狼を狩るもの(4)

 処刑人は刀を頭上に振り上げ、袈裟懸けに振り下ろす。無慈悲な刃が鳴瀬を襲う。

「ぐぐっ」

 しかし、刃は鳴瀬の身体に触れることはできなかった。処刑人は目を見開く。

 鳴瀬は振り下ろされた白刃を傘で受け止めたのだ。鳴瀬は傘捌きで日本刀の軌跡を逸らし、先端の石突きで処刑人の脇腹を突いた。

 処刑人は小さく呻き、バックステップで鳴瀬と距離を取る。


 武器を持っているのは自分だけではなかった、まさか傘で迎撃されるとは。突かれた脇腹から血が滲んでいる。致命傷にはほど遠いが、処刑人は怒りと屈辱に身体を震わせている。

「油断したぜ、ただでは殺されないというわけか」

 処刑人は歯茎を剥き出しにして下品な笑みを浮かべる。日本刀を握り直し、正眼の構えを取る。鳴瀬は正中線をずらし、処刑人と一定の角度を保ちながら向かいあう。


「はああっ」

 処刑人は刀を真一文字に薙ぐ。間髪入れず上から振り下ろし、踏み込んで斜め下から切り上げる。鋭い切っ先が鳴瀬の腕を切り裂いた。

「くっ」

 スーツの生地が避け、赤い雫が泥濘にぽたぽたと落ちて雨に混じって流れていく。

「切り刻んでやる」

 血を見て興奮した処刑人は狂気に目を光らせ、刀を振り回し始めた。


 鳴瀬は傘で応戦するが、突きの攻撃だけでは急所を貫かねば動きを止めることはできない。処刑人の攻撃には隙がない。最初に大振りの攻撃で反撃され、学びを得たようだ。

 脇腹に腕、大腿。カスリ傷だが確実にダメージが刻まれていく。

「観念しろ鳴瀬、お前は用済みだ」

 処刑人は勝ち誇った笑みを浮かべ、鳴瀬の首筋目がけて刀を振り下ろす。


 鳴瀬は傘を突き出す。

「ぶった斬ってやる」

 処刑人は力任せに腕を振り下ろす。不意に傘が開き、視界が阻まれた。

「うおっ」

 処刑人は飛び散った傘の雫を浴びて、一瞬目を閉じた。途端、腕に鋭い痛みを感じた。次に右脇腹、そして大腿。傘を突き破って飛び出す鉄の棒に矢継ぎ早に身体を突かれ、たまらず転倒する。


「ひぇええぇ」

 処刑人は血塗れで泥の中をのたうちまわる。

 鳴瀬は目眩しで傘を開いた瞬間、シャフトを引き抜き刺突武器に変えたのだ。身の回りにあるものを有効な武器に変える。暗殺者としての基本だ。

 鳴瀬は甲高い呻き声を上げる処刑人の胸ぐらを掴んで殴りつけ、気絶させた。

 雨は降り続いている。壊れた傘を見下ろし、鳴瀬は舌打ちをする。


「このまま帰れると思うなよ」

 背後から野太い声が聞こえた。振り向けば、白髪交じりの髪を後ろにひとつで束ねたガタイの良い男が立っていた。カーキ色のつなぎに白いTシャツ、ゴツい紐靴を履いている。

 手にした自動小銃の銃口は鳴瀬の額を狙っている。若い処刑人との交戦に気を取られていた。処刑人は二人いたのだ。


「その馬鹿が気を逸らせてくれたおかげでお前を始末できる」

 仲間意識は皆無のようだ。若者が鳴瀬を痛めつけたところで成果を横取りしようとう肚だ。男は撃鉄を下ろし、引き金に指をかける。

 反撃するか、いや、動けば額を撃ち抜かれて終わりだ。飛びかかって首の骨を折れたとしても、致命傷は免れない。よもやここで終わりか、鳴瀬は目を細めて唇を噛む。


「ぐあっ」

 突然、つなぎの男が叫び声を上げた。背中に痛みを感じた。鳴瀬に銃口を向けたまま、背後を振り向く。

 そこにはくせ毛を遊ばせ、色つきサングラスをかけた細身の男が立っていた。

 手塚彰宏、なぜここにいる。鳴瀬は手塚に睨みを効かせる。

 手塚は涼しい表情のまま、サングラスをはずした。左手には柄に装飾のついたボールペンが握られている。


「てめぇ、何しやがる」

 つなぎの男は血走った目を見開き、怒声を上げる。面識もない男に突然背中を刺された。一気に沸点に達した怒りでこめかみを震わせている。

「まさかこんなところで出会えるとは、まさに運命を感じるよ」

 手塚は恍惚とした表情でつなぎ男を見つめている。男は不快感を露わにし、唇を歪める。


「邪魔するならお前も殺す」

 つなぎ男は鳴瀬を牽制しながら手塚に脅しをかける。

「今から三十年ほど前になるか、俺はほんの子供で、あんたはまだ若かった。覚えていないか、桜ヶ丘団地の青い壁の家を」

「何言ってんだおめぇ、イカれてんのか」

 つなぎ男は鼻を鳴らして顔を歪める。


「二人組の強盗が金品を奪うために侵入した家で父親を殺し、必死で子を守ろうとした母親を殺し、顔を見られたと幼い子の命を奪った」

 手塚は淡々と語り続ける。

「山城文雄はその後逮捕され、六年後に死刑を待たず獄中死した。仲間の光田剛志は逃亡を続け、未だ行方知れず。指名手配の身だ」

「なぜ俺の名前を」

 つなぎの男、光田剛志は首を鳴らして訝しむ。


「いちいち覚えてねぇな。あの時はあちこちで稼ぎ回ってたからな。そう言えば、ガキを刺したことがあったかもな。だいたい、あのマヌケが家族に気づかれなきゃわざわざ殺さずに済んだんだ」

 光田は忌々しげに吐き捨てる。

 そぼ降る雨に濡れながら、手塚は穏やかな笑みを浮かべている。心が果てしなく虚だ。まるで風のない静謐な湖の水面のように。


「お前、まさかあの家の生き残りか」

「もう会えないと思って諦めていたよ」

 手塚は黒雲が立ち込める天を仰ぐ。薄笑いを浮かべる青年の不気味な雰囲気に、光田は嫌悪感を覚える。

 この男は復讐に来たに違いない。厄介ごとは御免だ。


「お前も家族のところへ送ってやろう」

 光田は銃口を手塚に向ける。手塚は光田の懐に真正面から飛び込む。

「やめろ、手塚」

 鳴瀬が叫んで駆ける。しかし、間に合わない。

 光田が引き金を引いた。乾いた射撃音が雨に煙る闇に響き渡る。銃弾は手塚の上腕を掠めた。

「う、うぐぐ」

 冷たい針が光田の心臓を貫いていた。手塚はさらに深く鉄針を突き立てる。


「家族のところへは行けない。悪党の俺がいくのは地獄だからね」

 手塚は幼子を諭すような優しい声音で語りかけながら、意識朦朧と崩れ落ちる光田の目を覗き込む。驚きと絶望に見開いた目から光が失われていく。

 驚くほど心は平穏だった。殺しの興奮も喜びもない。怒りと憎しみは遥か遠い昔に呑み込んでしまった。

 手塚は無垢な心のままに、ただ光を失くした瞳を見つめていた。

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