絡み合う糸(4)
鳴瀬がカウンターの定位置に座ると、吾妻が白いカップにルイボスティーを注ぐ。
九番街店内ではボックス席に座る女子高生が自家製プリンを前にスマートフォンで写真を撮り、SNSにアップすることに躍起になっている。
新聞を読みながら静かにコーヒーを楽しむ初老の男性、中年女性二人は旅行の相談をしているようだ。
鳴瀬はダウンライトの照らすカウンターでスマートフォンを取り出す。
「ご依頼の調査結果です」
吾妻はUSBメモリを鳴瀬に手渡す。データのやり取りならメールやチャットで済ませられらそうなものだが、天狼のしきたりで直接記憶媒体を手渡すことになっている。
鳴瀬はUSBメモリを受け取り、無造作にスーツのポケットに仕舞い込む。
「ご注文の品は明日の夜届く予定です。またご連絡します」
「わかった」
鳴瀬はルイボスティーを飲み干し、席を立とうとする。
「僭越ながら、調査対象の彼は今回の件と関係あるのですか」
吾妻はコーヒーを淹れながら穏やかな口調で尋ねる。芳しい香りが湯気とともに沸き立つ。鳴瀬は動きを止め、吾妻を見据える。
「あんたには関係ない」
「気をつけなさい。上層部はあなたの行動に目を光らせ始めている」
吾妻の言葉に鳴瀬は返事をすることなく店を出る。コンクリート打ちっぱなしの狭い階段を降りてゆく。
九番街のランプの灯りが鳴瀬の濃い影を白い階段に映し出す。
今回の早川哲也の始末に失敗したら、間違いなくランク外となる。これまで積み上げた信用など関係ない。
ランク外、つまり用無しだ。暗殺者を始末する暗殺者に狙われることになる。噂では彼らから逃げ切ったものはいない、という。
***
鳴瀬はマンションに戻り、自室のパソコンを起動する。USBメモリをスロットに挿すと暗証番号を訊ねるメッセージボックスが表示された。チャットで吾妻から届いた暗証番号を入力すると、狼のエンブレムが画面に表示される。
さらに五桁の個人コードを入力すると、ファイルが開く。
画面に表示されたのは手塚彰宏の個人情報だった。隠し撮りアングルの手塚の写真は愛想の良い笑顔を浮かべている。
手塚彰宏、34歳、男性、O型、図書館司書、既婚歴なし、病歴なし、犯罪歴なし。基本スペックは優秀だ。
父はベストセラー作家、母はデザイン事務所に勤める。家庭は裕福だったようだ。
手塚が五歳の時、自宅に強盗が押し入り、両親と二歳年上の兄が惨殺されている。どこで入手したのか、警察の現場検証の生々しい写真に鳴瀬は目を細める。
リビングで絶命する父、子供部屋で力尽きた母、殊勝にも弟を庇い幼い命を奪われた彼の兄。そして、家族の作り出した血の海でひとり佇む手塚。
鳴瀬は何か言い出しそうな口元を手で押さえる。手塚は人を殺さずにいられないと言っていた。奴の狂気の源は家族を殺害されたことにあったのだ。幼くして全てを奪われた彼が崩壊する自己を保つ方法、それが殺人なのかもしれない。
幸い、彼を引き取った叔父叔母は善良な人間で、社会に溶け込める真っ当な人間に育ったのは彼らのおかげだろう。
ある意味一般人に偽装するスキルを身につけたと言って良い。
手塚のファイルに何らかの組織を示すものは一切見当たらなかった。自分を狙ったのは純粋に殺しへの欲求だ。この歪んだ男に同情する気はないが、やるせなさと不条理を感じた。
また、手塚の殺人や異常心理に関する記録はない。組織の調査力をもってしても手塚の裏の顔は把握できなかったのだ。
見事なものだ、鳴瀬は妙に感心する。
シャワーを浴び、パジャマに着替えて寝室の扉を開くと、ベッドサイドのランプが付いており諒子と京平が寄り添い眠っている。
京平の枕元にはあの絵本が置いてある。きっと今夜も読み聞かせをねだったのだろう。
もし、自分が暗殺者に追われる身になれば、彼らにも危険が及ぶかもしれない。暗殺者の特権で偽装家族の交代を申請することができる。
組織のあてがったパートナーになった相手と気が合わないということはある。暗殺者のメンタルに悪影響を及ぼす要因は排除できるようにという組織の配慮だ。
いざという時は速やかに契約解除する。家族は解体され、諒子も京平も違う名前を与えられて違う環境に送り込まれる。一度契約解除となれば、二度と再会は叶わない。
彼らをこれ以上不幸にしたくはない。
***
「何だと」
鳴瀬は目に飛び込んできた新聞記事に短く叫んで絶句する。諒子はその動揺ぶりに内心驚く。何か悪いニュースだろうか、気になるが仕事に関わる詮索はしない。それは二人の間の暗黙の了解だった。
鳴瀬は大学病院の職員、早川哲也の死亡記事を目で追う。地方欄の小さな記事だ。鶴見区の住宅街を通る高さ5メートルの用水路に転落、死亡推定時刻は土曜日の夕方ということだった。
夜21時ごろに犬の散歩をしていた近所の住人が早川が仰向けで水路に浮いているのを発見、警察に通報したという。目立った外傷は無く、誤って転落したとの見方が強い。
鳴瀬は直感する。これは手塚の仕業だ。
そして、いま自分はこれまでにない危険な立場に追い込まれた。鳴瀬の顔色を伺い、諒子は不安げな表情を浮かべる。
「何かあったのね」
「すまない、考える時間をくれ」
君たちを契約解除した方が良いかもしれない、と喉元まで出かかったが鳴瀬はそれを押し留めた。不用意に不安を煽るのは良いことではない。
鳴瀬は朝食の食器を片付け、自室に篭る。
発注したスナイパーライフルをキャンセルしなければ。鳴瀬はスマートフォンで九番街の吾妻に連絡を取る。
ー本日二十時、約束の時間通りに来てください
吾妻からすぐに返信があった。
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