依鳥緑は勉強が分からないと言う

 神様とは――?


 そう尋ねられた時、思い浮かべる神の姿は人によって様々なカタチになるだろう。

 人型だったり動物植物、半獣だったりと、古今東西の宗教や国による違いはもちろん、神は様々な姿で表現される。

 例えば、白い髪とヒゲを蓄えた、威厳あるおじいさんの姿かもしれない。

 頭には輪、背には翼を持つ絶世の美女かもしれない。

 はたまた、見るだけで複雑だと分かる、無機質な機械に似た塊かもしれない。

 あるいはただ黒く、およそ生き物とは思えない、艶やかな球体を思い浮かべる人だっているだろう。

 かく言う私、津々浦麗が思い浮かべる神様はどうかと言うと――。

「お願い津々浦、勉強教えてぇ!」

 栗毛のショートヘアで表情は豊か。好奇心旺盛で素直な性格。今から背が伸びるのを期待しているのか、ワンサイズ大きいダボついたブレザーを来た姿だ。そして人に教えを乞うてくる。



『依鳥緑は勉強が分からないと言う』



 5月。それは高校生活初めての中間テストを目前に控えた、春の終わりのことだった。

 地元で割と有名な進学校である我が校はその反面、部活動にあまり力を入れていないようで、テスト前はほとんどの部活が休みになるらしい。そのため生徒は勉強に明け暮れるため、あるいは放課後を謳歌するために、早々と教室を後にしていく。

 かく言う私もそうだった。……まぁもとより帰宅部なのだけれど。

 ただ、私の場合は、まだ帰る訳では無い。

 私は入学直後のホームルームで、率先して図書委員になっていた。その理由は二つ。一つは、図書委員の生徒なら、図書室のカギの持ち出しが許されるからだ。そして二つ目はそこで勉強をするため。

 おかげで、私は下校時間ギリギリまで図書室に居座ることができるようになり。少なくとも、一年生の間は図書室でのんびりと勉強が行えるのだ。

 だから私が向かうのは下駄箱ではなく図書室。なのだが、私がそんなことを計画していると知ったもう一人の図書委員。クラスメイトで神様を名乗る依鳥緑は、そんな私を捕まえ、藁にもすがるようにこう頼み込んできた。

 勉強を教えて欲しいと。

「いいけど……」

「本当に!?」

 文字通りすがる様だった神様は、地獄で仏に会ったが如く目を輝かせる。

「本当よ。……そんなに勉強に自信ないの?」

 その頼み自体は別に構わなかった。むしろ人に教えながら復習することで、自分もしっかりと身につくというもの。勉強仲間が居ることに越した事は無い。

「――でもね緑」

 しかし、私が自信を持って「人に教えられる」と言える科目は数学くらいであり、他の科目はそれほどだった。

 緑の期待に添えれるかは分からない。とりあえず、それでも良いかと緑に伝えてみる。

 すると得意げに微笑んだ緑は、こんなことを口にした。

「大丈夫。私はきっと津々浦よりも得意な科目なんて一つもないから!」

 ……どうしてそんなに胸を張っていられるのだろうか。



 緑を連れて校舎一階、端の方にある図書室を訪れる。

 図書室とはもちろん本を借りて読むところだ。だが、うちの学校には自習のためのスペース、仕切り付きの机も設けられている。けれどあまり人気は無いようで、いつも生徒はほとんどいなかった。

 みんな家や喫茶店での方が勉強が捗るのだろうか。

 私も一人ならそこを使うつもりだった。だが、緑と一緒に勉強するならば対面で座れる机の方が望ましい。またの機会にしよう。

「じゃあ緑、この前の成績表、持ってたら見せてくれる?」

 私は入学後すぐに行われた学力テストの成績表、それを緑に求める。

 まずは緑がどのレベルなのかを知りたかったのだ。

「はいよ〜」

 ちょうど背負っていた鞄を隣の椅子に置いていた緑が鞄を漁りはじめる。

 ちなみに私は一年生89人中14位だった。今時珍しく、この学校は上位20人を公表するタイプだったから、一応優秀だと判断してもらえたのだろうか。

 自分で言うのもなんだが、私は中学の頃から、日頃マメに勉強する積み上げタイプだ。

 言い方を変えれば。一度の説明で完全に理解できるタイプではなく、繰り返し勉強することで、はじめて点数に繋がるタイプだ。だからきっと油断をすれば一気に点数を落とすことになるだろう。

 そう言う意味では、高校生活で一緒に勉強する友達が早くにできたのは喜ばしいことだった。

「お、あったあった」

 緑は鞄から折り目とシワの目立つ紙を取り出すと、私に差し出した。

 持ち主の性格が伺えるその紙を受け取り、目を通す。

「……」

 成績表に目を通した私は素直に困った。

 緑の点数に赤点は一つもない。だが決して良くもないのだ。さしずめ下の上といったところか。

 ――いや、進学校なのだからただの下なのか?

 緑自身も危うさに自覚があるようで、なんだか恥ずかしそうに視線をチョロチョロと動かしている。

「うん、ありがとう」

 私は成績表を緑に返す。そして腕を組んで目を閉じた。

 威張れるほどの秀才でもない私だが、ちょっと偉そうに緑の学力について考えてみよう。

 まず、少なくともこの学校に入れるレベルではあるのだろう。入学試験を突破できたからこそ、今ここにいるのだから。

 そして赤点は無い、きっと基礎は持っている。けれど良くはない、数学が特にギリギリだ。

「勉強は日頃してる?それとも一夜漬け?」

 そう尋ねると、なんだか縮こまって見える緑は具合の悪そうに答える。

「そのテストは一夜漬けでした。……はい」

「してるだけマシよ」

 実を言うと、今回の学力テストは難しかった。

 と言うのも、入学後すぐに行うのだから、その範囲は中学三年生の部分が中心とはいえ、広かったのだ。

 だから一夜漬けタイプの緑とは相性が悪く、結果に焦りを感じ、今日私を頼ったのだろう。

「……私が教えれるのは勉強のやり方や、私なりの覚え方だけよ。それが緑にとってやり易い勉強方法とは限らない。だから教えて貰うからって鵜呑みにせず、ちゃんと噛み砕いて理解して、マメに勉強してね」

 私はそれだけ緑に伝えた。仮にどんな博識な人間に習おうとも、結局は本人次第なのだから。

「十分でございます」

 向かい合って座る緑が、机に手を添えてお行儀よく礼をした。

「じゃあ始めましょうか」

 まだ陽がさす放課後、はじめての勉強会が始まった。


 今日は数学から始めることにしよう。

 これは私の持論なのだが、社会の地理や歴史、理科の科学や生物。これらは言ってしまえば暗記がきく。

 一夜漬けタイプの緑とは相性が良いだろうから優先度を下げた。

 反対に国語や英語、これらは繰り返しじっくりと憶えていくことで身につく。まぁ漢字や単語には多少の暗記が必要になるが、これらは日々少しずつ行うことにしよう。

 結果として、緑の一番苦手な科目だからと言うこともあるが、数学をまずは重点的に克服することにした。

 数学は先にあげた例の中間に位置すると私は考える。公式は憶えるしかないが、応用には日々の慣れが必要だ。

 ただ幸か不幸か、先も言ったように数学は私の最も得意な科目。幸と言うのは私の勉強方法が緑に合えば、緑の数学への理解が高まると言うこと。そして不幸なのはそうはならない可能性があること。

 私はきっと、一般的な学生が習う程度の数学ならば、自惚れた言い方だがセンスがあるのだろう。少なくとも中学の教師はそう褒めてくれた。

 実際、今までの学生生活で、公式を憶えるのや応用に苦はあまり感じなかった。

 私にとっての数学はパズルの様なものであり、解き方を理解すれば楽しく解き進むことができる。

 ……だから感覚的な教え方しかできない、そんなデメリットもあるのだが。……少なくとも中学の友達にはそうツッコまれた。


 緑と二人、数学の勉強を進める。空が茜色に染まり始めてきた。

 勉強会を始める前に私が感じていた心配。それはどうやら杞憂だったようだ。

 緑は今回のテスト範囲に出てくる公式を、案外理解していた。苦手なのは応用の部分だったのだ。

 仮想の値xも掛けたり割ったりできる。値を移行させれば正負が変わる。イコールに挟まれた片方に手を加えるなら、反対にも同じ条件を加えなければならない。

 そういった様々なルールに縛られた数字の迷宮。誤った方法は間違った出口に。非効率的な方法は、答えには辿り着けるが、遠回りの道を示す事もある。緑はその迷宮に翻弄されていたのだ。

 だがそんな応用も、私が先を導く篝火のようにヒントや手助けを与えるだけで、冒険者緑はゆっくりとだが解き続けている。

「なんで不明な値はxyzを使うんだろうね。かと思ったら急にabcも出てくるしさ。――点PってPじゃないとダメなの?」

 なんてはじめはボヤいていた緑自身も、少しは理解が深まり楽しくなってきた様子を見せた。

 まるで、少しカスタマイズするだけでスピードを上げたスポーツカーの様な爽快さだろう。そんな緑を見る私も嬉しかった。

「へぇ――。案外数学って面白いんだね」

 だから緑の何気ないその言葉は、私の心を大きく揺さぶった。

 説明が上手くいっている喜びもあるが。それよりもまるで、緑と言う人物にとっての中で私の、の価値が生まれたような喜びもあった。

 そんなむず痒い嬉しさに思わず口元が綻ぶ。

「……そうでしょ?だから私は数学が好きなの。――緑はきっと感覚的に数学が理解できるタイプだよ。この調子で行けば、この先もこんな感じで理解していけると思うな」

「うん、なんか自信ついてきた」

 そうした時、私の頭にある疑問がよぎった。

 ――少しのきっかけを与えるだけでここまで理解を深めた緑。なぜ今までそのきっかけに出会えず、赤点付近を彷徨っていたのだろう?

 まだ短い間柄だが、学校での緑は真面目に授業を受けている様にうに見えるのに。

 ノートをとるのに必死で授業についていけて無いのかな。……いや、もしかして。

 私は一つの疑念を緑に向ける。結論を言えば、その疑念は正解だった。

「ねぇ緑。数学のノート見せてくれる?」

「ん?ノート?いいよ」

 そう言って差し出された数学のノートを開くと……。

「げ……!」

 思わずそんな言葉が漏れた。

 緑の書いた数学のノート。それはなんと言うか……くちゃくちゃで、何が書いてあるのかまるで分からなかった。

 見知った文字が使われているのに、よその国の言語を読まされているような文の羅列。黒板を丸写しにしたって酷すぎる。

「これは……理解できないわけだ……」

 そう口からこぼれ落ちた。

「……緑、ノートの書き方、教えてあげるね」

 ずるずると机につっ伏した私がそう伝えると。

「……ノート?ちゃんと書いてるよ」

 緑は不思議そうな顔をした。



 陽が落ちて、あたりがすっかり暗くなった頃、私と緑は学校を出て帰路についていた。

 電車で通学する私は、学校から駅へと続くほぼ一本道を歩く。そして、歩き通学の緑は駅まで付いてきていた。

「いやー、ありがとう津々浦。なんとかなりそうだよ中間テスト」

 まだ第一回の勉強会が終わっただけなのに緑はご機嫌だった。

「今日教えたポイントと方法を忘れず、マメに続けるのよ。毎日とは言わないから」

 緑は勉強のやり方やノートの書き方が汚いだけで、地頭は良いようだ。少なくとも私はそう感じた。

「はーい。それにしても綺麗だったなぁ、津々浦のノート……。ノートが言ってるもん『私の主人は頭が良いです』って」

「ハハ……」

 それに関しては冷ややかな笑いしか返せなかった。

 その時、前を見ていた緑の表情が、何かを考える様なものに変化する。

「……でもさぁ津々浦。どうして私たちは勉強をするのかな?」

 そして突然そう口にした。

「いやね、勉強が大事なのは分かるよ。それに進路とか将来のため、良い大学や就職先のため、ってのも分かる。――けどさ、ちょっと屁理屈になるけど。私がこれだけ数学の公式や使い方を勉強したって、将来使うとは思えないんだよねぇ〜。だから私は、世間が言うほど学校の勉強が大事なのか、ってのが分からないんだ」

 緑の言いたいことは分かる。と言うかその疑問は、学生ならば誰しもが一度は、いや何度も考えるだろう。勉強せずに済むのなら、望む進路を誰もが進めるのなら、皆がこれほどまでに勉学に励むことはないであろうから。

「同感だわ。私だって今習ってる事のほとんどは、何年かしたらさっぱり忘れてしまうでしょうしね」

 緑が腕を組んで考え込む。

「ほとんどの人間に同じことを習わせて、一定の知能レベルを保つ。……ってのは確かに悪くないと思うけどさ。それにしては人生の序盤。たった12年位しかやらないなら、あまり意味をなすとも思えないんだよねぇ」

 緑の口から初めて神様らしいことを聞いた気がする。言われてみれば学校に通うのは12年、大学を含めても16年の人が多いだろう。しかし人生とはその先に倍以上続くのだ。神様からすれば「短くない?」と感じるのだろう。

 だがその疑問の答え。答えというか、その成果を、私は最近ある人生の先輩からちょうど聞いていたところだった。

「緑、私はお姉ちゃんがいるんだけどね」

「そうなの?」

「うん。ウチのお姉ちゃん、大学には行かずにすぐ就職したんだよ。高校も工業系に行って、そのまま工場に勤めてる。聞いたことあるかな、あの――」

 私は緑にとある有名な工業メーカーを口にした。

「お姉さんそんなとこで働いてるの?」

「そう、毎日油まみれで帰ってくる。……で、今21歳だから、3年目か。この前言ってたんだ。『もう二度と会う事はない。そう思ってたある公式と、思わないところで再開した』って。しかも自分でも習った事覚えてて、結構役だったらしいよ」

「へぇ〜。習ってもまるっきり使わないとは限らないんだね」

「全てが、ではないんだろうけどね。私だってたまに思うもん。こんなの習っても意味ないでしょって。――でもさ、お姉ちゃんがそうだったんだけど。学生時代に頑張って、良い成績や資格を持っていたからこそ、大手企業に採用してもらえるんだよ。だからさ学校で習うことは〝使わなくても無駄じゃない〟そんな不思議なものなんだよ」

「使わなくても無駄じゃない……か」

 私のそんな一言を、緑が空を見上げて繰り返す。そして立ち止まると、口元に手を当て、ブツブツと独り言をこぼしだした。

「そうか将来のために学ぶってのは、私の思ってた以上に大事なんだ。さらに、学ぶのは将来使うから、ではは無く。その将来の可能性を広げるためがメインなのかも。明治時代に教育者が名を残しているのはその基盤を作ったからかな?身分なく学ぶ機会を与える。その名残のシステムが今日こんにちまで続いているのが、その重要性を証明している証拠。そう考えるなら、一見不要に思える授業も無駄ではなく……」

 まさにそのをしている神様は身をもって苦労を味わっているようだ。

 そんな様子の緑を見て、私は気づいた事があった。

 きっと緑は、この神様は人並みの感性も、知識も常識も有している。けどだけで、身をもって感じたものは少ないのかもしれない。

 言うなれば、料理の味もレシピも知っているが、作った事は無い。そんな感じだろうか。

 分かってそうなのに理解できたいなかったり、人がスルーしがちな疑問を持ったりするのはこのためかな?の割には的を射ている事も言う。こっちは神様故かな。

「――本当に神様なんだね、緑って」

 伝えるでもなく呼吸するように呟いた。

 次の瞬間、緑がいつもの調子を取り戻す。そして私の機嫌を窺う様な視線を向けて。

「でもさ、関数をグラフ化する計算。あれはは要らないと思うなぁ」

「ふふ、自分がニガテなだけでしょ?諦めなさい、人の世はこういう世の中なのよ」

 まったく、せっかく神様っぽいと思ったのに。


「津々浦はさ、勉強して何になりたいの?」

 会話に一区切りがつき。次に緑がそんなことを聞いてきた。

 将来のために、望む選択のために学ぶ。そう言った津々浦は何を目指しているのか?と。

 その問いが浮かぶのは当然と言えるだろう。しかし私は――。

「何に、か――」

 その問いに直ぐには答えられなかった。

「そうだね、私は何になりたいんだろうね……」

 どこか遠くを見つめ呟くと、緑が不思議そうな顔をした。

「将来の夢とかはないの?この仕事に就きたい、とか」

 実はそれは、私の目下の悩みだった。

「将来の夢はあったよ、昔はね。でも、今は無いかな」

 私の悩みは高校の後の進路。

 まだ一年生の夏にもなっていないのに、こんなことを考えるのは早いとも言えるし、そんなものだとも思える。

 でも、姉を見てきた私は、将来を悩まずにはいられなかった。

 私は、私の姉が小さい頃から機械工学に憧れる姿を見てきた。

 女の子ながら鉄と機械に魅力を感じた姉は、その情熱を持ったまま工業高校を選び、工場への就職を決めた。決めていた。

 そんな姿を見ていると〝私は何を目指して勉強するのだろう〟と悩む時がある。

 中学の頃、に出会えなかった私は、とりあえず地元で有名な進学校への受験を選んだ。何をするにも良い学歴があれば役立つと考えて。

 勉強に打ち込んでいるうちは、その悩みを忘れることができた。だがいざ合格し、高校生活が始まると。と自分に問うてしまう。

 同じように、ただただ良い大学を目指すこともできる。けれど私は、それを問題の先延ばしと考えてしまった。

 やりたいことが見つかったのならば、専門の大学に行くことだって出来るのに、と。

「津々浦?」

 問いかけに答える事なく、しばらく黙り込んだ私に緑が声をかけた。

「あ、ごめん。考え込んじゃって」

「将来のこと?」

「そう、私は何になりたくて勉強するのかなって」

 そう言うと緑がニヤリと笑った。

「ははーん、さてはお姉さんと自分を比べちゃってるね」

 すぐさまそう返す緑に、私はとても驚いた。心でも読めるのかと。

「……あなたってエスパーなの?」

 この問いに緑は首を横に振る。

「ううん。神様だよ」

「ハハ、そうだったね。――緑の言う通りだよ。早いうちから将来に向けて動いたお姉ちゃんを見ていると、将来の見えない私がちょっと心配でさ」

 そう言うと、緑は「うーん」と唸りながら考えだした。

 折角考えてくれているのに悪いのだが、これは私が私に向けた不安だ。こういった時のアドバイスは参考になっても解決、心を晴らす事は難しい。

 どうせ緑の次の言葉も、私を客観視した将来の提案だろう。今まで他の人がしてきたようなそんなアドバイス。

 ――そう決めつけていた私は、緑に謝らないといけない。

「あのさ津々浦、これは単純に私の意見なんだけど。〝何かを始めるのは早い方が良い〟かもしれない。けれど、だからって〝何かを始めるには遅い〟って事は、そうそうないんじゃないかな」

 まさかそんな言葉が返ってくるとは。私は驚いた。

「津々浦の悩みは分かるよ。と言うかこれは、人生のどこかで、誰しもが考えることじゃないかと」

 緑が何かを表現したいのか、クルクルと指を動かす。

「えーとほら、アレ。恋人とかに言うもんじゃない?〝運命の出会い〟ってさ。それと同じで、あるんだよきっと。将来を決めるような運命的なとの出会いが。津々浦のお姉さんは、ソレとの出会いが人より早かっただけ。別に津々浦が遅いわけじゃないんだよ。――これは偏見だけど、ただ漠然と進学校を選んで良い大学にまで行ったのに、そこら辺のスーパーマーケットに勤めてる人とかだってきっといる。その人達が運命的な出会いをして、それでも夢破れたか、まだ運命に出会えてないかはさておき。本人が今不満のない生活を送れているのなら、それはもう成功なんだと私は思うな。……だから焦ることないよ津々浦、だって世の中は無限の可能性に溢れているのだから」

「――無限の可能性ね」

 こういう視点は、私は持っていなかった。いや、自分で狭めていただけだろうか。

「そう、津々浦もいつか出会えるよ」

 いずれにせよ、しっかりとした意見をくれた緑に、素直な感謝を返す。

「ありがと。参考にするよ」

 ついでと言うわけではないが、私は無茶を振る感覚でさらに意見を聞いてみることにした。

「私の運命の出会いって、例えばどんなものだと思う?」

 くしくもこれは、さっき心中で軽んじたアドバイスを求める形となる。

「例えば?!例えば……」

 その質問は意外だったのか、緑はまた少し唸った。

「――とんでもない芸術作品に出会って、芸術家を目指す!」

「あぁ、無いとは言えないわね」

 緑がそんな例を次々とあげる。

「病気をして、それを治療してくれた先生に感銘を受けて自分も医者を目指す。建築デザイナーが手がけた建物に魅力を感じ建築家を目指す。あ、あと、お姉さんに影響されて機械技士や設計士になる」

 緑があげたそれらは、あり得ないとは言い切れないものばかりだった。なるほどこれが――。

「確かに無限の可能性だね」

 緑のくれた意見のおかげで。私が元々持っていたのに加え、環境の変化から来た正体の掴めない焦りは少し和らいだ。

 さすがは神様だ。そう感心しようと思ったが、緑のくれた言葉や例えは、神様らしくないと言うか、人間臭いというか。そんなものだった。

「ねぇ緑、あなた神様なのよね?」

 だから念の為に確認してみる。

「そうだよぉ。な〜んのご利益も力もないけど、ちゃんと神様だよ。――疑うのは自由だけどさ、ホントだよ?」

 言葉とは裏腹に、その目は信じてほしい気持ちがまる見えだった。

「はいはい、ちゃんと信じてるわよ。勉強の苦手な神様」

 そう言って茶化すと。緑はムッとした顔を見せる。

苦手なだけだよ!津々浦なんかす〜ぐ抜いてやるんだから」

「へー、私から習ってるくせに。野心の強い子だね」

「弟子は師匠を超えるものだよ」

 そうこうして笑っているうちに、私が使う電車の駅が見えて来た。名残惜しいが、今日はここまでにしておこう。

「じゃあね津々浦、今日は本当ありがとう。またお願いね」

「ん、また明日。ちゃんと復習するのよ」

「はぁい……」

 肩を落としてめんどくさそうに神様は口にした。

「私の方こそありがとう」

「ん?なにが?」

「こっちの話よ」

 じゃあね。そう言って別れようとしたその時。私の中にふとした疑問が一つ浮かぶ。別れる前に、緑に聞いてみた。

「……そう言えばさ、緑って歩き通学だよね?駅にも付いて来てくれるけど、ウチはこの辺なの?」

 初めて聞く何気ない質問、だが緑は一瞬だけ間を置いた。そして――。

「ヒミツ」

 ニッと笑い、人差し指を口に当ててそう呟くと、手を振って去っていった。

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