交錯する想い(2)
鳴瀬はコインパーキングにクラウンアスリートを停め、九番街を目指す。街灯に照らされたアスファルトは雨の匂いを残してぼんやりと光っている。まるまる太った猫が足元をすり抜け、車道を悠々と横切っていった。
雑居ビルの階段を見上げる。鳴瀬の来訪を出迎えるように、九番街のシンボルであるレトロなランプの灯りがついた。
落書きに埋め尽くされた狭い階段を登っていく。店にいるのは吾妻だけだろうか。処刑人が待ち伏せしていることも考えられる。
鳴瀬がドアノブに手をかけようとした瞬間、内側からドアが開いた。
「お待ちしていました」
吾妻は上品な笑みを浮かべて会釈する。鳴瀬を店内へ導き入れ、階段を照らすランプを消した。
「どういうことか説明してもらおう」
鳴瀬はカウンター越しに吾妻を見据える。吾妻がカウンターに置いたアンティークのステンドグラスのランプスタンドを点灯すると、暗い店内は幻想的な光に包まれる。
「天狼はあなたを排除対象に認定しました」
吾妻はべっ甲縁の眼鏡を人差し指で持ち上げる。
「それを今言うか」
鳴瀬は湧き上がる苛立ちを押し殺す。
「私も先程知らされたのです」
吾妻は無念そうにため息をつく。その落胆ぶりは本気で失望しているように思えた。
排除命令が出るということは、暗殺者の確実な死を意味する。最後の情けか、排除命令が出たことはコーディネーターを通して本人に通知されることになっている。
今回は異例だというのか。
「排除命令が出た場合、諒子と京平は契約満了になるはずだ。なぜ彼らに危害を加える」
鳴瀬の言葉で初めて知ったのか、吾妻は驚く素振りを見せる。
「まさか、そんなことまで。申し訳ありません、今回の件は私の範疇を超えています」
吾妻はがっくりと項垂れる。
「あんたの知らぬところで事態が動いていたのは分かった。ここへはもう来ることはないだろう」
ひとつ頼みがある、と鳴瀬はカウンターに歩み寄る。
「こいつを育ててくれないか」
鳴瀬はエコバッグから鉢植えのサボテンを取り出してカウンターに置く。
「ここのカウンターは殺風景だろう。大きくなればそのうち花が咲く」
「分かりました。大事に育てますよ」
吾妻は丸いサボテンと鳴瀬の顔を交互に見やる。
「水やりが大事だ、ポイントは後からチャットで送る」
妙に律儀な男だ。吾妻は鳴瀬のこれまでの真面目な仕事ぶりを思い出し、懐かしい想いに駆られる。
鳴瀬のスマートフォンが振動する。メッセージを見た鳴瀬は目を見開く。
そこには暗闇の中、椅子にぽつんと座らされた京平の写真が表示されていた。背後には臙脂色のカーテンが引かれている。これではどこにいるのかわからない。見たところ危害は加えられていないようだ。
写真にはメッセージが添付されていた。
「二日後、午後九時、横浜港」
指定の場所に来いということか。行けば自分は必ず殺されるだろう。一人なら追手をかわして海外に飛ぶこともできる。
しかし、京平は助けが来るのをきっと待っている。鳴瀬に逃げるという選択肢は無かった。
「店にいくつか武器のストックがあります」
「いや、俺に加担すればあんたも立場が危うい。気持ちだけ受け取っておく」
鳴瀬は吾妻の支援を断った。危険を冒してここは呼んだのは鳴瀬を密かに支援するためだったのだ。
吾妻は誠実なコーディネーターだった。彼を巻き込むのは不本意だ。
「あんたには世話になった。感謝している」
鳴瀬はドアノブに手を掛ける。カフェインを避けてコーヒーは飲まないが、この店に染みついた香ばしい豆の匂いは好きだった。
「名前は金晃丸という、頼んだぞ」
鳴瀬は足を止めて振り返る。
「承知しました」
サボテンのことと気づいて、吾妻は穏やかな笑みを浮かべる。
鳴瀬ほどの男をどうして。組織のやり方に虚しさを覚える。どうか無事で、心の中で祈るように呟いた。
***
「ガキのお守りなんてつまらねぇな」
ソファにだらしなく寝転ぶ黒服は間延びした欠伸をする。
「まったく同感だ」
髪を剃り上げた黒服はベッドに腰掛け、時間潰しの青年漫画雑誌を読んでいる。
椅子に座らせた就学前の男児は足をぶらぶらさせて絨毯の模様を見つめている。
組織が誘拐した子供の世話が彼らの仕事だった。排除命令が出た暗殺者の子だと聞いている。逃走した暗殺者を誘き出すためにここに連れてこられたのだ。
「おとなしくて手が掛からねえのは助かる」
「けど、怖がりもしないぜ」
京平はここに連れてこられたとき、涙ぐんでいたものの、泣き喚くこともなく大人しく過ごしている。
「おおかみさんときつねさんが助けにきてくれるからこわくないよ」
京平は絵本に登場する狼と狐を思い浮かべる。彼らは悪い悪魔から森を守ったヒーローだ。こわくない、と確かめるようにもう一度小さく呟く。
***
「手塚くん、これ違うわよ」
春代が困った顔で手塚を呼び止める。手塚が書庫から持ち出した本が伝票のタイトルと異なっていたのだ。
「あ、本当だ。すみません。すぐ取ってきます」
春代が老眼鏡をずり下げ、上目遣いで手塚を見やる。こんな単純ミスは今までになかった。手塚は朝から心ここに在らずといった様子だ。
手塚は伝票を手に地下にある書庫へ降りてゆく。地上の建物は最新設備だが、本や資料を収納するだけの地下は経費節約のため、コンクリート打ちっぱなしの床に低い天井は古いタイプの蛍光灯が使われているため薄暗い。
書棚の分類番号を確認する。タイトルを確認せず、間違えた分類番号を見て本を取り出したようだ。
手塚は今度はタイトルも見比べる。気が逸れているのはわかっていた。鳴瀬が追っ手に殺されたらと思うと居ても立っても居られない気持ちだ。生き延びてくれ、と心から願う。
階段を降りる靴音が地下に響く。書棚の奥から喜久子が顔をのぞかせる。手塚が間違えてカウンターに持って行った本を返しにきたようだ。
「これ、戻しておきますね」
「あ、置きっぱなしだったね。ごめん」
手塚は不要な本をそのままにしていたことに気がつき、喜久子に詫びる。
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