第2話 瓜生
雨が降っていた。咲いたばかりの桜は皆散った。
瓜生静は墓地にいた。
紺色の傘を手に、男がひとりこちらに近付いてくる。ビニール傘を少し傾けて、瓜生は口の端に笑みを湛えた。
「鬼薊に
「もう雨ヶ埼だ」
「俺らにとってはあんたの苗字がどうでも別に構へんのですよ。問題は──中身」
「墓参りに付き合え。話はそれからだ」
冷たく言い捨て踵を返す男の銀髪がふわりと揺れる。背筋の伸びた、
雨ヶ埼
闇金全盛期である関東圏、首都東京で、ひとり粛々と金を貸し、取り立て、生計を立ててきた男だ。彼の丁寧な仕事に関しては、顔を合わせたことのない瓜生や、関西東條組に属する者たちの耳にも入っていた。それがいつ、なぜ薊の屋号を捨ててまで雨ヶ埼の女と一緒になったのか、理由も時期も瓜生は知らない。知る必要があれば調べれば良いと思っている。今は、別に、情報として必要ではない。だから放っておく。
空の木桶に柄杓とスポンジ、それに雑巾などを放り込んだ秋彦は、迷いのない足取りでひとつの墓石の前に立つ。
──
墓石の前で手を合わせた秋彦は開いたままの傘をその場に置くと、自身の体が濡れるのも気にならない様子で墓石を磨き始める。瓜生は彼の側に立ち、頭の上にビニール傘を差し出した。秋彦は瓜生を見もせずに、気が済むまで墓石を磨き、再度手を合わせ、足元の傘を拾った。
「女房ですか」
「ああ」
「
「俺が養子に入って半年か」
「こう……」
空いている方の手で自身の頸動脈の辺りを叩いて見せる瓜生に、秋彦は首を横に振る。
「寿命」
「若かったのに?」
「寿命だ。……それよりおまえ東條組だろ。俺に何の用事だ?」
「ああ」
鬼薊。相手が彼でなければこんな口の利き方は絶対に許さない。他人に下に見られるのは大嫌いだ。殺してやりたくなる。特にこういう──親子ほどに年の離れた男性が、瓜生は心底嫌いだった。年功序列? 年の功? 知ったことか。弱肉強食。若くて強くて頭の良い者だけが生き残る。そういう社会であって欲しい。せめてこちら側、瓜生静という人間が首までどっぷり浸かっている黒社会ぐらいはそういう序列でなければ、あまりにもつまらないじゃないか、世界が。
しかし、薊秋彦、雨ヶ埼秋彦という人間は瓜生から見ても充分に貫禄があり、いつでも人を殺せそうな目をしていて、先日東條組本部にやってきた死んだ先代の息子とかいうボンクラよりもよほど会話をする価値があると思えた。この男ならいい。この男なら許そう。
「雨ヶ埼
「……ああ? ああ……
一瞬訝しげな表情をした秋彦は、すぐに合点した様子でその名を口にした。宗治。雨ヶ埼
とうに死んだ男。
「一樹がどうした。ヤクザ相手に何かするほど馬鹿じゃねえだろう」
「何かというか、お手紙片手に
「ほう?」
驚かない。やはりこの男がいい。この男の方がいい。
「手を組みたい、と」
「雨ヶ埼と? ……そういえばあんた、誰だっけ?」
「関西東條組若頭、瓜生静と申します」
差し出した名刺が雨に濡れるより早く、秋彦が己の傘の下に引き込んだ。瓜生の腕ごと、引き込んだ。
「金箔かよ」
「お洒落でしょう?」
「悪趣味だ、ヤクザは、みんな。俺は嫌いだね」
吐き捨てるように言い、名刺を摘み上げた秋彦が瓜生の腕を解放する。スーツの袖が濡れてしまった。
「雨ヶ埼と東條が組んで、何をするってんだ? もともと仲が良いわけでもねえんだろ? 俺が何も知らないだけか」
「あんたを追い出す」
「俺を?」
「正確には」
と、瓜生は再び自身の首筋に──今度は指先一本で線を引いて見せる。
秋彦が静かに息を吐いた。溜息、よりも嘆息に近い。呆れの色が濃く見える。
「馬鹿じゃねえの」
「関西の人間にそれ言うたら怒られますよ」
「知るかよ。烏子も
「レイ?」
「……あんた。瓜生さんとかいったか」
背の高い男である。瓜生よりは幾らか小柄だが、それでも、この年齢の人間の中ではかなりの長身の部類に入る。それに姿勢も良い。老眼鏡の世話になっていない灰色の虹彩が、ぎらりと光って瓜生を映した。
「茶でも飲んでくか? すぐそこだ」
「はい。ぜひ」
雨ヶ埼邸からこの墓地までは歩いて5分、晴れの日ならばもっと早く移動できるだろう。秋彦がどの程度の頻度で『妻』の墓参りをしているのかを想像しながら、瓜生は紺色の傘の後に続いた。
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