交錯する想い(3)

「あの、手塚さん」

 手塚が地上階への階段を登ろうとしたとき、喜久子に呼び止められた。

「小説の推敲、頑張ってます。アドバイスのおかげで初稿よりすごく良くなったと思う」

 喜久子は緊張しているのか、やや早口になっている。

「そう、良かった。あの作品はきっと読者の心を掴めるよ」

 手塚は穏やかな笑みを浮かべる。


 彼女の作品は筆力、物語ともレベルが高く、テーマも一般的に好まれるものだ。公募の一次選考は余裕で突破できるだろう。だが、並み居る作品を抜いて最後の一作品に選ばれるためには、あとほんの少しのスパイスが必要だと感じていた。


「手塚さんて、お付き合いしている方はおられますか」

 喜久子は思い切って尋ねた。声がうわずっているのが自分でも分かり、緊張がさらに加速する。手塚にほのかな想いを寄せていた。付き合っている人がいるなら諦めようと思っている。


「いないよ」

 その言葉に喜久子の心臓が跳ねる。自分でも顔が紅潮しているのがわかる。勇気を振り絞り、何度も思い描いた言葉を口にする。

「もし良かったら、私とお付き合いしてもらえませんか」

 とても顔を見られない。喜久子は俯き加減で手塚の答えを待つ。手塚は驚いたのか、戸惑いの表情で目線を落とした。


「困らせてごめんなさい。その、迷惑なら忘れてください」

 喜久子は居た堪れなくなり、笑いながら手を振る。ああ、もう無かったことにしたい。誰にもしたことのない小説の相談をして話が弾んだからと好意を抱き、調子に乗ってしまった。

 告白をしたことで微妙な空気になって、今後距離を取られるかもしれない。喜久子は無謀な行動をひどく後悔した。


「付き合ってる人は本当にいないんだ。でも、俺のことを本当に理解してくれる人がいる」

 手塚は言葉を選んで話し始める。

「その人の前なら本当の自分を曝け出せるんだ」

「きっと、素敵な方なんですね」

 喜久子の胸がチクリと痛む。手塚の切なげな表情に、彼が想いを寄せる相手には到底敵わないと直感する。


「いや、全然相手にされてないんだ、辛いよ」

 手塚は物憂げな眼差しで自嘲する。手塚のような魅力的な男性に惹かれない女性なんているのだろうか、喜久子は不思議に思う。彼も叶わぬ恋に心を痛めているのがひしひしと伝わってきた。


「今、そいつは大変な状況に置かれていて、どうすれば良いのか悩んでる」

「大切な人なら助けなきゃ」

「でも、俺のせいでそうなった経緯もあって」

 手塚は苦悩して頭を抱える。いつもスマートな男のこんな姿を見るのは初めてだ。


「絶対助けなきゃダメよ」

 喜久子は顔をあげて手塚を見つめる。普段物腰柔らかく優しい喜久子がこんな強い目をしていたとは、手塚は意外に思う。

「どんな状況かわからないけど、そうしないときっと後悔するわ」

 後悔する、その言葉に手塚は目を見開く。

「もし私で力になれることがあるなら、何でも相談してくださいね」

 喜久子はにっこり微笑む。


 暗殺者のターゲットを横取りしたために、そいつが組織に追われ窮地に陥っている。どうしようなんて相談できるはずがない。

「綾野さん、ありがとう」

 手塚は穏やかな笑みを浮かべる。

「うん、頑張って手塚さん」

 喜久子は気丈にガッツポーズをして見せる。

 

「また小説を読んでもらえますか」

「もちろん、ぜひ読ませてもらうよ」

 ああ、まさか他人のキューピッドになるなんて。でも気持ちを伝えて良かった。これまでも変わらぬ付き合いができそうだ、甘い期待に決着がついて喜久子は脱力した。


 書庫を出て、手塚は司書室に籠る。

 喜久子の言うとおりだ、鳴瀬を助けることで自分以外の人間に奪われずに済む。鳴瀬を殺すのは自分だ。喜久子の前では見せなかった暗い笑みを浮かべる。


「綾野さん、どうなの」

 喜久子が戻ってくるなり春江が声を顰めて呼び止める。

「えっ」

「手塚くんと、どうなの」

 春江は喜久子が手塚と良い間柄だと勘違いしているようだ。いくつになっても女はこういう話題が好きなんだな、と喜久子はしみじみ思う。


「手塚さん、想い人がいるらしいんです」

「そうなの、あなたたちお似合いと思ったのにねぇ」

 春江は本心から残念そうに呟く。余計なこと聞いちゃったわ、と春江は気まずそうにパソコンに向かい始めた。喜久子は晴れ晴れした気持ちでカウンターにやってきた大学生の対応を始めた。


***


 定時で仕事を切り上げ、手塚は大学図書館を足早に出る。マウンテンバイクで向かうのは鳴瀬のマンション「パークアベニュー三津田」だ。灰色の雲に真っ赤な残照が反射して不吉な気配が重くのしかかる。


 あれから鳴瀬の消息の手掛かりはない。自宅に待ち伏せすることがシンプルだと判断した。

 以前、女性を執拗に付け狙うストーカーを獲物にしたことがあった。その執念たるや、呆れるほど欲望に忠実な男だった。今や自分も鳴瀬に執着している厄介な人間に違いない。その自覚はあった。


 近くのコンビニエンスストアにマウンテンバイクを停め、マンションのエントランスへ向かう。いや、待ち伏せするなら非常階段か。


「鳴瀬さんのところ、聞いた?」

「あんな事件が起きるなんて、子供を外で遊ばせるのも怖いわ」

 エントランス付近で中年女性が二人、世間話をしていた。鳴瀬の名を耳にして、手塚は足を止める。

「鳴瀬さんに何かあったんですか」

 手塚は二人の会話に迷わず顔を突っ込む。


 二人は一瞬警戒したものの、縁なし眼鏡の似合う好青年の姿に気を許したのか、とっておきの噂話をここぞとばかり喋り始める。

「奧さんが暴漢に襲われて、幼稚園に通う息子さんが誘拐されたそうなの」

「旦那さんは真面目なサラリーマンで、ハンサムだけどちょっと暗い感じだったわね」

 そうそう、と青色シャツの小太り女が相づちを打つ。


「旦那さん、奧さんを病院へ連れて行ったまま帰ってないらしいわ」

「それって、奧さんの病院に泊まり込みしているんじゃないの」

「それがね、警察も行方を探してるらしいわ」

 女たちは聞かずとも情報を垂れ流してくれる。妻は入院、息子は連れ去られ、鳴瀬は行方不明だ。


 手塚が礼を言って去ったあとも彼女たちの話は尽きることはない。平和なマンションで起きた事件はよほど刺激的らしい。鳴瀬も家族もゴシップのネタか、憐れむ振りをしてみても結局他人ごとなのだ。

 手塚はマンションの五階を見上げて唇を噛む。

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