悪党たちに捧げる挽歌(1)

 その夜、夢を見た。

 何もない暗い部屋の中、ひとりぼっちで佇んでいる。膝下まで温い水がひたひたと溜まっている。水はぬるぬると足にまとわりつき、むせ返えるような鉄の匂いが鼻をつく。

 水は部屋一面を満たしていた。窓から差し込む月の光を反射して、水は黒い海のようだ。


 歩きだそうとして、何かが足もとに触れた。

 ぷかりと浮かんできたのは凶悪な髭面の男だ。自分の運命を受け入れられず、信じられないという顔をしている。

 手塚はその顔を冷ややかに見下ろす。誰だったか、覚えていない。


 よく見れば、同じように黒い海に死体がたゆたう。男もいれば女もいた。皆苦悶と驚愕の表情を浮かべている。自分を睨んでいるような顔もあった。

 同情も憐憫もない。流した血の海で罪を悔いることもなく虚空を見つめている。


 真っ暗な血の海にあいつも沈めることになるのだろうか、それとも自分が沈むことになるのか。手塚はぼんやりと考える。もし、あいつがここに浮かぶなら、自分はたった一人になってしまう。

 胸が張り裂けそうなほどの孤独を感じ、手塚は苦悩する。


***


 カーテンから漏れる朝陽が瞼の上で揺らめいていた。朝六時三十分、職場へ向かうために起きる時間だ。鼻の奥に鉄の匂いが残るようなリアリティのある夢だった。

 子供の頃から見る黒い血の海の夢だ。最初の頃は怖くて不安で、水を蹴って走った。しかし、粘性のある水は足に絡みつき、逃げることはできなかった。


 殺しを始めて、ここに死体が浮かび始めた。ひとつ、またひとつと増えてゆき、そのうち海を埋めるのではないかと思えた。しかし、死体が増えるほどに海は広がり、今や果てが見えない。彼らの流した血が海になるのだろうか。

 もの言わぬ死体は恨みがましい目で天井を見つめるだけ。手塚はいつまでも孤独だった。


 顔を洗い、髭を剃る。ヨーグルトとコーンフレーク、コーヒーで朝食を済ませ、オフィスカジュアルに着替える。可燃ゴミを持って部屋を出て、階段で一階へ降りる。

「おはようございます」

 この時間帯にいつもゴミステーションで出会う若いOLに声をかける。

「今日も暑くなりそうですね」

 当たり障りない会話を交し、駐輪場へ向かう。


 マウンテンバイクに跨がり、職場へ向かう。マンションから三十五分、ちょうどよい運動になる。閑静な住宅街の中を進みゆるやかな坂道を下り、運動公園の敷地を通り抜ける。青い葉が茂り始めた銀杏並木の道路の正面に逢見学園大学付属図書館のシンボルの時計台が見えてきた。

 いつもと変わらない朝だ。しかし、手塚の心は浮揚していた。

 

 今夜九時、横浜港。どうすれば後悔しないのか、手塚は思い悩む。

「手塚さん、おはようございます」

「おはよう」

 喜久子は普段と変わりない笑顔を向ける。彼女を傷つけてしまったかもしれないと手塚は気を揉んだが、気丈な姿に安堵する。


 驚くほど頭が明瞭だ。意識が冴え渡っている。昨日進まなかった論文翻訳支援や学会の資料作りが順調に進んだ。

 定時後の会議をこなせば、《待ち合わせ》にちょうど良い時間だ。


***


 市立病院の駐車場は午後は比較的空いている。鳴瀬は入院棟に近い駐車場にクラウンアスリートを停めた。

 黒いスーツに黒のネクタイ姿ではまるで喪服だ。鳴瀬はスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩めた。

 黒縁眼鏡にダーググレーのワイシャツ姿で諒子の入院する病棟へ向かう。


 受付で家族の面会を伝えた。集中治療室から一般病棟へ移動していたことに安堵する。八階西の脳神経外科の病棟らしい。

 鳴瀬はエレベーターに乗り込む。隣にリネン類を積んだラックを押すスタッフがいた。鳴瀬はそっと白衣を抜き取り小脇に抱えた。


 エレベーターを降り、詰所の看護師に諒子の病室を尋ねる。数日間連絡が取れなかった家族が会いにきたことに驚いていた。

 書いてもらわないといけない書類がいろいろあるので病室に持ってくる、という。

 つまり、諒子は書類を書けない状態なのだ。

「わかりました」

 素直にそう言ったものの、長居をする気はなかった。


 諒子の病室は詰所から様子が確認しやすい観察用個室があてがわれていた。鳴瀬は静かにスライドドアを開ける。

 諒子は頭に包帯を巻かれ、眠っていた。腕には点滴やルートが繋がれており、見るも痛々しい。呼吸は安定している。モニターのバイタルも正常だ。

「諒子、すまない」

 鳴瀬は反応のない妻に詫びた。


 看護師がやってくる前に鳴瀬は病室を出る。非常階段のドアを開け、手にした白衣を羽織った。

 五階まで降りて詰所に向かう。平然とスタッフエリアに入り込み、つけっぱなしのパソコンの電子カルテで諒子の名前を検索した。

 階が違えば見覚えのない医師がいてもスタッフの注意を引くことはない。

 鳴瀬は諒子のカルテ記載を読んでいく。


 まだ意識は戻らないが、呼びかけに微かに反応ありと主治医の記録にあった。機能障害が残存するかどうかは意識が戻らねばわからないようだ。夫と連絡が取れず、警察にも事情を聞かれたとある。

 鳴瀬は唇を噛む。反応があるなら回復の望みはある。微かな希望が持てた。

 本当は付き添ってやりたい。しかし、京平が待っている。鳴瀬は非常階段を駆け下り、手摺りに白衣をかけて何食わぬ顔でロビーを通り抜け病院を出た。


 車に戻り、エンジンをかける。今夜九時、横浜港。鳴瀬はメッセージに添付された京平の写真を見つめる。

「必ず助けてやる」

 鳴瀬は静かに呟き、アクセルを踏み込んだ。



 

 


 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る