赫い恋衣

十余一

赫い恋衣

 小鳥がさえずり柔らかな光がふりそそぐ春の日、梅乃うめのは一人の青年と出会った。

 否、出会いというほどの縁は結ばれていない。本郷ほんごう菩提寺ぼだいじに参詣した後、せっかくだからと足を伸ばした上野山うえのやま不忍池しのばずいけを望む高台では、見事に咲き誇る枝垂桜しだれざくらが人々の目を喜ばせていた。誰も彼もが陽光を透かした花弁に目を奪われる中で、青年は真っ直ぐに前だけを見て、脇目も振らずに駆け抜ける。向けられた視線にも気づかない。たったそれだけの、一瞬の邂逅かいこうであった。


「お梅や、お梅」

 連れ立つ母に肩を叩かれ、梅乃はハッと我に返る。青年が走り去ったあとも、ずっとその後ろ姿を目で追っていた。荒磯と菊の模様を染めた紫縮緬ちりめんに、桔梗の紋。緩くまとめたたぼに白の元結もとゆいがなんともいきだ。刹那の出来事だったというのにいやにハッキリと覚えている。どうしてこんなにも目に焼き付いているのか。自覚した梅乃の頬が桜よりも濃く染まる。

「疲れたのかい。そろそろ帰ろうか」

「いいえ、もう少しだけ……」

 母の気遣いを断り、梅乃は賑わいの中へ歩みを進めた。三味線の音と高らかな小唄、酔客の笑い声。そこかしこに敷かれた毛せんや花むしろには弁当が広げられ、皆、春を楽しんでいる。行き交う人々も口元に笑みを湛え、時おり足を止めては青空と薄桃に感嘆の溜息をつく。梅乃は桜を楽しむふりをして青年の姿を探すが、ついぞ彼を見つけることは叶わなかった。

 口もきかず目も合わさず、袖すら触れ合わなかった縁。しかし青年が吹かせた一陣の風は鮮烈で、箱入り娘にとっては天のおぼし召しように感じられた。麗らかな陽気とは裏腹に、梅乃の心ははげしく燃え上がっている。後のことを思えば、このとき既に火種がくすぶっていたのだろう。


 それからというもの寝ては夢、起きてはうつつまぼろしの、恋のわずらいとどまるを知らず。もう一度会いたい。そしてあの澄んだ瞳で、真っ直ぐに私のことを貫いてくれたら、と。梅乃の心中はそればかりだ。

 両親は愛しい一人娘のために手を尽くして青年を探したが、一向に見つかる様子はない。

 せめてもの慰みにと仕立てた紫縮緬の振り袖をかきいだき、梅乃は焦がれ続けた。再会を信じ、青年の眼差しに、かんばせに、そして後ろ姿に想いを寄せる。枝垂桜が咲き乱れ、清らかな風が吹いたあの春の日に囚われたまま、数か月が過ぎようとしていた。心ここにあらずという様子の梅乃は食事も喉を通らず日に日に痩せ衰え、とうとう病床に伏す。


「あのお方に一目だけでもお会いしとうございました。せめて最期に、一目だけでも……」

 とこに伏したまま、か細い声で未練を呟く娘を、両親は必死に勇気づける。

「そんなことを言わないでおくれ、お梅」

「きっと見つけだしてみせるからね。元気な姿で会いに行きましょう」

 両親の励ましに耳を傾けながらも、梅乃は自身が死へ向かっていることを痛いほど理解していた。心はこんなにも熱く焦がれているというのに、身体からだは凍えるほど冷えている。ひどく寒い。そして臨終に際して、純粋な恋心に妬心としんが混ざる。

 梅乃は、この世のどこかにいる青年が、その目で他の女を見つめているかもしれないことが許せなかった。添い遂げられずに私だけが先に逝ってしまうのならば、いっそこの世を黄泉よみにしてしまえばいいとさえ思う。そうして梅乃は息を引き取った。明暦めいれき元年一月十八日。十七の乙女の、あまりにも短い生涯であった。



 その後、紫縮緬の振り袖は数奇な運命を辿ることになる。

 梅乃を不憫に思った両親は、振り袖で棺をおおい葬儀を済ませ、そのまま菩提寺である本妙寺に納めた。しかし振り袖は、はか人足にんそくへの労賃にすべく古着屋へ売り払われてしまった。

 その古着を手に取ったのは、紙商大松屋の娘きの。奇しくも、きのも病床へ伏し、翌年の一月十八日によわい十七で亡くなる。そしてまた振り袖は古着屋へ流れるのだが、それを手に取った麹商天野屋の娘いくもまた、一月十八日に十七で生涯を終えた。


 若い娘の死と共に三度みたび、寺へ戻ってきた振り袖。おそろしく思った住職は供養を試みた。が、振り袖を燎火りょうかへ投じた途端、強風にあおられ宙に吹きあがる。裾に炎を纏った振り袖は、まるで人が着ているかのように振舞う。火の粉を散らしながら、何かを探してのたうち回り、ひるがえる。

 ほどなくして炎は本堂の屋根へ燃え移り、瞬く間に市中へ広がっていった。江戸六十余町は灰燼かいじんに帰し、江戸城天守も焼け落ちた。炎は数日にわたり燃え続け、逃げ場を求めた人々の死体で川や堀は埋め尽くされた。後に“振袖火事”とも呼ばれる、“明暦の大火”である。

 叶わぬ恋の炎は乙女の身だけに飽き足らず、多くの人の命と暮らしをも焼き尽くしてしまった。「執心、愛念、嫉妬のおそるべきことを思い知り」と書き残したのは誰であったか。紫縮緬の青年もまた、渦巻く炎から逃げ惑い、あるいは業火に焼かれたのかもしれない。



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