狼を狩るもの(5)

 手塚の頬を涙が濡らしている、ように見えた。いや、前髪をつたい落ちる雨の雫だったかもしれない。

 気付けば雨は止んでいた。ネオンを反射した空が灰色に光り始める。

 見事なものだ。鳴瀬は絶命して泥濘に横たわる光田をチラリと見やる。


 光田が手塚を銃で撃とうとしたとき、腕が上がりきっていなかった。至近距離で狙いを外したのはそのためだ。手塚が最初の背中への不意打ちで上肢の動きを司る頸髄を損傷させていたのだ。

 銃を持つ相手の懐に躊躇なく飛び込む豪胆さ、そして心臓への一撃も恐ろしく的確だ。並の暗殺者をゆうに凌駕するだろう。


 吾妻に依頼して取り寄せた手塚のプロフィールを思い出す。

 五歳の頃、自宅に押し入った強盗に家族を殺害され、一人生き残った。あんな酷たらしい事件が無ければ彼は歪むことなく順当な人生を送っていたのかもしれない。


 背後に殺気を感じて振り返る。血と泥に塗れた若い処刑人が幽鬼のように立ちあがり、怒りと屈辱に顔を歪め日本刀を振り上げる。

 身構えた鳴瀬の脇をすり抜けて手塚が処刑人に体当たりした。

 処刑人は日本刀を取り落とし、一歩、二歩と後退る。バランスを崩し、よろめいて土砂の山に背中から倒れ込んだ。


 処刑人の胸にジワリと赤黒い染みが広がっていく。

「礼は言わんぞ」

 鳴瀬は苦々しい表情で手塚を睨む。

「ああ、別に良いよ。俺の獲物が他の奴らに取られるのは我慢ならない、それだけだ」

 手塚はペン型の鉄針をポケットに仕舞い込み、肩をすくめる。残忍な処刑人たちを相手にして怯える素振りもない。


「俺に構うな、この先もこいつらのような輩が襲ってくる。お前も巻き添えになるぞ」

 もしくは、組織に目をつけられることも考えられる。天狼の処刑人を二人も倒したのだ。おそらく上層部の知るところとなるだろう。

 いくら手塚が図太くても、組織が動けば命の危険に晒されるのは間違いない。


「あんたに張り付いてたら獲物探しに苦労しないってことだ」

 手塚は肩を揺らして飄々と笑う。鳴瀬はことの重大さを理解しない手塚に苛立つ。この男、やはり常軌を逸している。

「いい加減にしろ、お前はもう誰も殺さなくて良いはずだ」

 鳴瀬の言葉に手塚は神妙な表情を浮かべる。

「なんでそんなこと、あんたにわかるんだよ」

 手塚は独り言のように呟き、踵を返す。鳴瀬はそれ以上手塚にかける言葉を見つけることができなかった。


***


 処刑人の急襲、そして奴らが返り討ちに遭ったことは組織の知るところとなるだろう。次に考えるのは、さらに手強い処刑人を送り込むか、もしくは。

 鳴瀬は胸騒ぎを覚える。表通りに出てタクシーを拾う。自宅まで一時間以上かかるが、のんびり電車に乗っている暇はない。


「できるだけ飛ばしてくれ」

 鳴瀬は運転手にマンションの住所を伝える。後部座席に乗り込んだ男はずぶ濡れで怪我をしている。胡散臭い客を乗せてしまった、と迷惑そうな運転手の顔がリアミラーに映る。

「仕事の後に一杯やってくれ」

 鳴瀬は運転手に三万円を握らせる。運転手はいそいそと胸ポケットに紙幣をしまい込み、アクセルを踏み込んだ。


 雨に濡れる首都高を西へ走る。残像を引くネオンが車窓を滑るように流れていく。

 鳴瀬はスマートフォンの待ち受け画面を表示する。オムライスを頬張る息子と優しい妻の笑顔。真砂が待ち受け画面を娘の写真にしていた気持ちが理解できた気がする。大切な人間の面影は心を和ませるものだ。


 しかし、今は違う。彼らの笑顔に胸を抉られるような痛みを覚える。組織が考えるのは暗殺者の弱みを握ること。彼らは格好の取引材料になる。

 鳴瀬は諒子のスマートフォンの番号をコールする。コール音は無常に鳴り響く。この時間なら彼女はまだ起きているはずだ。なぜ電話に出ない。

 鳴瀬は膝に置いた拳を握り締める。


 自宅マンション近くのコンビニでタクシーを降り、鳴瀬は走り出す。非常階段を駆け上がり、五階通路三つ目の部屋の扉の前に立つ。

 深呼吸をしてドアノブを回す。

 鍵が、開いている。


 鳴瀬は心臓を鷲づかみにされたような衝撃に目眩を覚える。これまで帰宅したとき、諒子が施錠を忘れたことは一度も無かった。鳴瀬は音を立てぬようドアを開け、部屋へ足を踏み入れる。

 いつもポーチに揃えてある靴が散乱している。全身から血の気が引き、背中に氷を押し込まれたような感覚。無意識に呼吸を止める。


 ここに何者かが押し入ったのは確かだ。まだ潜んでいる可能性もある。鳴瀬は靴のままリビングに続く廊下を進む。リビングには明かりが付いていた。しかし、光源に違和感がある。

 壁に背中をつけ、ドアをゆっくりと開ける。倒れたランプスタンドが天井を照らしていた。部屋の中に気配はない。鳴瀬は天井のLEDライトのスイッチを点ける。


 光とともに飛び込んできたのは、ガラステーブルの脇に倒れた諒子の姿だった。

「諒子」

 鳴瀬は悲痛な叫び声を上げて諒子の傍に跪く。彼女は額から血を流していた。艶やかなダークブラウンの髪に触れるとべっとりと血が付着する。見た目よりも出血が多い。オフホワイトの絨毯の毛足は乾き始めた血で赤黒く染まっていた。


 震える手を首筋に当てる。微かだが、まだ脈はある。血圧が下がっているためか、身体は冷え切っていた。腕に防御創がある。彼女は侵入者と果敢に戦ったのだろう。そして、頭部を側面から撲打され力尽きて倒れた。

「あなた、京平が、私、あの子を守れなかった」

 諒子が微かに開眼し、震える唇で必死に訴えかける。


「わかった、もう大丈夫だ。心配するな」

 抱きしめてやりたいが、頭部外傷の人間は安静を保たなければならない。諒子は安堵したのか気を失った。

 頬に流れる涙をそっと拭い、鳴瀬はスマートフォンで救急隊を呼ぶ。自分でも驚くほど冷静だった。自宅の住所と妻の状況を的確に伝えた。


 十五分ほどでサイレンを鳴らした救急車が到着し、部屋にかけつけた救急隊が諒子をストレッチャーに乗せる。鳴瀬も諒子に付き添い、同乗した。

 市民病院へ搬送され、到着して即座にCTスキャンの撮影、集中治療室へ運ばれた。

 脳挫傷の程度がひどく、出血多量により浮腫が脳を圧迫しているため緊急オペが必要ということだった。

 

 

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