絡み合う糸(5)
鳴瀬は京平を連れて市立図書館にやってきた。絵本を返却するためだ。期限はまだ余裕があるが、どうなるか先が見えない今の状況を鑑みると、身辺整理をしていく方が良いと考えたのだ。
図書館の返却カウンターに置いておけばそれで済む。京平は何度も読んで一番のお気に入りになった『きつねとおおかみとさいはてのもり』を返すのを渋っている。絵本を両手で抱えて離さない。
「借りたものだから返すんだ」
鳴瀬はカウンターへ置くよう説明するが、京平は本を持って児童書コーナーへ小走りに駆けていく。
鳴瀬は仕方なく京平の後を追う。返したくないほどお気に入りなのだろう、本屋に行って買ってやるか、そう思ったとき。
「おにいさん、これ面白かった。ありがとう」
京平は絵本を図書館のスタッフに手渡す。
「お、君はこの間の。返しにきてくれたんだね、ありがとう」
縁無し眼鏡をかけた細身の男はしゃがみ込んで京平と目線を合わせる。
「僕もこの本が大好きなんだ、君くらいの頃に何度も読んだんだよ」
男は朗らかな笑顔を浮かべる。
「ぼく、おおかみのロイが好き」
京平は共通の話題が嬉しいようで、つぶらな瞳をキラキラ輝かせている。
「ロイはね、おとうさんにそっくりなの」
京平は男に内緒話をするように耳打ちする。
「そう、お父さんに」
男は京平の背後に立つ鳴瀬を見上げる。
「どうも、鳴瀬さん」
縁無し眼鏡の男、手塚はゆっくりと立ち上がり不敵な笑みを浮かべる。鳴瀬は無表情だが全身から殺気を漲らせている。
「早川をやったのは貴様だな」
「この間あんたの仕事の邪魔したからね」
手塚は飄々と肩をすくめる。褒めてもらいたいとでもいうのか、鳴瀬は眉間に深い皺を寄せる。
「要らぬ真似を。貴様のおかげで俺は立場が危うい。これ以上近づくな」
鳴瀬は手塚を鋭い視線で射抜く。
「どういうことだ」
「俺は仕事を二度しくじったことになる。信用を失ったということだ。貴様を責める気はない、これは俺の詰めの甘さだ」
鳴瀬は苦悩を噛み締めるように微かに唇を歪める。
そのとき手塚は初めて気がついた。自らの行動が鳴瀬を破滅に追い込んでいたことに。心臓を鷲掴みされたようなショックを覚え、体から血の気が引いていく。
「あんたをやるのは俺だ」
手塚は挑発的な笑みを浮かべる。精一杯の強がりだった。
二人のやりとりを心配そうに見守る京平に目をやった。もし父親がいなくなれば、この子はどうなる。手塚は胸の詰まる思いで京平の頭を撫でる。
「帰ろう」
鳴瀬は視線で手塚を制して京平の手を引く。京平は名残惜し気に手塚を見上げる。
「また本を借りにおいで。面白い本を教えてあげる」
「うん、約束だよ」
京平は笑顔で手を振る。手塚は父と子の背中を見えなくなるまで呆然と見つめていた。
「めがねのおにいさん、きつねのエルみたいだね」
絵本のいたずら者のきつねのキャラクターを思い出し、鳴瀬は苦々しい気分になる。確かにどこまでもふざけた男だ。
「おとうさんと仲良しになれるかな」
「それは無理だ」
鳴瀬は大人気なく言い放つ。
外の広場にある機関車を見たい、と京平は鳴瀬の手を引く。
京平は柵につかまり、大好きな機関車を見上げている。小さな背中を見守りながら、鳴瀬は頭を抱える。
手塚になぜ自分の置かれた立場を話してしまったのか。奴によって掻き乱された不遇をぶつけたかったわけではない。
今後自分を狙う暗殺者が放たれるなら手塚にもその手が及ぶかもしれない。どんな要因であれ、手塚が巻き込まれるのは不本意なことだ。
脅しは必要だった。それでおとなしく引っこめば良いのだが。
***
狭い階段を見上げると、暗闇に九番街のシンボルのレトロなランプが灯る。
夜二十時、約束の時間だ。この時間帯に他の客はいない。重要な取引のときは閉店後に呼び出しがあるのが慣いだった。
ドアは開いている。来客を示すベルがカランと鳴る。店内にはカウンターにのみ明かりが灯されていた。まるで誰もいなくなったステージのようだ。
鳴瀬は定位置の一番奥の席に座る。
「何にしましょう」
カウンターごしに鳴瀬の前に立つ吾妻が穏やかな口調で尋ねる。言葉には労わるような響きがあった。
「何も要らない、吸って良いか」
鳴瀬はパーラメントをポケットから取り出す。
「本来は禁煙なんですけど、仕方ありませんね」
吾妻はガラスの灰皿をカウンターに置いた。
鳴瀬はカウンターに肘をつき、気怠げにタバコの煙を吐き出す。モノクロームの闇に細い煙が立ち上る。
「ライフルは返品でよろしいですか」
「そう伝えたはずだ」
鳴瀬は苛立ち、タバコのフィルターを弾いて灰を落とす。
早川を狙うはずだった。しかし、手塚に先に仕留められてしまった。早川が浮かんでいた水路の脇には奴の囲っていた女のマンションがあった。手塚の方が目の付け所が良かったということだ。
奴は自分の欲望のために殺す。ただし、条件は悪党であること。早川は恰好の獲物だった。
「早川の死はあなたの仕事ではないのですか」
吾妻は鳴瀬の仕事が完遂したか、組織に報告する義務がある。
「そうだ、俺はしくじった」
一度ならず二度まで。鳴瀬はタバコを揉み消し、重苦しいため息をつく。
「そのように報告してよろしいですか」
「ああ、構わない。真実だ」
わかりました、と吾妻は頷く。
「一杯飲みませんか」
席を立とうとした鳴瀬を吾妻が引き止めた。吾妻は口髭の下で口角を上げ、グラスとウイスキーをカウンターに置いた。
「いつからここは居酒屋になったんだ」
鳴瀬は皮肉めいた笑いを浮かべ、再び席についた。
「もう営業終了です。今はプライベートですよ」
吾妻はグラスに氷を入れ、ウイスキーを注ぐ。三十年ものの芳醇な香りが鼻をくすぐる。
本来なら、仕事を片付けた後に一杯嗜むのが習慣だった。長年の習慣を破ることになるが、まあ良い。鳴瀬はグラスを傾ける。
吾妻は鳴瀬の横に座る。
「いつかこうして飲みたいと思っていました」
「もう潮時か」
鳴瀬は自嘲する。
「わかりません、今回の件も幹部会にかけられるでしょう。おそらく特級の剥奪は免れない」
吾妻はグラスを弄び、琥珀色の液体に浮かぶ氷山を揺らす。
「俺は物心ついた時から組織と共にあった。組織の命令は絶対だ。期待に応えてきたし、組織も必要なものを与えてくれた」
吾妻は沈黙したまま鳴瀬の言葉に耳を澄ませている。
「仕事を完璧にこなすこと。それが俺の生きる術であり、プライドだった」
それが今やあの男に邪魔をされ、窮地に立たされている。
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