第4話
「雨って独特なにおいがするよね」
結局俺は聞けずに話題を逸らして逃げた。四条さんはそうだねとしか言わない。それも雨にかき消されそうな小さい声でだ。
内心どうすればいいかと焦っている。話を逸らしたのはいいが反応が著しいものではない。逃げたのが悪いのか話題のチョイスが悪かったのか。俺は学校で休み時間に意気揚々と数人で集まって話すタイプではない。何とか話題を見つけようと思い周りを見渡したが生憎の雨で得られる情報は何ひとつとなかった。
まだ、ひねり出したものが「好きな食べ物なに?」とかではなかっただけ頑張ったほうだ。
雨の生臭い匂いが鼻腔をくすぐる。
「聞いたことががあるんだけど・・・・・・」
四条さんが口を開いて話し出した。
「この匂いって場所によって違うらしいよ。微生物が原因だって。だからここみたいな公園は地中に沢山生きているから匂いが強くて道路とか下がアスファルトのとこはあまり匂いがしないらしいよ」
「そうだったんだ。全然知らなかった。てことはその微生物の死骸の匂いってこと?」
俺は目線を下げ雨に打ちつけられて水を含み柔らかくなっている地面を見る。当然、微生物を見ることはできない。だが見える画用紙一枚分の広さにも何百、何千万と微生物が生きているのだろう。
「ううん」
どうやら違ったらしい。
「え、だったら何の匂いなの?」
「えーと、それは・・・うん・・・あの、あれだよ・・・・・・」
四条さんは訥々と言うが答えになっていない。どうしたのだろう。
「あれって?」
俺は視線を上げて四条さんの方を見た。四条さんは俯きがちになっている。それに加えて手を膝の上でもじもじとしている。気のせいだろうか僅かに見える頬がほんのりと赤らんでいた。
「四条さんは「えっと・・・」、「あのー・・・」、「うーん・・・」とだけを繰り返している。壊れた機械みたいだ。もしかしたら答えを忘れてしまったのかもしれない。そうなると今は頑張って思い出してる最中だろうか。それならこの繰り返される言葉にも納得がつく。俺も絵を描いている時に筆が止まるとよく唸ってしまう。
思い出すまで待とうとした時だった。
「お・・・なら」
「奈良?」
奈良に行きたいのだろうか。
「おならなの・・・・・・」
四条さんは急に近づいてきて耳元で囁いた。息が冷たくなった耳を温めそ濡れた髪がうなじを撫でた。少しくすぐったい。
俺は四条さんが放った言葉を理解できない。俺は頭の中でその3文字の単語を反芻する。おなら?自分で気づかないうちにすかしてしまったのだろうか。いやそんなはずはない。俺は生涯屁をすかしたことがない。
ということは四条さんが!?
いやこんな可愛い人が急に「私がおならをしました。臭いですよね」なんてカミングアウトするはずがない。俺は冷静になって考える。もしかしたら聞き間違いかもしない。
俺はつい数秒前のことを思い出した。
何度回想しても美少女がその言葉を発している。吐息混じりの声。鼓膜を介せず直接脳に届く。
間違いはなかった。思わず出てしまったのだろう。
でもそんな匂いはしない。無臭だ。
「その・・・全然匂いしないから大丈夫だよ?」
俺も四条さんと同じように顔を彼女の耳に近づけて言った。首筋からは香水の匂いがし、濡れた制服からは弾けたようなフローラルの香りが鼻を通った。
言い終わり顔を話すと、四条さんはきょとんとした顔てこちらを見ている。眉頭が上がりへの字を描いていた。
「だから、そっちは気にしてるかもしれないけど本当に匂いなんかしないし・・・それに生理現象だから思わず出ても仕方ないし我慢する方が体に悪いよ」
聞こえなかったのかと思い近づきはしなかったが声量をあげて言い直した。
「あと、記憶から消しとくから・・・」
誰が何をしたかは尊厳に関わることなので言うまい。
気がついたら四条さんは下を向いている。やっぱり気にしすぎだ。だが何処か様子がおかしい。震えてる?
「・・・・・・四条さん?」
俺がそう声をかけると四条さんは右拳を振り上げた。
「あっ・・・・・・」
四条さんはそのまま躊躇することなく振り下ろした。鈍い音が鳴り左肩に衝撃がはしった。俺は思いっきり殴られた。唐突なことに状況の処理が追いつかない。
「ばか、ばか、ばか!!」
四条さんは顔を真っ赤にしながら言った。
「ばかって、俺が?」
「そうだよ!堀河君が馬鹿なんだよ!」
「えぇ・・・」
やはりデリケートなことで触れずにスルーすべきだったのかもしれない。今さら後悔しても後の祭りだ。
「ごめん。別に揶揄ったわけじゃなくて・・・」
「やっぱり・・・何でそうなるかな?もしかして堀河君は馬鹿なの?いや、馬鹿だ。アホじゃないこれは正真正銘の馬鹿だね」
四条さんの口から罵詈雑言が浴びせられる。
俺の口はぽかんと開いた。髪の先から落ちた水滴が口の中に入り忽ち舌に滲んで消えた。
「こんなに言っても気が付かないんだ。もしかして人と会話したことない?話の脈略から考えればわかることなのに。普通だったら誰でもできる。ちがう?」
「そう言われてもな…」
「堀河君は友達がいないの?じゃなかったらこんなこと起こるはずがないもん」
「たくさんはいないが仲がいいやつなら二人ほど」
あんな些細なことでここまで怒られるとは思っていなかった。
「なるほどね全部理解できた。堀河君は関わっている人数が少ないんだ。だから人の気持ちが分からない。察することができない。下手なんじゃない、できないの。」
「それは違うんじゃない?俺は友達が少ないことは自覚している。それに俺は俗にいうコミュ障だ。四条さんみたいにたくさんの人に囲まれて生きているわけじゃない。だけど俺は俺なりにあいつらと接している。完璧にではないがあいつらのことは分かってるつもりだよ」
四条さんはリア充だからそう言えるのだろう。俺にはそんなスキルを所有していない。自分の考えを他人に押し付けることは嫌いだ。
「それはその人たちに限ったことでしょ。仲がいい人たちのことをわかってあげるのは当たり前のことだよ」
言葉を発するたびに四条さんの口調は強くなっていく。
「なんで仲がいいわけでもない人のことをわからないといけないんだ?」
純粋な疑問だ。仲良いやつであればその人のことをある程度しっているのでなんとなくそのひとの考えが伝わってくる。だが、そうでなければなにか伝わってくるはずがない。伝わったとしてもその人の感情だけだ。
「そうじゃないとだめなの……」
声のトーンが一オクターブ分くらい落ちている。そのまま四条さんは続けた。
「そうじゃないと生きていけないの」
四条さんの目線は俺を越えたとこにある。確かに俺に向かって話しているがまるで俺じゃないものに向かって語りかけているかのように。
俺と四条さんはついさっき知り合ったばかりだ。そんな俺に彼女の言葉の真意を察することはできない。
「ごめん。変なこと言って。私帰るね」
四条さんはそう言ってカバンの紐を肩にかけ立ち上がった。
雨はいつの間にか止んでいる。
四条さんはそのままこちらを一瞥もせず歩き出した。雨が上がったとはいえ暗いのに変わりはなく遠ざかっていくその背中はすぐに見えなくなった。
四条さんは何か悩んでいる様子だった。俺に対して怒っているという感じはしなかった。
俺は体を反らして後ろを見た。濡れた前髪が向こう側に倒れ、頭に血が上っていく。雨はあがったがまだ雨雲があるのだろうか逆さになった空には星はひとつも見えない。
俺ははっとして立ち上がり見えなくなった背中を追った。走ると意外とすぐに四条さんを見つけることができた。
「あ、あの、四条さん!」
ぺちゃぺちゃと水を跳ねさせて歩いている小さくなっている背中に声をかけた。
四条さんは振り返らずに足を止め立ち止まった。
「もう、時間遅いし女の子をこんな暗い中一人で帰らせるわけにはいかないから途中まででもいいから送らせてもらってもいいかな」
彼女からの返答はない。俯きがちになって肩まであった髪は雨水を含み重くなったのも相まって肩より手前で揺れ白くすっきりとしている顎を隠している。
四条さん足元の水たまりの表面をローファーで擦った。掻き上げられたみずは俺のスラックスにかかる。そして四条さんは再び歩きだした。気のせいだろうかふふっと漏れ出たような笑い声が聞こえた。
俺は小さな歩幅で歩く四条さんの半歩後ろをついていった。
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