交錯する想い(1)
「脳内に溜まっていた血を排出しました。バイタルは安定していますが、意識が戻らない状況です。意識が戻っても何らかの機能障害、例えば麻痺や記憶障害などが残る可能性があります」
かなり強い力で頭部に衝撃を受けている、と若い医師が説明する。冷静に対応する鳴瀬を内心訝しんでいるようだ。
事件性あり、と判断され警察が呼ばれることになるだろう。
「妻をよろしくお願いします」
鳴瀬は丁寧に頭を下げる。時計を見れば深夜二時を回っていた。
看護師から待機するように言われた家族待合室をそっと抜け出した。警察の事情聴取をのんびり待つわけにはいかない。
病院玄関を出たところでスマートフォンにメッセージが入った。
ーコスタリカ産のコーヒー豆が入荷しました。
こんな時間にわざわざ連絡を寄越すとは、吾妻は今回の件で何か伝えたいのか、はたまた天狼の仕向ける罠か。
鳴瀬はこれから行く、とメッセージを返信した。
病院玄関前のロータリーに待機していたタクシーを拾い、自宅マンションに帰る。
部屋の鍵は開いたままだった。人の気配がないことを確認して部屋をひとつひとつ覗いていく。誰もいない空虚な部屋は空気がやけに冷たく感じられた。
鳴瀬はシャワーを浴びて、クローゼットから黒いスーツ一式を取り出す。ダークグレーのシャツに腕を通し、ボタンを留めていく。
前髪を手櫛で整え、ネクタイを締める。鏡に映るのは孤独な暗殺者の顔だ。
これまで何かを欲したことは無かった。仕事を完璧にこなし、与えられるものに満足し、無感動のままに生きてきた。それは生きている、と言えたのだろうか。
諒子を傷つけられ、京平を奪われた。失態を犯した自分の甘さと、天狼の卑劣なやり方に耐えがたい怒りを覚える。
京平はおそらくまだ生きている。自分を誘き寄せる餌にするつもりだ。組織を裏切ることになっても、京平を救い出す。
組織の手から遠ざけ、彼には自由な人生を歩ませてやりたい。自分の二の舞になるような目に遭わせてはならない。
そのためには戦うしかない。鳴瀬は鏡に映る自分の顔を見据える。他人の言いなりで生きてきた愚かな男の顔だ。
怒りに握りしめた拳で鏡を殴りつける。鏡が割れ、拳に破片が突き刺さる。血に濡れた拳をそのままに、部屋を出て行こうとして足を止める。
自室の窓際に置いたサボテンをキッチンにあったカラフルな南国模様のエコバッグに入れる。
駐車場に降りて黒のクラウンアスリートに乗り込み、エンジンをかける。池袋のレトロ喫茶九番街の位置をカーナビゲーションに登録した。
高架下を走り抜け、トラックを追い抜き首都高速に乗る。
カーステレオからは深夜ラジオのリクエスト曲が流れている。
サイモンアンドガーファンクルの「サウンドオブサイレンス」だ。微かな雑音混じりの歌声に不思議と懐かしさを覚える。
群衆の中にいても誰も皆孤独、確かそんなそんな歌詞だったように思う。
今、京平はたった一人ぼっちで怖がっているのだろうか。諒子は深層意識の中でもがいているのかも知れない。
そして、手塚もまた孤独に苛まれていたことを思い出す。
***
煌めく青に飛び込み、突き進む。限界まで呼吸を止めて、水と一体になる。水面に顔を出し肺に空気を吸い込み、壁を蹴ってターンする。
深夜のジムのプールは貸し切り状態だ。手塚は一人黙々と泳ぎ続けている。
普段なら、水に潜れば思考がクリアになる。
しかし、今夜は雑念が脳裏を飛び交い、集中できずにいた。もう二キロは泳ぎ続けているだろうか。鈍重な疲労感に気を抜けば身体が沈んでいきそうになる。
冷たい水の中で鳴瀬の声が反響する。
ーもう誰も殺さなくてもいいはずだ
お前に何がわかる。手塚は身体の力を抜き、水面に浮かび上がる。天窓に取り付けられたライトが眩しくて目を細めた。
殺しこそが自分を保つ方法だと思っていた。あの時、家族の仇だった光田の命の火が消えるのを見届けた。
満足というより虚しさを感じた。自分にとって最高の獲物を仕留めたはずだ。それなのに。
鳴瀬を追って、思いがけない復讐の機会に遭遇した。そして復讐はあっさり終わってしまった。これ以上の獲物は見つからないという絶望感に燃え尽きているのだろうか。
殺しの衝動は復讐への執念だったのか。自分がひどくつまらない人間に思えて手塚はこのまま水に沈んでしまいたい気分になる。
シャワーを浴びて、ロッカールームのドライヤーで髪を乾かす。縁無し眼鏡をかけると、鏡の前には真面目な図書館司書の顔がある。
いつもはこれでリセットできた。しかし、心がまだ乱れている気がした。
自宅マンションに帰り、服を脱ぎ捨てベッドに身を投げ出する。
ーもう誰も殺さなくてもいいはずだ
鳴瀬の言葉がリフレインする。あの時、鳴瀬の瞳には憂いと憐れみが宿っていた。
あの男にそんな目で見られたくない。手塚は屈辱と寂寞感に身悶える。もっと怒りでも憎しみでも、殺意でも良い、沸るような感情をぶつけて欲しい。
早川暗殺を妨害した神社で、怒りに燃える鳴瀬と対峙した時の興奮を思い出す。鳴瀬には偽りない本当の自分をぶつけられた。
身体が内奥から火照り始める。下腹部の猛りを慰めながら切ない喘ぎを押し殺し、身悶える。快感が背中を這い上がり、絶頂に到達する。
こんなものじゃ足りない。あの時の昂ぶりをもう一度経験したい。激しい魂同士のぶつかり合いを。
「お前は俺の獲物だ」
他の奴に渡しはしない。手塚は乱れた呼吸を整えながら、闇の中で恍惚とした笑みを浮かべる。
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