第7話

「あーいた、やっと見つけたよ…」


 部室のドアがガラッと開けられ音のした方を見ると四条さんがいた。甘いフローラルな香りが部室に立ち込む。四条さんは嘆息をつき呆れた顔で俺を見ている。


 俺は絵具のついた筆をおいて声をかけた。


「そんな顔してどうしたの?もしかして嫌なことでもあった?」


 それを聞くと四条さんは再び嘆息をついた。今度はさっきよりも深い。


「堀河君が全然部室に居ないからだよ。明日部室行くからって言ったのに居ないしその次の日もいなかったんだもん」


 風邪をひいていたせいか完全に忘れていた。


「ごめん……」


 俺は顔に小鬼を宿している四条さんに謝った。四条さんはまた嘆息をついたがなんとか許してくれた。


「実は一昨日風邪ひいててさ起きたら十二時過ぎててやばいって思ったけどそのまま四度寝ぐらいしたんだ。昨日は家の用事早く帰らないといけなくてホームルームが終わった後そのまま帰ったんだ」


 四条さんは腑に落ちていない様子だったので事情を説明した。全面的に俺が悪いけどなんとか納得してくれるだろうかと思ったが四条さんの顔は曇りだした。


「もしかして、私のせい?私が不貞腐れて堀河君に家まで送ってもらったりしたから……もしそうだったらごめん」


 四条さんは俯きがちに言う。


「ちがうから!俺が家に帰った後すぐに濡れた制服を着たまま寝ちゃっただけだから!四条さんは全く悪くないよ俺が全部悪いんだ。体あっためなよって俺が言ったのに馬鹿みたいだよね」


 俺はしまったと思い慌てて言った。


「ってことだから四条さんが気に病む必要ないし風邪も一日で直ったから心配はいらないよ」


「…うん」


 まだ四条さんの顔に雲がかかっている。優しい四条さんのことだから俺がこうやって言っても気にしてしまうのだろう。


「ほらせっかく来てくれたんだし色々置いてあるから見てってよ」


 そうやって俺は壁に立てかけてある絵を指さした。今まで描いてきた20ほどの絵が描いてある。そのうちのほとんどが風景画だ。デッサンはやったとしても無生物しか描いていない。


 四条さんは興味深そうに前かがみになって見ている。膝丈までしかなかったスカートがさらにめくり上げられ生々しい曲線美を描く太ももが晒された。前から見える太ももよりも後ろからの方が断然艶かしい。俺は思わず固唾を飲んだ。


「一昨日きて思ったんだけど。ここって煙たいよね。なんだろうタバコの臭い?」


「ジョー先生がここで吸ってるんだよね」


「あの先生やばっ!!部室でタバコ吸ってるって教師失格でしょ!?」


「俺も初めは外で吸ってこいって言ったんだけどね、『俺は3年前からここで吸っている。嫌なら出て行け。ここは俺の城だ』って言い返されたんだ。もう今は慣れっこだけどもしかしたら肺が黒くなってるかもね」


 俺は苦笑した。一年の頃はこんなところで絵描くのかよって思っていたが案外ジョー先生といるのは心地が良い。相談事はぶうぶう言いながらも丁寧に聴いてくれた。そう、母さんのことも・・・


「堀川君も慣れちゃったらダメでしょ。副流煙もすごい害があるっていうし、そこらへんの不良よりも肺汚いかもよ?」


 それもそうだなと思う。高校生にして肺がんにでもなったら大変だ。また今度抗議してみようかな。


「前々からここでタバコ吸ってたとしてもなんで外じゃなくてここで吸い始めたんだろうね」


「あー、一回聞いたことがあるけど。学校の外に一応喫煙スペースみたいなのがあるらしいよ。でも校長とか教頭とかお偉いさんの溜まり場になってるらしくてそこで吸うタバコは魚の腑みたいに不味いらしくてここで吸うようになったんだって」


「ジョー先生でも校長先生とか教頭先生苦手なのかな。あーゆー目上の人にも媚びずにずけずけ話に割り込んでくタイプだと思ってた」


「意外に小心者なのかもね」


 俺がそういうと四条さんは面白おかしそうに笑った。


「そうかもしれないね。うーん、けどどうなんだろ。先生にとっても関わりにくい人たちなのか、もしかしたら先生が嫌われてるのかもね」


 俺も思わず笑みが漏れた。確かに目上の人にも同じなのかわからないけどあんな態度、嫌われる要素でしかないと思う。今度直接聞いてみよう。大した理由じゃなかったとしてもジョー先生に理由を聞く価値はあるはずだ。


 もしさ、と俺は続ける。


「四条さんが毎日部室に来てくれたらここもタバコの煙たい臭いじゃなくて四条さんの匂いに包まれるのに・・・・・・」


「それって———」


「ただ、部室がこんな臭いしてると気分が悪いというか、体に悪いというか、ただそう思っただけであって。そんなタバコの臭いを嗅ぐぐらいだったらなって思っただけであって。ただの独り言だし。軽く流してくればいいから」


 俺は四条さんの言葉を遮るように言った。つい口に出てしまった本音を照れ隠しするように早口で。触らなくてもわかるほど顔が熱くなっている。 女子に匂いがどうとかキモすぎるし、まだ会って間もないのにこんなこと言われたら嫌すぎるだろうな。俺は自分の言葉を後悔した。だが今更後悔したところで後の祭りだ。相手が聞いてしまった以上発した言葉を取り消すことはできない。


「その・・・いいよ」


「変なこと言ってごめん。————え?」


 聞き間違いだろうか。


「毎日はちょっとわからないけどこれからもここに来ていいかな?堀河君ともっと話したいし。・・・・・・だめ、だった?」


 四条さんは照れくさそうに俯きがちにいった。それでもちらっと見える横顔は淑やかに咲く菫のような凛としていた。


 きゅっと胸が締め付けられる。柄にもなく心が躍る。


「いや、俺は全然いいというか、寧ろ来てほしいというか。本当にいいの?嫌なら無理する必要なんてないんだよ」


 俺は綻びそうな顔に力を入れてなんとか平然を保ちながら言った。


「ううん。無理なんてしてないし嫌だなってもっと思ってない。ただ私の本心のまま、堀河君と話したいんだ」


 そう言って四条さんはくしゃっと笑った。



「「・・・・・・・・・」」



 俺は言ったことも言われたことも全てに気恥ずかしくなり、きっと四条さんも同じだろう。俺たちはお互いにモジモジしたまま口を閉じてしまった。


「・・・・・・こ、これはなんの絵なの?」


 最初に沈黙を破ったのは四条さんだ。照れ隠しをするように慌てて立てかけてある数枚の絵の中から一枚を指差している。


 あぁ、その絵は・・・・・・


「それはね、ここ、学校だよ」


 俺はゆっくりと答えた。慌てている四条さんを宥めるように。いや、それだけじゃない。これは俺にとって思い出の絵だから。あの人が連れて行ってくれたあの場所。そこから見せてくれた景色。あの頃が鮮明にとまでとはいかないがあの日の匂い、光、温度のその全てを体が覚えている。


「俯瞰して書いてあるから分かりにくいと思うけど・・・ほら、これが何かわかる?」


 首を傾げてこの絵が学校だと理解できていない四条さんに向かって言う。


「木?、かな・・・・・・あっ桜の木だ」


 俺が指を差したのは校門に生えてある一本の桜の木だ。それは楼惺高校が創立したと同時に植えられたもので樹齢は優に200年は超えているという。春になると満開に咲き毎年新入生は桜吹雪の中を歩いて初めての登校をする。俺が一年の時も前が見えなかった記憶がある。



「う、うん。なんだか変な感じだった。見たことあるような気がするけど見たことないような気もして・・・・・・」


「初めは誰でもそうなるんだ。同じものでもいつもと違う角度から見るだけで見え方がこんなにも違う。面白いでしょ?」


 四条さんはコクコクと首を縦に振っている。


「ねーねー堀河君!これは駐輪場?」


「よく気づいたね。実は駐輪場の屋根って平たいんだ」


 そうやって四条さんは次々と絵を指差して楽しそうに俺に聞いてきた。その姿は初めて海を見た子供のように無邪気になっていて愛くるしい。


 去年の俺もこんな感じだったのだろうか。俺も裏山から初めて学校を見た時興奮して連れ出してくれた先輩に色々質問していたような気がする。俺が遠慮なしに次々と聞くのに先輩は一つずつ丁寧に答えてくれた。俺もあの先輩のように質問に答えれているだろうか。


 でも四条さんが聞いてくることはかつて俺が質問していた事と類似している。というかほとんど同じだろうではないだろうか。なので俺はあの頃を紐解き答えることができた。


 まだ桜は散れきっておらず所々で春の花が咲いている。山道を歩き汗が滲むほど熱気を帯びている体に追い討ちをかけるような暖かな風。新たな匂いを景色を届けてくれた。


 四条さんさえ良ければ今度あの山に連れて行きこの景色を直接見て、感じてほしい。


「四条さん、これが何か分かる?」


 俺は絵に描かれている一本の木を指差した。それは小さくこじんまりと校舎の裏に佇んでいる桜の木だ。

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