第5話

 既に二つ信号を過ぎているが四条さんは未だ一言も発していない。聞こえてくるのは彼女の湿った息遣いくらいだ。公園ではわからなかった四条さんの動きによって発せられる衣擦までも雨の喧噪がなくなり鮮明に聞こえる。乾いておらず重く鈍い音だ。


 半透明になっているブラウスは背中に密着している。黒の線が浮き出て右脇の下から左脇の下へと通っているのが見えた。俺は瞬時にそれがなにか悟り目を逸らす。やっと公園でうっすらと見えた正体が分かった。初対面の女の子の下着を見てしまったと思うと故意ではないのにもかかわらず顔が赤くなってしまう。


 そんな俺を気にする様子はなく四条さんは黙々と歩いていく。俺もそれに続いて一歩また一歩と歩いていくと等間隔に並んでいる街路灯が次々と大きくなっていき後方へと消えていく。小さな光だったものが先に四条さんを明るく照らす。まだ乾ききっていない髪はその光を反射して頭に天使の輪ができている。すぐにその光は四条さんの頭を過ぎて俺の目に差し込み目の奥がキュッと沁み俺は目を細めた。さっきまで暗いところに居たせいかこの光でさえ眩しい。


 間間に現れるお店は電気が消え外から中は見えない。もうそんな時間だろうか、シャッターが閉まっている6階建てのビルに隠れていた24時間営業のコンビニの1000ルクスの光に安心感を覚えてしまう。


 そのコンビニを越え一つ目の交差点で四条さんは右に曲がった。俺がいつも曲がっているところと同じだ。ここは所謂高級住宅街だ。俺の家はこの一角を越えたとこにある一般的な家が並ぶ住宅街にある。うなぎ屋「吉丸」を境にして綺麗に分かれている。


 大きく庭付きの豪華な家が軒並み並んでいる。家と家の間を歩いていると夕飯の香りが漂う。なんて名前の料理か分からないが匂いだけでご飯2杯はいけそうだ。


「ぎゅるるるる〜〜〜」


 匂いにあてられ静寂を割るようにお腹がなる。アスファルトや家を囲む塀に音が反響して自分の耳に返ってきた。俺は抑え込むように腹に手をあてた。だが音は鳴りやまない。いつもだったらとっくに夕飯を済ませている頃だろうかお腹が食べものを欲している。


 今日の夕飯は何を作ろうか。冷蔵庫の中身を思い出しそう考えていたときだった。


 ぱたりと前方から聞こえていた足音がやんだ。それが四条さんが立ち止まったことだと気が付くのが一瞬遅れ小さな背中にぶつかった。


 俺は右足を前にだして力をこめ倒れかかっている上半身をなんとかとどめ持ちこたえる。


 それと同時に目の前の影が消えるた。


「くっ……」


 俺は倒れていく四条さんを両手を広げて覆いかぶさるように包み込んで一緒に倒れた。


「イテテ…」


 背中一面に痛みを感じる。


「大丈夫?痛いところない?」


 腕の中にいる四条さんに声をかけた。四条さんは目をギュッとつむり体は強張っている。倒れる瞬間とっさに体をひねって俺が下敷きになったが相手は女の子だ。どこかケガでもしていたら大変だ。


「うん……」


 四条さんはゆっくりと目を開けていった。


「よかったぁ…。ケガしてたらどうしようかと」


 俺は安心して口からフゥと大きく息を吐いた。体の筋肉が一気に弛緩していく。


 背中の痛みは引いていき変わりにアスファルトの冷たさが伝わってくる。


「あの…もう大丈夫だから」


「え?」


「腕、ちょっと痛い」


 首を少し上げると俺はこれでもかと四条さんを引き寄せて腕を力強く抱きしめていた。四条さんのあでやかな肢体が密着している。全身がほんのりと熱を持ち柔らかい。心臓の鼓動が速くなる。


「ご、ごめん…」


 俺はそう言って腕をほどき四条さんから離した。


「ううん。倒れた私が悪いんだし。堀河君は助けてくれたんだから謝るなら私のほうだよ」


「元々俺がぶつからなきゃこうなってないし。全面的に俺が悪いよ。でも、四条さんにケガがなくて良かった」


「堀河君は大丈夫?思いっきり倒れたしケガはない?」


「俺は何ともないよ。どこも痛くないから安心して」


 四条さんはよかったぁと呟いた。その安堵の念で溢れている顔をみるとこっちまでうれしくなってきてしまう。


 俺は四条さんに向かって微笑んだ。俺が今できる最大限の笑顔だ。四条さんは呼応するように微笑み返してきた。口角があがり目が細くなり、膨らみをもつ唇は横に広がり薄くなる。さっきまで彼女の笑顔には微かに違和感があったでも今はそれが全く感じられない。今まで見てきた中で一番の笑顔だ。


「堀河君の笑顔ぎこちないよ」


 四条さんはそう言って仰向きになっている俺の頬をクイッと上げた。彼女の指先は少し冷たい。だが胸のあたりと体の内から湧いてくる熱が背中の冷たさを押しのけ彼女の指先までにも温もりで包み返そうとしている。


「ひほひほふはあんふぁないはら」


「ちゃんと喋ってよ」


「だっへ、ひほーはんが」


「あはは、おもしろい」


 至福の時間だが意地悪されてるみたいで気恥ずかしい。もっと続いてほしいような続いてほしくないような。こんな心がほっこりするのは久しぶりだ。あの時から忘れていた感情を思い出したような気だする。


「ガチャッ…」


 ドアが開いたような音がする。俺と四条さんは同時に音がしたほうを向いた。そこにはエプロンをした前髪がきっぱりと真ん中で別れているストレートロングヘアの女の人が立っていた。


「大きな音がしたと思ったら家の前で何やってるのよ」


 よくよく考えると俺たちはいま道路に二人して倒れている状態だ。俺たちは二人の世界に入っていたから何とも思っていなかったが傍から見るととてもシュールな場面だ。


「ママ……」


 俺の上に乗っている四条さんがそう呟いた。


「……ママ!?」


 俺は家の前を囲む塀をみるとそこには黒の石に四条と彫られている表札があった。


「帰ってくるのが遅いから心配してたのよ。えっとそこの君は、蓮華の同級生?」


「あ、はい。堀河歩と言います」


 四条さんが上に乗っかったままなので何とか上半身を起こして言った。


「蓮華、今は深くは問いたださないけどいつまで乗っかってるつもり?堀河君も重そうにしてるわよ」


「そ、そんなことないから!ね?堀河君!」


 四条さんは勢いよく立ち上がって訴えるように見てくる。


 俺は苦笑しながら立ち上がった。


 四条さんが俺をキッと睨みつける。


「全然重くなかったから大丈夫だよ」


 そう俺が言うとそれはそうだと言わんばかりにしたり顔をしている。


「いいところ悪いけどいつまで外にいるつもり?蓮華は早く中に入りなさい。堀河君は…」


「俺ももう少し行ったところに家あるんで帰ります。それじゃあ四条さんも体あっためてね」


「うん。堀河君も送ってくれてありがとね。それじゃあまたね」


 そう言って堀河さんは玄関まで歩いていった。四条さんは中までは入らず玄関のドアの前振り返って胸の前で小さく手を振っている。慣れていないことで恥ずかしさもあるが俺も腰あたりで小さく手を振った。


 俺は四条さんの後ろに立っている四条さんのお母さんに一礼してから回れ右をして四条さんの家を後にした。


 体がフワフワしている。首を捻ってちらっと後ろを見たがもう堀河さんの家が小さくなっている。歩けてはいるが足がおぼつかなく地に足がついていない感覚だ。


 街頭に照らされていた小石を蹴って足の感覚を取り戻す。角張かどばっている石は不規則な転がり方をする。右に行っては左に行き時には真っ直ぐ転がる。俺はそのどこにでも落ちていそうな変哲もない小石を無心に追いかける。小学生に戻った気分だ。俺は思いっきり小石を蹴った。ザッと靴とアスファルトが擦れる音と同時に石が勢いよく転がっていく。佳馬のように転がっていった石は街灯の光が届いていない塀際の陰に消えていった。


 ポチャン・・・


 呆気なく用水路に落ちた。


 俺は地面と睨めっこしていた顔を上げる。目の前に見知った家がある。俺の家だ。


 カバンから家の鍵を取り出し鍵を開けて家の中に入っていった。


「ただいま」


 真っ暗なリビングに向かって声をかけた。返事は当然ない。今日も父さんから帰りが遅くなると連絡があった。


お腹は空いているし体は冷たいだが体のどこにも力が入らない。


 俺はなんとかリビングの電気をつけてソファに寝転がった。壁にかかっている電波時計の長針は9と10の間にある。


 全身の力が抜けていく。まるでソファに吸い込まれるように体が落ちていき俺は眠りについてしまった。

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