幕間

都内某所

 動画配信者の住所氏名を特定するのは簡単だった。新地の隠し撮り動画で一頻り後、有名配信者の仲間入りをしたというのだから世の中は単純だ。アレがいったいどういった類の動画なのかを深く考えもせずに見て、噂をして、拡散する。聞けば、動画配信者の行動に触発されたのか、ほかにも新地にカメラを持ち込もうとする人間が後を絶たないというではないか。ここは東京で、向こうは大阪。こちらはで、あちらは。地域も組織もまるで違うし、友好関係にあるわけでもない東條組に協力する理由などまるでない、と言ってしまえばその通りなのだが──。


 先月引っ越しを終えたばかりだという築浅セキュリティ万全のオートロック付きマンション。入居先である最上階の部屋の管理を担当している不動産屋の社員を呼び付けて、エントランスの扉を開けさせた。

「あの……こちらの住民の方に何か……?」

 問いかけの形が微妙に間違っている。不動産屋が本当に知りたいのは「住民の方何か」だ。それはその通りだろう。先月入居してきた人気動画配信者の元に得体の知れない隻腕の無頼が訪ねてきたとなれば、不審に感じるのも無理はない。また、一介の不動産屋の手に負えないような問題が起きているのだとしたら、──と考えても、仕方のない話だ。

「合鍵」

 質問には答えず、命じた。年の頃は20代半ばといった雰囲気の社員の男は鞄の中から一本の鍵を取り出し、欠けていない右手に握らせようとする。

「おい、何考えてるんだ? 俺がドア開けたらおかしいだろうが。あんたが開けるんだよ」

「で、でも……」

「いいから」

 黙って開けろ。半ば唸るように命じると、若者はこの世の終わりのように顔を歪めながら手の中の鍵を鍵穴に突っ込んだ。


 ──腐臭がする。


 気付いたのは自分だけではないだろう。顔半分を覆っていた黒いマスクを下げ、くん、と鼻を鳴らす。白いマスク姿の若者は怯えた様子で視線を彷徨わせている。

「防犯カメラ……」

「え?」

「マンションの防犯カメラを確認しろ。この部屋の住人は、いったいいつから外に出ていない?」

「そ、それは、その、あの、プライバシーの問題がありますので……」

「御託はいいから本社でも本部でもそういうのが分かるところに連絡しろ、ちくしょう、くせえ!!」

 靴を脱ごうとしてやめた。もともとは飴色であったと想像はできるが、今はその面影すら残らない濁った色に変色した廊下を革靴で踏み締めて進む。スマートフォンを手にした若者が「待ってください、土足はダメです、靴は脱いで」と喚きながら後を追ってくる。


 ひとつ目のドア。寝室。人の姿なし。


 ふたつ目のドア。トイレ。人の姿なし。


 みっつ目のドア。脱衣所兼洗面所。人の姿なし。


 その奥のドア。風呂場。人の姿あり。


 予想通りの死体だ。

 きちんと腐っている。


 マスクを戻し、死んでる、と声を張り上げた。

「え? な、何、え──────…………っ!?」

 こちらに来いとは命じなかった。見たものを素直に伝えただけだ。それなのにスマートフォンで上司だかなんだか分からない誰かと通話をしながら若者は風呂場を覗き、そしてものすごい勢いでその場に吐瀉物を吐き散らかした。


 死体は浴槽の中に沈んでいる。たっぷりと湯が張られている。血液と体液ともしかしたらそれ以外の何らかの液体とが混ざり合って純粋な湯とは呼べなくなってしまったドロドロと汚れた湯と溶け合うようにして、死体が腐っている。


 若者の吐瀉物を踏まぬよう大股で、後退りで廊下に戻る。その場に四つん這いになってゲロを吐き続けている若者の体を跨ぐのに躊躇いはなかった。リビングの様子も確認する予定だったがやめた。他の死体が転がっている可能性もあるし、何もない可能性もある。どっちでもいい。とにかく、これ以上何かを知る必要はまったくない。


 大切なのは、ひとりが既に死んでいるという現実だ。

 おそらく、例のあの動画を撮った男だ。

 新地で、女が着る和服の袖に浮かび上がる顔を撮影し、動画配信サイトに掲載した男だ。


 風呂場と脱衣所の境目に膝をついて吐き続ける若者の背中を見ながら、レザージャケットのふところに突っ込んであったスマートフォンを取り出した。

 着信履歴のいちばん上に残る11桁をタップする。

「俺だ」

 コール一回で繋がった。相手が声を発するより先に早口で今見たものについて告げる。

「死んでる。浴槽で腐ってやがる。不動産屋に防犯カメラを確認させる」

『……やっぱ仕事早いな、あんた』

 助かるわぁ、と笑いを含んだ関西弁が鼓膜を揺らす。

『死体の写真送ってくれへん? 俺も見たいわ』

「お断りだね、あんなもの撮影して俺まですることになったら困る。どうしても見てえなら警視庁にでも掛け合えよ」

『残念やけど警視庁には知り合いがおらんねん。コネ作んのも大変やなぁ。まあええわ。──なあ山田さん、ちょっと大阪こっちに遊びにえへん?』

 まるで観光旅行にでも誘うかのような男の声に、隻腕の無頼──関東玄國会に籍を置くヤクザ、山田やまだとおるはうんざりとため息を吐いた。


「前にも伝えなかったか? 俺ぁ面倒ごとは嫌いなんだがな、瓜生うりゅうよ」

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