第3話 瓜生
雨ヶ埼邸に足を踏み入れるのは初めてだが、側を通りかかることは何度もあった。雨ヶ埼という名前をいつから使っているのかは知る由もないけれど、広い敷地をぐるりと囲む灰色の壁にはいかにも年季が入っており、瓦葺きの屋根が覗く邸宅はさながら堅牢な城のように映った。
秋彦が正門を蹴り上げるようにして開け、中に入る。瓜生も迷わず彼の背中を追う。と、門をくぐってすぐの場所に、大きな石碑が建っているのに気付く。
──女。
一文字そう書かれている、石碑。壁や建物とは違い、まだだいぶ新しい。あの墓石──雨ヶ埼烏子が眠る墓と同じぐらいの年月しか経っていないようにも見える。
「瓜生さん」
「ああ、はい」
壁の大きさから想像していた通り、庭も広い。だが庭木の手入れはずいぶんと長い間怠っているようだ。立派な松の木や、あれは梅の木だろうか。種類はともかく、どこもかしこも荒れ放題。東條組の関係者には庭木の手入れを生業としている者もいる。秋彦が望むなら腕の良い職人を紹介してやっても良いだろう。そんな風に思うほど、瓜生は既に秋彦を気に入っていた。
「戻った」
玄関で声を上げる秋彦を迎える者は誰もいない。本当に彼は、この家では嫌われているのだろう。ひとりの若い男が長い腕足を絡れさせるようにして飛び出して来たのは、瓜生がひっそりと笑いながら傘を畳み終えた瞬間だった。
「シュウさん!」
「
「どこ行っとったん!? なんで俺になんも言わんで出かけるん!?」
「おまえ、寝てただろうが」
「起こしたらええやん!」
「二度起こした」
「起きるまで起こしてやぁ!」
とんだ駄々っ子のご登場だ。端正な顔立ちの『レイ』と呼ばれる男が銀髪の秋彦にしがみ付いて喚き散らす姿は正直滑稽であり、不気味でもあり、自己紹介のタイミングを逸した瓜生は濡れた傘を手に下げたままふたりの姿を黙って眺めることしかできなかった。
「……シュウさん、誰?」
手持ち無沙汰の瓜生の存在に、先に気付いたのは散々に騒ぎ散らかし満足した様子の『レイ』の方だった。ああ、と秋彦は低く呻き、
「瓜生さんだ」
「瓜生さん?」
はじめまして、と『レイ』が花咲くような笑みを浮かべる。いやに甘ったるく幼い、警戒心の薄い笑顔だった。
「雨ヶ埼令です。いややなシュウさん、お客さん来るならちゃんと連絡してや」
「したよ」
たしかに、墓地を出る前に秋彦はスマートフォンで何やらメッセージを送信していた。あれから数分しか経っていない。
「してへん!」
「した。見ろ」
うんざりした様子で雨ヶ埼令を押し退けて廊下に上がる秋彦の口調も、どこか甘く優しい。なるほどそういうことか、と瓜生は密かに合点する。秋彦の今の
瓜生を客室に通した秋彦が、手元のリモコンで何かを操作している。
「床暖房」
「あ、お気遣いどうも」
「花冷えってのか。俺は嫌いでね」
畳敷きの部屋にも床暖房を設置することができるのか。最近リフォームしたのだろうか。室温の上がり始めた部屋で瓜生は上着を脱ぎ、秋彦がそれを受け取ってハンガーに掛けた。
「お茶とコーヒーどっちが好きです!?」
「着替えてくる」と言い置いて秋彦が閉めたばかりの襖を音を響かせて開け、令が顔を覗かせる。勢いに押されて「お茶」と呟いてしまった瓜生の顔を見上げた令はニッと白い歯を見せて笑い、
「やと思った! お茶とお羊羹、ちょっと今これしかないんやけど」
「いえいえそんな……お気遣い……」
どうもテンポが狂う。烏の濡れ羽色の髪を肩口でゆるく纏めた雨ヶ埼令は黒猫のようにするりと部屋に入り込み、座卓の上に湯呑み、それに羊羹が乗った皿を並べる。彼の両手の薬指が欠損していることに、瓜生は不意に気付く。気付いたからといってどうという話でもないが。
おそらく紫檀であろう艶のある座卓の縁をなんとなく撫でながら、瓜生は座布団の上にあぐらをかいていた。スーツから泥染めの
「令、それ賞味期限大丈夫なんだろうな」
「昨日
親子にも見えるし、祖父と孫にも見えるし、恋人同士のようにも思える。瓜生にはまだ彼らの関係に名前を付けることができない。だが、雨ヶ埼令が秋彦にひどく懐いており、秋彦がそれを受け入れているということだけは理解ができた。やはり、
座卓を挟んで瓜生の正面に座った秋彦の傍らに、令は当たり前のような顔をして
「詳しくお聞かせ願おうか」
「詳しく言うても、さっきお話ししたんで全部なんですけどね」
「さっきってなに? 俺にも聞かせてや」
自分で淹れたお茶を美味しそうに飲みながら令が瞳を瞬かせる。長いまつ毛がゆらゆらと揺れて、白皙の肌に影を落とした。
「秋彦さんをこのおうちから追い出す話」
「まーたその話!」
振る舞いからして相当の阿呆だと踏んでいたのだが、意外とそうでもないようだった。尾を踏まれた猫のように飛び上がった令は、鼻の上に皺を寄せていかにも嫌そうな顔をする。
「今度は誰? 誰がそんなしょうもないこと言うてるんですか!?」
「え、あ、カズキとかいう──」
「あのドスケベか!!」
「おい、落ち着け令。瓜生さんも、ちょっと黙って」
座布団を蹴って立ち上がる令のスウェットを掴んで、秋彦がまた溜息を吐く。瓜生は呆気に取られている。
それより。
「ドスケベ?」
「従兄弟の一樹のことですわ! あいつすぐ俺のこといっつもホテルに誘うんですよ、ほんまに最悪や!」
「へーえ」
「瓜生さんもそういうのされることないです? イケメンやもん! っていうか瓜生さんって上の名前? 下の名前? カッコいい名前ですね、うりゅうさん!」
捲し立てられる言葉の情報量が多い。阿呆というよりは無邪気なのだろうか。秋彦によって座布団の上に引きずり戻された令が、頬を膨らませて「一樹か〜」と憎々しげに繰り返している。
「俺はまあ……最近はないですね」
やんわりと応じる瓜生の目を覗き込んだ令が、
「ほんまに? 最近はってことは昔はあったんですよね? イケメンやもんなぁ。今はどうやって断っとるんです? 俺アホやからすぐ変なとこ連れてかれそうになって……」
「そんな面倒な話やないですよ。
「おい」
別に悪気はなかった。雨ヶ埼令に犯罪の片棒を担がせるつもりもない。純粋に──護身用としておすすめなのが『拳銃』だった。それだけなのだが。
「やめろ、変なこと吹き込むな」
「拳銃? 瓜生さん拳銃持っとるんですか?」
「ヤクザですし」
「ヤクザ!? ……あっ東條組!?」
令の声が引っくり返る。静かに、と秋彦が眉間に皺を寄せて唸った。
「えー……
「名刺要ります?」
「ください!」
「おい」
瓜生の差し出した名刺を、令は嬉しそうに受け取った。瞳の中に星がある。本当に邪気のない、可愛らしい顔をした男だ。面構えはもちろん、くるくる変わる表情も愛らしい。よく誘われると言うのも仕方がない気がする。
「雨ヶ埼一樹と、従兄弟ってことは」
「あ、えーっと……俺の死んだ? 殺された? 親父と、一樹の父親が兄弟なんですよね。まあ一樹の親父も死んだんですけど」
雨ヶ埼令の父親の名前はなんだったか。思い出せない。それとも最初から記憶の中にないだけだろうか。
ともあれ目の前にいるこの妙に無邪気な男が、死んだ雨ヶ埼宗治の傀儡候補だったというわけだ。
その計画も薊秋彦の介入によって阻止されてしまったのだけど。
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