第5話 瓜生
本来ならば許勢組組長がわざわざ出張るような話ではない。しかし気になった。鬼薊を追い出すべく、嫌悪している
新地の店には、基本的にヤクザは関わらない。個人的に女を抱きに行くというのが目的ならともかく、仕事にはならないからだ。みかじめ料、用心棒代という名目で金を取ることができない。新地は世間に半分公認されている売春地帯である。『店の女と客との自由恋愛』という言葉の影で行われる売春行為。だがそれを咎めることがヤクザにできるだろうか。もっと悪どいことを行っているというのに。
しかし、東條組はそんな新地に一軒だけ店を持っている。持っているというか正確には、新地に既に存在する店に反社会的勢力という身分を隠して女を流し、管理している。東條組が関与するずっと以前から、腐りきっていた店だった。勤めていた人材もいい女から順に次々に辞め、あの頃はもう碌な人材が残っていなかった。そこに滑り込んだのが、たしか──
「
「はい?」
「せやせや、鉱山会や。思い出した」
「ああ、新地の店の……え、今思い出したんですか?」
「おん。あっこの会長とはどうも気が合わんでな。顔も忘れとったわ」
「組長……」
新地に向かうクルマの中で、運転席の谷家が眉を下げて苦笑している。
「幹部会で顔合わせることもあるでしょうに」
「まあ適当にニコニコしとったらええねや、そういう時は」
「そういうもんですかぁ」
「そういうもんよ。何せ俺は顔がええからなぁ。ニコニコで全部解決できるんや、このツラに生んでくれたお母ちゃんに感謝やで」
瓜生とは反りの合わない鉱山会の会長が、傾いた店を元に戻すことができると店主に話を持ちかけた。それが始まりだったと記憶している。事情のある女、行き場のない女、逃げてきた女、そういう女たちを、鉱山会に属する男たちが次々に新地に送り込んだ。みかじめ料はなし、用心棒代も。何せ新地にはヤクザが存在しないのが売りのひとつなのだから。代わりに鉱山会は、少しばかりの管理費と、女たちの『躾け』を申し出た。
瓜生たちは今、鉱山会の持ち物である店のすぐ先にある、別の店を目的地としてクルマを走らせている。
「せやけど、自分らの趣味で始めたような商いやのに、なんで俺に話を回してくるんや」
「それがどうも分からんのですよね」
「……ユーレイが怖いんかな」
「そないなことありますか? 俺は生きとる人間の方がよっぽど怖いなぁ。路駐取り締まっとるケーサツとか!」
クルマの中で悪趣味な笑いが弾けた。
車窓を雨粒が叩いている。
目的地に辿り着く頃には、雨は止んでいた。曇天の下で僅かに頭痛を感じつつ、谷家に先導されながら問題の店の前に立つ。
「なんや。ヤクザか」
「おう
「どないもこないもあれへん。──どうせあんたも見たんやろ、アレ」
「アレか」
例の動画のことだろう。顔を大仰に顰めるやり手婆の傍らで、綺麗に着飾った若い女が目を丸くしてこちらを見詰めている。痩せた女だ。年の頃が幾つかは知らないが、標準体重をだいぶ下回った体型をしている。目が大きく、くちびるがふっくらとしている。顔をいじった痕跡はない。
「なんなんやアレは」
「こっちが知りたいわ。ヤクザやろあんた、ちゃんと調べえや」
「ヤクザはヤクザやぞ。探偵と
「なんでもええわ。……警察は頼りにならんし」
「そうなんか?」
意外だった。新地では『店の女と客との自由恋愛』が頻繁に行われ、もちろん男女間の揉め事もこれでもかというほど起きる。男が揉め事の火種を作るケースが多い、と瓜生個人は認識している。厄介ごとの現場が新地以外のソープやヘルスであれば、まず呼び出されるのはケツモチのヤクザだ。だが、新地ではそうはいかない。新地はヤクザと関わりがない。だから警察が出てくる。
再び大仰に息を吐いた婆が、瓜生と谷家を交互に見較べて言った。
「どっちか遊んで行きや。アレのせいで客足がガクッと減ってなぁ」
「……谷家」
「えええ?」
店の女と上がれ、と顎で示した瓜生の前で、谷家が露骨に狼狽えている。童貞でもなかろうに。
「何や兄ちゃん、新地は初めてか。丁度ええ、色々教えたり」
「どうぞ」
困惑した表情の谷家に手を差し出して、女がニコリと微笑む。瓜生がふところから財布を取り出すのを目にした谷家は、観念した様子で女の手を取り、店の奥の階段を上がって行った。
諭吉を10枚。きちんと揃えて婆に渡し、瓜生は先ほどまで女が座っていた場所にどっかと腰を下ろした。煙草を取り出すと、婆がしわくちゃの手を突き出してくる。紙巻きを一本渡し、火を点けてやった。
「幽霊なぁ」
「せや。あの客おかしいとは
「おかしいって分かっとったのに、なんで上げた。断ったら良かったやんけ」
「これよ」
と、婆は手渡したばかりの諭吉をひらひらと振って見せる。
「あんたと同じだけ渡してきたわ。ピン札。怪しいとは
「そんなん言うても結局金に負けとるがな。あんたの見る目がなかったって話やろ」
「ああいう怪しい客でも客は客や。あんた知らんわけやないやろ、2年前」
「おん……」
不意に話を振られる。2年前。殺人事件の件だ。覚えている。殺されたのはこの店の女だった。
「部屋も全部……リフォームやなんやて金かけて。畳も全部取り替えて。血だらけやったからな、部屋中真っ赤」
「さよかぁ」
「それでも噂は広がるやろ。人の死んだ店やてな。自殺したわけでもないんに。火消ししてもしてもよう燃える。なああんた、うちの店は被害者やで」
婆はよく喋る。鬱憤が溜まっているのだろう。
「警察は?」
「言うたやろ。なんもせん。殺人犯逮捕したら終わりや」
「逮捕はされたんやっけ。見回りとかは?」
「来るはずないやろ。実際」
あんたも、と婆の分厚い瞼の奥の瞳が瓜生を睨んだ。
「あの変なあんちゃんの動画に幽霊が映ったから、わざわざ様子見に来たんやろ。ヤクザ」
「……言い訳はせん。その通りや。ここの二軒前に『くさり』って店があるやろ」
「ああ、珍しくヤクザが付いとる」
「詳しいな」
「そらな。同業やからな」
「鉱山会言うてな。まあ俺の同僚のヤクザや。そいつらの代わりに様子を見に来たんが、俺」
「なんでケツモチ──コーザンカイが直接
「知らん。ユーレイが怖いんと違うか」
谷家にかけた言葉と同じ台詞を舌に載せると、婆は笑わず、うんざりした様子で溜め息を吐いた。
「
「うん……?」
どういう意味か、と尋ねようとした瓜生の顔の上に、淡い影が落ちた。いつの間にか雨雲が去り、日差しが戻り、その太陽の光を背にして人が立っている。
「……おいおい」
聞き覚えのある声だった。それも、かなり最近耳にした。
「ヤクザも売るのかい、この店は」
「──鬼薊」
片手に杖を提げた銀髪の老人──雨ヶ埼秋彦が呆れ顔で瓜生を見下ろしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます