狼を狩るもの(2)
鳴瀬がマンションに帰宅し、寝室を覗くと諒子と京平は眠っていた。ドアを閉めようとしたとき、気配に気づいた諒子が半身を起こす。
「おかえりなさい」
「話がある」
鳴瀬の声は冷静だが、ただならぬ雰囲気を感じ取った諒子は京平を起こさぬよう静かにベッドを降りた。
ダウンライトが照らすリビングで、鳴瀬は沈黙のまま佇んでいる。
「何かあったの」
諒子は居た堪れず鳴瀬に問う。
「今、俺の立場はかなり危うい」
鳴瀬からそんな話を切り出されるのは初めてだ。諒子は全身から血の気が引いて一気に体感温度が下がるのを感じる。
「君たちを巻き込む前に契約解除を考えている」
「そんな」
諒子は口元に手を当て、声を詰まらせる。鳴瀬は淡々と起伏のない声で続ける。
「ランクが下がるだけで済むかどうか」
排除命令が出れば暗殺者を狙う追手に消されることになる。
諒子もそれをよく知っていた。
二世代前、偽装家族の契約を結んでいた「夫」は一緒に逃げてくれと諒子に懇願した。東北地方の漁村に逃れ、民宿に身を隠していたが組織の追手に見つかった。
夜中に無理矢理連れ出された夫は、翌朝惨殺死体となって漁港に浮いていた。
諒子は罪に問われず、次の偽装家族に組み込まれることになった。
排除命令が出た暗殺者を庇うことは、組織に逆らうこと、つまり死を意味する。その時に幹部から叩き込まれた。
諒子は胸に込み上げるものを抑えきれず、鳴瀬の背中に腕を回す。スーツから微かにタバコの匂いが香った。
鳴瀬は微動だにしない。
「逃げましょう。今なら間に合うかもしれない」
諒子はさらに強く鳴瀬の背中を抱く。逃げたところで一生追手に怯えて生きることになる。それでも、鳴瀬と京平とのつましい暮らしを手放したくなかった。
「駄目だ、君たちを危険に晒すことはできない」
その声に揺るぎない意志を感じ、諒子は閉じた瞳から涙を零す。
「最後に、抱いてもらえませんか」
諒子は濡れた瞳で鳴瀬を見上げる。鳴瀬とは夫婦として暮らしてきた。一緒に住んでいた四年間、鳴瀬は諒子と関係を持とうとしなかった。
今押さえ込んでいた気持ちに気がついた。「夫」を愛していると。
薄闇の中、鳴瀬が動く気配がして諒子は身体を震わせる。鳴瀬の手がそっと両肩に添えられた。
「君はこれまでずいぶん傷ついてきた。自分を大事にするんだ」
無骨な温かい手の温もりに、諒子は堪え切れず涙を流す。どこまでも誠実で不器用。こんな男が本当の夫だったなら。この男が暗殺者などではなく、街角でごく普通の男女として偶然出会っていたなら。
「君たちのことを大切に思っている」
鳴瀬はぎこちなく諒子の髪を撫でる。それは子供にすることよ、と言いかけてその心地よさを手放したくなくてやめた。
「お母さん」
諒子が隣から居なくなり、不安になった京平が起き出してきた。眠そうに目をこすりながらお気に入りのタオルケットを引き摺っている。
「お父さん、おかえりなさい」
「ただいま。もう遅い、寝てて良いぞ」
しかし京平は寂しがってベッドに戻ろうとしない。
「ねぇ、ここで三人で寝ましょうか」
諒子は京平に見られぬよう涙を拭う。
リビングに布団を敷き、京平を挟んで親子三人川の字になる。これが夢見ていた幸せなのかもしれない、諒子は京平の寝顔を覗き込む。
この子を守りたい、きっと鳴瀬も同じ気持ちだ。そう思うと心強さを感じる。自分も戦おう、そう覚悟した。
これまでになく危険な状況だが、諒子は確かな信じられるものを胸に、穏やかな眠りについた。
***
妻と息子の見送りを受けて通勤列車に揺られ、プラスコアジャパン社に出勤する。紺色の吊るしのスーツ、黒縁メガネに前髪を撫で付けたいかにも真面目なサラリーマン姿が車窓に映る。
これが普通の生活だ。周囲のサラリーマンたちは大概そうだ。家族に仕事、一般人が考える幸せを手にしているのに物足りなさを感じてしまうのは、それが全て偽りだからと分かっている。
席につき、週末に提出された契約書の山を処理していく。淡々とした流れ作業だ。この仕事は何も変わらない。
ふと、契約書に不備を見つけた。鳴瀬は該当の営業マンに内線電話をかける。相手の印鑑が必要なので急ぎ対応した方が良い。
営業に出掛ける前なのか、営業部の真砂が慌ただしく駆け込んできた。
「鳴瀬さん、申し訳ありませんでしたっ」
真砂は以前、ヤクザ事務所からの契約書回収を押し付けられ鳴瀬に世話になって以来、やたら懐いている。
「ここに印鑑が必要だ」
鳴瀬は付箋を貼り、不備の箇所を真砂に示す。
「かしこまりましたっ」
若くて威勢の良い声が総務部フロアに響き、事務スタッフが振り返る。
「鳴瀬さん、きんこうまるはよく育っていますか」
金晃丸はサボテンの種類だが、鳴瀬が名付けたと勘違いしたまま真砂は時々興味本位で育成状況を尋ねる。
「ああ、順調だよ」
面倒くさい、と思いつつそれを顔に出さず答える。写真を見せろとせがまれて、鳴瀬は仕方なくスマートフォンを取り出す。
真砂は鳴瀬の待ち受け画面を見て目を見開いた。
「少し大きくなって針が伸びた」
鳴瀬はサボテンの画像を示す。真砂はこの間待ち受けだった写真とどう違うのか区別がつかない。
「花が咲くと良いですね」
真砂は穏やかな笑みを浮かべる。
「花が咲くのはまだまだ先だろう」
鳴瀬はポケットにスマートフォンをしまった。真砂は契約書を営業カバンにしまい、総務部のフロアを出た。
一階ロビーのエレベーターを出たところで思い出したように深呼吸をする。
鳴瀬のスマートフォンの待ち受けが家族の写真に変わっていた。大きな口を開けて嬉しそうにオムライスを食べる男の子と、それを見守る優しい笑顔の妻だ。電子レンジや冷蔵庫が確認できたから、あれはきっと自宅の食卓だ。
あの時、真砂は総務部のフロアで鳴瀬に写真の家族のことを尋ねようとして踏み止まった。きっと彼は照れてしまうに違いない。
茶化してしまうことで待ち受けがサボテンに戻るのは不本意だと思った。これで良かった。真砂は幸せな気持ちで営業に出かけた。
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