絡み合う糸(1)

 スマートフォンのアラームに目を覚ます。普段よりも眠りが深かったのか、意識はまだ朦朧としている。手塚はベッドから半身を起こし、カーテンを開ける。差し込む朝陽に目を細める。沁みるような青空に羊雲がゆっくりと流れてゆく。予報通り好天のようだ。

 立ち上がろうとしたとき、脇腹の鈍痛を覚え顔をしかめる。昨夜、鳴瀬に蹴り飛ばされたところだ。鏡に顔を映してみると、昨日より腫れは引いていた。


 あの沈着冷静な男が血を滾らせ自分に正面からぶつかってきたことが嬉しかった。あの時、自分という人間を初めて他人に曝け出すことができた。対等、いやそれ以上の力を持つ手強い獲物に立ち向かうことで、空っぽの心が満たされていく充足感に酔い、心理的距離が一気に縮まった気がした。

 またあの感覚を味わいたい。手塚は鳴瀬との再会を夢想する。


 顔を洗い、サラダとグラノーラ、ヨーグルトで朝食を済ませる。縁なし眼鏡をかけ、着慣れないスーツを着込んで部屋を出た。

 今日は市民向けの生涯教育講座の講師をエスコートすることになっている。司書の役目ではないが、土曜日は大学は休みのため利用者が少ない。それで当番で回ってくる仕事だった。


 今回の講師はベンチャーで起業し、今や業界では名の知れた上場企業となったシリウストレーディング社のCEO小見山誠司だ。彼は慶王大学を主席で卒業、大手総合商社に勤務の傍ら独立の機会を覗い、資本金五百万からシリウストレーディング社を立ち上げ、目まぐるしい発展させ今に至る。


 ホームページで顔写真を見たが、微かに混じる白髪でグレーがかった上品な髪を後ろに撫で付け、形のよい山形の眉、怜悧な瞳にはどこか無慈悲な光が宿る。薄い唇は酷薄な印象を与えた。

 講座は前編後編の二部構成で、起業家としての成功について語る。

 拗らせると面倒そうな相手だ、ということで手塚に白羽の矢が立った。手塚ならスムーズに応対ができるという上席の見立てだ。


 ***


 待ち合わせのため、理学部講義棟一階の事務室前で待つ。小見山は若い女性と三十代前後と思しき男性を連れて現われた。女性は役員秘書で男性は若手幹部候補社員だという。

「小見山誠司です。今日はよろしく」

「本日お世話をさせていただきます、手塚です。よろしくお願いします」

 手塚は甲斐甲斐しく頭を下げ、名刺交換をする。


 小見山はホームページで見たとおり、いやそれ以上に実物は迫力があった。身長は手塚よりもやや高く、上等なチャコールグレーのスリーピースのスーツを隙無く着こなしている。身体を鍛えているのは一目瞭然で、糊の効いた白いシャツから胸筋が張っているのが分かった。

 やや彫りが深めの目鼻立ちに一重まぶたの強い輝きを放つ瞳は存在感がある。頭は切れるだろうが情に薄い、という感想を抱かせた。


「会場は二階です。控え室にご案内します」

 手塚は小見山を先導する。エレベーターで二階に上がり、渡り廊下に差し掛かろうとしたとき、物陰に潜んでいた男が叫びながら襲いかかってきた。

 男が手に持っていたのは1.2メートルほど木の棒だ。小見山を狙って振り下ろす。


「危ない」

 手塚は小見山を庇い、棒を受け止めた。相手は小柄な初老の男性で、襲撃が失敗したことであっさり棒を手放した。棒はモップの柄のようだ。

 若手社員はすぐさま棒を拾い上げて男から遠ざける。女性秘書は小さく叫んだきり、不安そうな表情だが取り乱すことなく状況を見守っている。


「小見山、お前のせいで俺の会社は潰れた」

 男は怒りに顔を真っ赤にして小見山を指出す。

「誰だね君は」

 小見山は冷ややかな目で男を見下ろす。襲撃に全く動じる様子はない。男は悔しそうに奥歯をギリリと噛みしめ、唇を歪める。


「覚えていないのか。大谷製作所の大谷だ。シリウストレーディングが黎明期だったころ、いろいろ無理を聞いてやったのに海外製の低コストの部品が手に入るようになると、いともあっさりうちを切り捨てた」

 町工場を細々切り盛りしていた大谷だったが、小見山により大口取引を突然中止されたため、倒産に追い込まれ一家離散の憂き目に遭ったと訴えた。


 手塚は大谷を見たことがある。図書館にも出入りしている清掃員だ。いつも真面目な仕事ぶりで、職員にも愛想良く挨拶をしてくれる善良な男だ。屈託のない笑顔の裏にそんな過去があったとは。大谷は深い皺の刻まれた目尻に悔し涙を浮かべている。


「大谷さんといったか、私は取引停止の場合は三ヶ月前に告知することにしている。例外はない。当社からの受注が途絶えたから倒産したなど、そもそも経営に問題があったのだろう。私のせいにするのはおかど違いというものだ」

 小見山は冷徹に言い放つ。その声には憐れみも慈悲もない。口元に侮蔑の笑みを浮かべ、社会の敗者を見下している。


「これから講演がある、失礼」

 小見山は手塚に目線を向ける。意気消沈した大谷は戦意を喪失し、それ以上追っては来なかった。


「見苦しい場面を見せてしまったね。会社が大きくなるとああいう手合いが増える。困ったものだ。君には感謝しているよ、手塚くん」

 大谷の襲撃を阻止したことで、小見山は手塚を評価しておりいたく気に入ったようだ。

「いえ、大変ですね」

 褒められても嬉しくない。こういう男は常に誰かを裏切り、のし上がりながら生きているのだろう。微塵も信用ならない。


 講義室脇の控え室に小見山を案内する。アシスタントの女性が資料とお茶を準備していた。この後の仕事はプレゼンデータの投影確認、マイクの音響チェック、それが終わり次第、受付で資料配付と参加確認を手伝う。

 開始時間直前に小見山に声をかけることになっている。

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