流儀と矜持(6)
手塚は足を止め、振り返る。街灯の光も届かない裏路地だ。アンモニアと飲食店の油の匂いが鼻を突く。黒シャツとソフトモヒカンは手塚が恐怖でしおらしくしているのだと決めつけ、余裕の笑みを浮かべている。
「慰謝料出せや」
「金を出せばすぐに片付く」
手塚は黒シャツに歩み寄る。昴は古びたスナックの壁の裏側に隠れて様子を伺う。
「うほっ」
黒シャツが奇妙な叫び声を上げる。手塚が思い切り金的を蹴り上げたのだ。下腹部に強烈な電撃が走り、黒シャツは腰を折って身悶える。手塚はフラワースタンドに置かれた素焼きの鉢を手にして、躊躇も無く黒シャツの頭に振り下ろす。
「ひぎゃっ」
鉢は砕け、中に残っていた土を頭から被り黒シャツは白目を剥いて卒倒した。
「て、てめぇ」
大人しいカモだと思っていた男の突然の暴力行為に、ソフトモヒカンは青ざめる。連れの黒シャツはケンカで負け無しだった。よもやそれを一瞬で倒すとは。ソフトモヒカンはジャックナイフを取り出し、手塚に突き出す。
「な、何てことしやがる」
ソフトモヒカンの声が震えているのは怒りではなく恐怖だ。冷淡な雰囲気を纏う目の前の男は色つきサングラスをかけ、表情を読み取ることができない。
手塚は両手をだらりと下げて立ち尽くしている。ナイフを前にしても怯える様子はない。ソフトモヒカンはへっぴり腰でナイフを突き出した。隙だらけの動きに、手塚はナイフを持つ手を掴み、捻り上げる。
「いでぇええ」
ソフトモヒカンは手首の関節を極められ、痛みのあまりナイフを手放す。手塚は男の後頭部を掴み、壁に据え付けてある室外機に激突させる。
「ぐえっ」
ソフトモヒカンは鼻血を吹いてアスファルトに転がり、ひぃひぃ呻きながらのたうちまわる。
あまりに鮮やかな手並みに昴は微動だにすることができなかった。手塚がピンチになったとき警察を呼ぼうと手にしていたスマートフォンを取り落としそうになり、慌てて持ち直す。鳴瀬との戦いで苦戦していたのは、鳴瀬が相応に強かったからだ。
呆然とする昴を見つけ、手塚はポケットから紙幣を取り出した。
「これは受け取れない。俺は年下におごらせない主義なんだ」
そう言って昴の手に握らせる。それは先ほどバーで手塚の分も合わせて支払った五千円札だった。これを返すためだけに追ってきたのか。昴は手の中の紙幣と手塚を見比べ、拍子抜けする。
手塚は昴を置いて路地を出て行く。ふと足を止めた。
「そうだ、さっきは助かった。礼を言うのを忘れていた」
「あ、うん、どうも」
昴はそれだけ返事をするのがやっとだった。手塚の背中は遠ざかり、路地の闇に溶けていく。
***
鳴瀬は自宅マンションに戻り、階段を上ろうとして足を止めた。鉛のような疲労感に包まれているが、このまま部屋に戻っても寝られそうな気がしなかった。
マンションはベランダでの喫煙は禁止されている。副流煙が風に流され、隣の部屋の洗濯物に匂いがつくと組合で注意喚起のチラシが回ってきた。ホタル族の肩身はどんどん狭くなっていく。
マンション敷地内の藤棚の下にはベンチがあり、有志が灰皿を設置している。そこが愛煙家の暗黙の喫煙所になっていた。
鳴瀬はベンチに腰を下ろし、パーラメントに火を点ける。煙を肺に吸い込み、溜息と共に吐き出した。
タバコは仕事を無事に終えたあと、一本だけ吸うことにしている。臓器コーディネーターの早川の暗殺は思わぬ邪魔が入り、失敗に終わった。しかし、今日はどうしても吸いたい気分だった。
早川を逃がしたが、デッドラインまでまだ五日ある。早川には顔を知られてしまった。この先警戒が強くなるだろう。次は必ず仕留めなければならない。
スナイパーライフルを調達した方が良いか。下見に行ったとき、屋上から早川の駐車場は狙える角度と把握していた。九番街の吾妻に依頼しておく必要がある。鳴瀬はスマートフォンのアプリを起動し、天狼の所属コードとパスワードを入力する。狼の横顔のシルエットのエンブレムが表示され、チャット画面が開いた。
―射程距離600m、軽量で二日以内に納品可能、ターゲットは人間
鳴瀬のキーワードからAIが適切な武器の候補を挙げていく。
ステアーSSG69、オーストリア陸軍標準装備品で安定性に優れており、有効射程800m、重量四キロで運用性も良い。ボルトアクションで腕は要求されるが、精度は高い。現行モデルではないものの、採用期間が長く払い下げ品で手に入りやすい。
鳴瀬はステアーSSG69の発注をかける。納期は明後日。遠隔射撃による暗殺は予備の手段だ。保険をかけておくことにする。
タバコのフィルターが燃えている。鳴瀬は灰皿でタバコを揉み消した。画面に集中しており、吸った気になれなかった。少し迷ったが、もう一本取り出し、火を点ける。
手塚という男に二度も仕事を邪魔された。組織に属するでなく、奴はただ承認欲求のために人を殺すという。ふざけた男だ。そんな奴にこれまでのキャリアを潰された。怒りと苛立ちで鳴瀬は無意識にフィルターを噛む。
―結局、他人の言いなりだ
奴の言葉が脳裏に反響する。これまで組織に命じられた仕事を完璧にこなすことが自分に与えられた使命と信じて疑わなかった。それを否定され、侮辱されたことで手塚に対する激しい憎悪が湧いた。感情の昂ぶりに任せ、手塚を痛めつけた。
あの時、青年が割って入らなければ、激情のまま手塚の息の根を止めていたかもしれない。己を見失うほど感情に呑まれた自分を嫌悪する。
依頼された仕事以外で殺しはしない。それが危うい精神のバランスを取る方法だった。自分に課した掟を手塚のために破ることになれば、おそらく一生後悔することになる。
鳴瀬は思い立ってスマートフォンを取り出した。逢見学園大学付属図書館に勤務する司書、手塚という男の素性を調べるよう吾妻に追加の依頼をかける。吾妻は暗殺コーディネートの他、武器材料調達、身辺調査の窓口になっている。
手塚は極めて執着心の強い男だ。殺されかけたといって、易々諦めはしないだろう。至極厄介だ。鳴瀬は小さく舌打ちをする。
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