第6話 瓜生

「アレは雨ヶ埼ウチの店だ」

「へえ?」

 谷家のスマートフォンに「鬼薊とお茶」とだけメッセージを送り、瓜生静と雨ヶ埼秋彦は徒歩で新地を出た。天王寺駅前まで歩き、目に付いた喫茶店に入った。喫煙席で紙巻きを取り出す秋彦に、瓜生はライターを差し出す。

「許勢組の組長がこんなことしていいのか?」

「火ぃのこと? 俺は別に。気に入ったやつにしかこんなことしませんし」

「そうか」

 白いエプロンを付けたウェイターがコーヒーを運んでくる。秋彦はブラックで、瓜生は手元にある砂糖とミルクをドバドバと入れて飲んだ。

「甘党?」

「頭痛がするんすわ」

「頭痛? 気圧か?」

「ですかね。分からんけど」

 甘いものを口にすれば頭痛が治るというわけではないが、急な頭痛を感じるとすぐに甘いものを口に入れることでその場を凌いできた。スーツのポケットには金平糖の小さな包みも入っている。

「あんたがさっき座ってた、あの」

「『』?」

 変な名前の店だ。2年前に殺人事件が起きた時には、違う屋号を使っていたという記憶もある。

「ちょっと用事があって顔を出したら、あんたがいた」

 そんなことだろうと思った。そうでもなければ雨ヶ埼秋彦があのタイミングで店の前に立つなんて有り得ないだろう。

「変えたんすか、名前、店の」

「そう。前の名前はどうも縁起が悪いってあの婆さんが」

「人も死にましたしねぇ」

「殺されたのは雨ヶ埼の女だ」

「──」


 雨ヶ埼は、雨ヶ埼の女を売る。ほかの女たちとは違う異形の魅力を持つ女たちを。拝金の一族の財産のほとんどは、不運にも雨ヶ埼の家に生まれ落ちてしまった女たちの憎悪と苦痛によって積み上げられている。


「あんたが婿に入っても、やり方は変えられんかったんですか」

 少し意外な気持ちで尋ねた。死んだ秋彦の妻、雨ヶ埼烏子は、何かを変えるために関東で出会った高利貸しの男を自分の生まれ故郷に連れてきたのではなかったのか。

 何も変わっていないのだとしたら、雨ヶ埼烏子はなぜ死んだのか。

「変えたよ」

 灰皿に煙草を捻じ込みながら、秋彦はしゃがれ声で答えた。

「俺だって雨ヶ埼ほどじゃないが稼いでた。高利貸しなんて物騒な商売を半世紀以上していたんだからな。その稼ぎで、貯め込んでいたカネで、日本中至る所に売り飛ばされていた雨ヶ埼の女を目に付いた順に買い戻した」

 咥え煙草の瓜生は一瞬、本当に一瞬秋彦に見惚れた。こんなことは滅多にない。己の見目を使って他者を陥落することはあっても、陥落させられるなんてことは──しかもこんな年寄りに──

 カフェの窓際の席に腰掛け、差し込んで来る雨上がりの陽光を浴びながら言葉を紡ぐ雨ヶ埼秋彦は、奇妙に映った。

「けどなぁ、瓜生さんよ。俺ぁカネがあれば全部解決できると思ってた。雨ヶ埼がカネのために他人様の人生を好き勝手するなら、俺も俺のカネを使って暴れてやろうと思ってた。買い戻した女全部を食わせてやるぐらいの財産はな、あったんだよ、俺の財布ん中にも、それに蔵にも」

「蔵?」

「あの家の庭、でかいだろう。端っこに古い蔵が建ってて、中に金銀財宝──とまではいかないが、東京にいた頃に手に入れた純金の塊がどかどか積んである」

「……そんな話、ヤクザに聞かせてええんですか? 半グレ使って強盗するかも」

「欲しいなら言え、もう要らねえしくれてやるよあんなもん」

 長々と息を吐いた秋彦が、今度は自分で自分の煙草に火を点ける。

「戻らねえんだ。女たちが」

 瓜生は無言で目を眇める。なぜ。そんなことに。

「俺は雨ヶ埼の事情には詳しくないですけど──男最優先、女は売り物、みたいなやり方としとるってことぐらいは知っとります。せやから俺らヤクザも雨ヶ埼にはあんま関わり合いになりたないというか。近付いたらこっちまで汚くなりそうで嫌やなっていうか……」

「分かるよ。俺だって烏子に頼まれなかったら雨ヶ埼の尻拭いなんか引き受けなかった。瓜生さん、あんたの言う通り。雨ヶ埼の水は腐りきってる。そして困ったことに、

 つまり──この男は何を言いたいのか。

 ぬるくなったコーヒーを舐めながら、瓜生は眉を寄せる。

「売り飛ばされた女は皆『』と思い込んでいる」

「──は? 洗脳?」

 尋ねた瓜生に「その表現も正しいと思う」と秋彦は応じた。

「おまえが働くことで雨ヶ埼は救われる、おまえは必ず報われる、いつかきっと迎えに行く──実の親や兄弟にそんな風に言われて、涙を流して拝まれて、いや、もっと酷いかもしれないな、生まれた時から何度も囁かれるわけだ『おまえの献身がイエを救う』『雨ヶ埼の女は皆に行ける』──」

「ちょい待ち」

 2本目の煙草を取り出そうとしていた手を止め、瓜生は秋彦の言葉を遮った。

 極楽浄土?

「急にそんな、えっ極楽浄土? はあ? そんなんもう、カネやのうて宗教の話やないですか」

「妙だろ?」

 秋彦の長いまつ毛が静かに上下を繰り返す。

「俺だって東京にいた頃雨ヶ埼の噂を聞いてはいた。俺と同じぐらい、いや、俺以上にカネを愛する壊れた一族がいるって噂をな。でもその、極楽浄土っていうのはいったいなんだ? 女房、烏子もそんな話はしていなかった」

「気になりますねぇ」

 奇妙で、不快で、愉快なことになってきた。

 極楽浄土とは何の話だ。雨ヶ埼の店──『しおまねき』に出る幽霊の正体はなんだ。

 あの店で2年前に起きた殺人事件とは、関係があるのか。

「あっ」

「ん?」

「あかん、忘れとった」

 ポケットに突っ込んでいたスマートフォンを取り出すと、着信履歴が10件以上。『しおまねき』に残してきた谷家からだ。

「秋彦さんとこの店でうちの若いのを遊ばせとったんですよ」

「そうかよ。今後ともどうもご贔屓に」

「もう店出たんかな、なんやこの着信の量せっかちさんが……うん?」

 スマホに残されていたのは音声通話の着信履歴だけではない。メッセージアプリに、画像が何枚か送られてきている。

 メッセージはない。画像だけ。

「……何や、これ」

 谷家の手を取った女は桃色のワンピースを着ていた。だから、仮に谷家が彼女を隠し撮りしたとしても、白い着物の袖なんか写らないはずだ。

 その白い着物の上に、拭っても洗っても落ちない血痕が滲み出るように女の顔が浮かび上がっている、なんてこと、起こるはずがないのに。

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