1.依鳥緑は勉強が分からないと言う


神様とは――。

そう尋ねられた時、思い浮かべる姿は人によって様々なカタチになるだろう。

宗教や国による違いはもちろんあるだろうが。白い髪とヒゲを蓄えたおじいさんの姿かもしれない。

天使の輪と翼を持つ美女かもしれない。

見るだけで複雑だと分かる機械の塊かもしれない。

あるいはただの黒く、艶やかな球体を思い浮かべる人だっているだろう。

そう言う私、津々浦麗が思い浮かべる神様はどうかと言うと――。

「お願い津々浦!勉強教えてぇ!」

ショートヘアで表情豊か。好奇心旺盛で自由気ままな猫のよう。背が伸びるのを期待しているのか、ワンサイズ大きいダボついたブレザーを来た姿だ。

しかも人に教えを乞うてくる。



『依鳥緑は勉強が分からないと言う』



それは、初めての中間テストを目前に控えた春の日のことだった。

うちの高校はどうやら部活動にあまり力を入れていないようで、テスト前はほとんどの部活が休みになり、皆んな勉強に明け暮れる。私もそうだ。……まぁ帰宅部なのだけれど。

図書委員になったのも、図書室の鍵を持ち出せるからで、下校時間ギリギリまで図書室に居座れるからだ。

私がそんなことをしていると知った緑は、放課後の私を捕まえると、あのように頼み込んできた。

「いいけど……」

その頼み自体は別に構わなかった。人に教えながら復習することで、しっかりと身につくこともあるから。

けれど、私が自信を持てるのは数学だけであり、他の科目はそれほどだった。

そう緑に伝える。けど、それでも構わないようで、緑はこんなことを口にした。

「大丈夫。私、津々浦よりも得意な科目なんて一つもないから!」

……どうしてそんなに自信満々なのだ。


緑を連れて図書室を訪れる。

図書室はもちろん本を借りて読むところだが、自習スペースも設けられている。

だが、あまり人気はないようで、いつも生徒はほとんどいなかった。

みんな家や喫茶店での方が捗るのだろう。

「じゃあ緑、成績表持ってたら見せて」

私は入学後すぐに行われた学力テストの成績表を緑に求める。

まず、緑がどのレベルなのかを知りたかったから。

ちょうど背負っていた鞄を隣の椅子に置いていた緑が鞄を漁る。

ちなみに私は89人中17位だった。この学校は上位20人を公表するタイプだからまぁ、優秀だと判断してもらえたのだろう。

自慢じゃないが私は日頃から勉強するタイプだ。しかし逆に言えば、油断をすれば一気に順位を下げるだろう。

「お、あったあった」

緑は鞄から折り目とシワの目立つ紙を取り出すと、私に差し出した。

「……」

成績表に目を通した私は素直に困った。

赤点は一つもない、が決して良くもないのだ。さしずめ下の上といったところか。

緑もなんだか恥ずかしそうに視線をチョロチョロ動かしている。

「うん、ありがとう」

私は成績表を緑に返す。

そして腕を組んで目を閉じた。

緑の学力を考えてみる。

少なくともこの学校に入れるレベルはあるのだろう。そして赤点はなく、きっと基礎は持っている。けれど良くはない、数学が特にギリギリだ。

「勉強は日頃してる?それとも一夜漬け?」

そう尋ねると、なんだか縮こまって見える緑は具合の悪そうに答える。

「い、一夜漬けです。……はい」

「してるだけマシよ」

実を言うと今回の学力テストは難しかった。

と言うのも、入学後すぐ行うのだから、範囲が中学三年生の部分が中心とはいえ広かったのだ。

だから一夜漬けタイプの緑とは相性が悪かったようで、焦りを感じ、今日私を頼ったのだろう。

「……私が教えれるのは勉強の仕方や、私なりの覚え方。それが緑にとってやり易い勉強方法とは限らないから、教えて貰うからって鵜呑みにせず、ちゃんと噛み砕いて理解して、少しはマメに勉強してね」

私はそれだけ緑に伝えた。どんな博識な人間に習おうとも、結局は本人次第だから。

「十分でございます」

向かい合って座る緑が、机に手を添えてお行儀よく礼をした。

「じゃあ始めましょうか」

まだ陽がさす放課後、勉強会が始まった。


今日は数学から始めることにした。

これは私の持論だが、社会の地理や歴史、理科の科学や生物は言ってしまえば暗記がきく。一夜漬けタイプの緑とは相性がいいだろうから優先度を下げた。

反対に国語や英語、これらは繰り返しじっくりと憶えていくことで、身につく。まぁ漢字や単語は多少暗記が必要になるが。これらは日々少しずつ行うことにしよう。

結果として、緑の一番苦手な科目だからと言うこともあるが、数学をまずは重点的に克服することにした。

数学は先にあげた例の中間に位置する。

公式は憶えるしかないが、応用は日々の慣れが必要だ。

ただ幸か不幸か、先も言ったように数学は私の最も得意な科目だった。

幸と言うのは、私の勉強方法が緑に合えば、緑の数学への理解が飛躍的に高まると言うこと。

そして不幸なのはそうはならない可能性があること。

私はきっと一般的な学生が習う程度の数学ならば、自惚れた言い方だがセンスがあるのだろう。

いままで公式を憶えるのや、応用に苦はあまり感じなかった。

私にとっての数学はパズルのようなものであり、解き方を理解すれば、楽しく解き進むことができる。

だから感覚的な教え方しかできないのだ。


私は緑と二人、数学の勉強を進める。

空が茜色に染まり始めてきた。

始める前に私が感じていた心配。それはどうやら杞憂だったようだ。

緑は今回のテスト範囲に出てくる公式は理解できていて、苦手なのは応用の部分だったのだ。

その応用も私がヒントや手助けを与えるだけで、ゆっくりとだが解き始めている。

緑自身も理解が深まり、楽しくなってきた様子を見せた。まるで少しカスタマイズするだけでスピードを上げたスポーツカーのような爽快さだろう。そんな緑を見る私も嬉しかった。

「ありがとう津々浦、数学って面白いんだね」

何気ないその言葉が私の心を大きく揺さぶった。

まるで緑にとっての自分の価値が生まれたような。そんなむず痒い嬉しさに、思わず口元が綻ぶ。

「……そうでしょ?だから私は数学が好きなの。緑はきっと感覚的に数学が理解できるタイプだよ。この調子で行けば、この先もこんな感じで理解していけるよ」

そう口にした時、私の頭にある疑問がよぎった。

――なぜ、少しきっかけを与えるだけでここまで理解できた緑が、いままでそのきっかけに出会えず、赤点付近を彷徨ったのだろう。

まだ短い間だが、授業中の緑は真面目に授業を受けているように見えるのに。

「……もしかして」

私は一つの疑念を緑に向ける。

結論を言えばその疑念は正解だった。

「ねぇ、緑。数学のノート見せてくれる?」

「ん?ノート?いいよ」

そう言って差し出された数学のノートを開くと……。

「げ……!」

思わずそんな言葉が漏れた。

そして、見た目はカレーライスなのにシチューを食べたような、言いようのない感覚に私は陥る。

緑の書いた数学のノートはなんと言うか……くちゃくちゃで、何が書いてあるのか分からなかった。

黒板を丸写ししたにしたって酷すぎる。

「これは……理解できないわけだ……」

そう口からこぼれ落ちた。

「……緑、ノートの書き方、教えてあげるね」

机に突っ伏した私がそう伝えると。

「……?ノート?ちゃんと書いてるよ」

緑は不思議そうな顔をした。


陽が落ちて、あたりがすっかり暗くなったころ。私と緑は学校を出て、帰路についていた。

電車で通学する私は駅に続くほぼ一本道を歩く。そして緑は駅まで着いてきていた。

「いやー、ありがとう津々浦。中間テストなんとかなりそうだよ」

第一回の勉強会が終わっただけなのに、緑はご機嫌だった。

「また勉強見てあげるから、今日教えたポイントと方法を忘れずに続けるのよ。毎日とは言わないから」

緑は勉強の仕方やノートの書き方が汚いだけで、地頭は良いのだろう。少なくとも私はそう感じた。

「綺麗だったなぁ、津々浦のノート。ノートが言ってるもん、『私の主人は頭が良いです』って」

「ハハ……」

それに関しては冷ややかな笑いしか返せなかった。

「……でもさ、津々浦。どうして私たちは勉強するのかな?」

緑が突然そう口にした。

「いやね、勉強が大事なのは分かるよ。それに進路とか将来のため、良い大学や就職先のためってのも分かる。けどさ、ちょっと屁理屈になるけど。私がこれだけ数学の公式や使い方を勉強したって、将来使うとは思えないんだよねぇ〜。だから私は世間が言うほど学校の勉強が大事か、ってのが分からないんだ」

緑の言いたいことは分かる。

と言うかその疑問は、学生ならば誰しもが一度は考えるだろう。

「まぁ言いたいことは分かるよ。今習ってることのほとんどは、何年かしたらさっぱり忘れてしまうでしょうね」

緑が腕を組んで考え込む。

「ほとんどの人間に同じことを習わせて、一定の知能レベルを保つ。ってのは悪くないと確かに思うけどさ。でも、それにしては人生の序盤、たった12年位しかやらないなら、あまり意味をなすとも思えないんだよねぇ」

緑の口から初めて神様らしいことを聞いた気がした。

「緑、私はお姉ちゃんがいるんだけどね」

「そなの?」

「うん。ウチのお姉ちゃん、大学には行かずにすぐ就職したんだ。高校も工業系に行って、そのまま工場に勤めてるの」

私は緑に有名な自動車メーカーを口にした。

「お姉さんそんなとこで働いてるの?!しかも現場で?」

「そう、毎日油まみれで帰ってくる。……で、今21歳だから3年目か。この前言ってたんだ。『もう二度と会うことはないと思ってた昔習った数学と、思わないところで再開した』って。しかも自分でも覚えてて、結構役だったらしいよ」

「へぇ〜。やっぱ学校で教えることって、まるっきり無駄なわけではないんだねぇ……」

「全てが、ではないんだろうけどね。私だって思うもん。『こんなの習っても意味ないでしょ』って。――でもさ、お姉ちゃんがそうだったんだけど。学生時代に頑張って、良い成績や資格を持っていたから、大手企業に採用してもらえるんだよ。だからさ学校で習うことは〝無駄だけど無駄じゃない〟そんな不思議なものなんだよ」

私のそんな一言に緑が空を見上げて繰り返す。

「無駄だけど無駄じゃない……か。大変だね人間も」

まさにその〝人間〟をしている神様は身をもって苦労を味わっていた。

「津々浦はさ、勉強してなにになりたいの?」

緑がそんなことを聞いてきた。

「なにに、か――」

その問いに私は直ぐには答えられなかった。

「そうだね、私は何になりたいんだろうね……」

そう漠然と呟くと、緑が不思議そうな顔をした。

「将来の夢とかはないの?この仕事に就きたいとか」

実はそれは、私の目下の悩みだった。

「将来の夢はあったよ、昔は。でも今は無いかな」

私の悩みは高校の後の進路だった。

まだ一年生の夏にもなっていないのに、こんなことを考えるのは早いとも言えるし、そんなものだとも言える。

私は、私の姉が小さい頃から機械工学に憧れる姿を見てきた。

女の子ながら鉄と機械に魅力を感じた姉は、その情熱を持ったまま工業高校を選び、工場への就職を決めた。決めていた。

そんな姿を見ていると〝私は何を目指して勉強するのだろう〟と悩む時がある。

中学の頃、それに出会えなかった私は、とりあえず地元で有名な進学校への受験を選んだ。

何をするにも良い学歴があれば役立つと考えて。

勉強に打ち込んでいるうちは、その悩みを忘れることができた。だが、いざ合格し、高校生活が始まると。〝私は次は何を目指すのか〟と自分に問うてしまう。

同じように、ただただ良い大学を目指すこともできる。けれど私は、それを〝問題の先延ばし〟と考えてしまった。

やりたいことが見つかったのならば、専門の大学に行くことだって出来るのにと。

「津々浦?」

しばらく黙り込んだ私に、緑が声をかける。

「あ、ごめん。考え込んじゃって」

「将来のこと?」

「そう、私は何になりたくて勉強するのかなって」

そう言うと緑がニヤリと笑った。

「ははーん、さてはお姉さんと自分を比べちゃってるね」

すぐさまそう返す緑に、私はとても驚いた。心でも読めるのかと。

「……あなたってエスパーなの?」

この問いに緑は首を横に振る。

「ううん。神様だよ」

「ハハ、そうだったね。――緑の言う通りだよ。早いうちから将来に向けて動いたお姉ちゃんを見ていると、将来の見えない私がちょっと心配でさ」

そう言うと、緑は「うーん」と唸りながら考えた。

「あのさ、単純に私の意見なんだけど。〝何かを始めるのは早い方が良い〟かもしれないけれど。だからって〝何かを始めるには遅い〟ってことはないんじゃ無いかな」

まさか緑の口からそんな言葉が出てくるとは。私はまた驚いた。

「津々浦の悩みは分かるよ。と言うかこれは誰しもが考えることなんじゃ無いかな」

緑が何かを表現するようにクルクルと宙に指を動かす。

「えーとほら、アレ。恋人とかにいうじゃない〝運命の出会い〟ってさ。それと同じで、あるんだよきっと。将来を決めるような運命的な〝何か〟との出会いが」

なるほどなと素直に感心した。

「津々浦のお姉さんは、ソレとの出会いが人より早かっただけでさ。津々浦が遅いわけじゃ無いんだよ。――偏見だけど、ただ漠然と進学校を選んで良い大学にまで行ったのに、そこら辺のスーパーマーケットに勤めてる人とかだってきっといるよ。その人達が運命的な出会いをして、それでも夢破れたか。まだ運命に出会えてないかはさておき、本人が不満のない生活を送れているのなら、それはもう成功なんだと私は思うな。だから焦ることないよ、世の中は無限の可能性に溢れているのだから」

「――無限の可能性ね」

「そう、津々浦もいつか出会えるよ」

意外にもしっかりとした意見をくれた緑に、私はさらに意見を聞いてみることにした。

「私の運命の出会いって、例えばどんなものだと思う?」

「例えば?!例えば……」

その質問は意外だったのか、緑はまた少し唸った。

「――とんでもない芸術作品に出会って、芸術家を目指す」

「あぁ、無いとは言えないわね」

緑はそんな例を次々とあげる。

「病気をして、それを治療してくれた先生に感銘を受けて自分も医者を目指す。建築デザイナーが手がけた建物に魅力を感じ建築家を目指す。あ、あと、お姉さんに影響されて機械技士や設計士になる」

緑があげたそれらはあり得ないとは言い切れないものばかりだった。

「なるほど。確かに無限の可能性だね」

緑のくれた意見のおかげで。元々持っていたのに加え、環境の変化からきた私の正体の掴めない〝焦り〟は少し和らいだ。

さすがは神様だ。そう感心しようと思ったが、緑のくれた言葉や例えは、神様らしくないと言うか、人間臭いというか。そんなものだった。

「ねぇ緑、あなた神様なのよね?」

念の為に確認してみる。

「そうだよぉ。な〜んのご利益も力もないけど、ちゃんと神様だよ。――疑うのは自由だけどさ、ホントだよ?」

「はいはい、ちゃんと信じてるわよ。勉強の苦手な神様」

そう言って茶化すと。緑はムッとした顔をみせる。

「〝今は〟苦手なだけだよ!津々浦なんかす〜ぐ抜いてやるんだから」

「ほぉー、私から習ってるくせに。野心の強い子だね」

そうこうして笑っているうちに、私が使う電車の駅が見えて来た。

「じゃあね津々浦、今日は本当ありがとう。またお願いね」

「ん、また明日。ちゃんと復習するのよ」

「はぁい……」

肩を落としてめんどくさそうに神様は口にした。

その時、私はふとした一つの疑問を緑に聞いてみた。

「……そう言えばさ、緑って歩き通学だよね?ウチはこの辺なの」

初めて聞くそんな何気ない質問に、緑は一瞬だけ間を置いた。

そして――。

「ヒミツ」

ニッと笑い、人差し指を口に当ててそう呟くと、手を振って去っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る