ」とだけ告げて、背凭れに体を預けて目を閉じた。少しばかり疲れていた。
高速はどうやら空いていた、らしい。30分もしないうちに「神戸です、組長」という声で起こされた。大きく欠伸をした瓜生は窓の外の景色を一瞥し「南京町、中華街」と告げた。そこでようやく若衆にも瓜生の目的が伝わったらしい──谷家が相手なら、話はもっと早かった。
高速を降りて10分もしないうちに南京町に到着した。「一緒に行きますか」と尋ねる若衆に万札を握らせ、
「すぐ戻れるようにしとけ」
とだけ命じて、瓜生はひとり観光客で溢れる街の中に足を踏み入れた。
東西南北の道がちょうど交差する十字路に、その店はある。ぱっと見はただの観光客向けの土産屋だ。大陸から輸入したのであろうお茶や菓子、それにお守りなんかを売っている、洒落っ気のない小さな店で、店頭にはいつも同じ壮年の男女が座っている。おそらく夫婦だろう。
「どうも」
ふところから名刺入れを取り出し、品物の整理をしている銀髪の女に瓜生は頭を下げる。
「大阪の
東條組の紋が押された名刺を差し出しながら言うと、丸眼鏡の奥の瞳を細めた女が無言で名刺を手に取り、店の中へと姿を消す。待つこと5分。
「どうぞ」
掠れ声が呼んだ。この店で差し出すための名刺を、瓜生は常に持ち歩いている。同業者や、商売相手に渡すものとはまったく違う作りの名刺。派手すぎてはいけない。かといって地味でもいけない。埋没してしまうから。この店のあるじの好みに合わせた、一癖ある名刺を持っていなくてはならない。
店の奥に足を踏み入れる瓜生とすれ違うようにして、女が店先に戻って行く。その際、お茶の匂いだろうか。良い香りがした。
ぎしぎしと軋む木の階段を上り、二階へ。『在室中』というプレートが揺れる飴色の扉をノックすると「どうぞ」と中から声がした。
「ご無沙汰しとります。東條の、」
「瓜生静。ほんまにご無沙汰やね。まあ、便りがないのは良い便り、ともいうし、別に気にはしとらんけど」
黒に近い緑で塗られた壁、部屋の左右にある大きな窓からは外の街並みを見下ろすことができるようになっており、声の主は窓辺に置かれたひとり掛けのソファの上にあぐらをかいて、爪に色を塗っているところだった。部屋一面に敷き詰められた真っ赤な絨毯を踏み締めて家主の側に近付いた瓜生は、
「座っても?」
「ええよ。あ、お茶とか適当にアレして、今爪が……」
「ほな、お言葉に甘えて……
丸テーブルの上にマニキュアの小瓶を幾つも転がしている部屋の主──
「チャイティーラテ!」
「それ、俺が作んの無理あるでしょ。
「冗談や。あんたが飲むもんと一緒でええよ」
「ほなら、この凍頂烏龍茶いうの淹れてみますかね」
「ちゃんと急須
「かしこまり……」
木製のトレーに赤い牡丹が描かれた急須と、同じ柄の茶杯をふたつ乗せて窓際の席に戻る。ようやく爪を塗り終えたらしい
「こうやってしとったら可愛いやろ」
「はあ。俺にはなんやよう分からんけど」
「瓜生の爪も塗ったろか。ラメラメの黒とか」
「黒? それ俺のイメージまんまで逆におもんない気ぃしますけど」
「そらそやな」
と楽しげに笑った冬は──名古屋以西で生きる反社会的勢力の人間、或いはそういった組織に属してはいないものの日の当たらない道を歩く者には良く知られた存在である。
中華街の悪魔、地獄の人材派遣業。
世界の裏側の情報をすべて掌握する化け物。
「先日、うちの谷家がのうなりまして」
「聞いとる」
長い前髪に、白いうなじが丸見えになるほどに襟足を刈り上げた冬は、ご愁傷様や、と呟いて茶を啜る。
瓜生は、冬の正確な年齢を知らない。見た目だけで予想するならば20代前半というところだが、それだけは有り得ない。冬は10年前からこの姿なのだ。何も変わらない。10年前。先代の冬が引退し、今の冬に代替わりをした。先代の冬も女だった。いつも墨染めの
当代の冬は、季節を問わず黒いオフショルダーのトップスにデニムのショートパンツを履いており、用事があって訪問すると大抵の場合はこうして熱心に爪に色を乗せている。それに胸がでかい。とても。瓜生はあまり興味がないから目のやり場に困るということはないのだが、冬の外見に無闇に言及して出禁になった人間もいると聞く。愚かな話だ。
「谷家ちゃん、何遍か
外見だけならば谷家の方がずっと年上のはずなのに、冬はまるで年上の親戚のような言い方をする。
「新地の『しおまねき』やっけ?」
「話が早い」
「そらな。情報はうちらの大事な商材やからな。……で? 瓜生は、今日は何を買いに来たん」
冬が扱う情報は、決して安くはない。人材派遣でも同じことだ。ここで気軽にどうでもいい質問を口にして、帰り際、一階にあるレジでとんでもない額を請求されるという事態は回避したい。スーツのポケットから煙草を取り出し、火を点けながら瓜生は数秒熟考する。
「四宮」
「しのみや」
澄んだ声で冬が繰り返す。
「巫女か」
「巫女なんか? 正直言うて、俺にはなんも分かっとらんような状態で」
「四宮か……四宮……四宮言うたら発生源は東京やろ。うちよりも秋の方が詳しいんと違うかな」
「東京か……今、東京から人を呼んどって」
「ペインレス」
「え?」
「玄國会の
無痛症のあの男はそんな通称で知られているのか。思わず笑ってしまった。ペインレス。横文字と山田徹の相性は、どうやらこの上なく悪い。
「何がおもろいねん」
「いや……」
些か機嫌を悪くした様子の冬の茶杯にお茶を注ぎ足してやりながら、瓜生は首を横に振る。
「俺の知ってる山田徹は、横文字で『ペインレス』っちゅう感じと違うんで」
「そうなん? めちゃめちゃイケメンなんやろ。紹介してや」
「ええ……」
冬は、思いの外、俗っぽい。こうして直接面会するまでのハードルはとても高いし、名刺一枚で部屋に通される身分になるまで瓜生とて何年もの月日を要したのだが、常連になればなったで気軽に与太を飛ばされるので困る。どこまで本気なのか分からない。
「イケメンかなぁ? 俺にはよう分かりませんけど」
「写真とかないの。見してや」
「写真ねぇ……」
と、スマートフォンの画像フォルダを開いた瓜生は、あ、と声を上げて冬の大きな目を真っ直ぐに覗き込んだ。
「
「ん? なんやなんや、四宮とは別件か?」
どこから取り出したのか葉巻ケースをテーブルの上に置いた冬が、にこりと微笑んで顔を傾ける。
「見てほしい動画があるんや」
そう言って、瓜生はスマートフォンの中に保存してある動画のサムネイルを指先でタップした。
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