流儀と矜持(5)
「ああクソ、痛ぇ」
手塚は頬杖をつきながら顔をしかめる。暖色系の間接照明の下、狭いバーのカウンターに手塚と昴は並んで座っている。
頭をすっきりさせようと飲んだモヒートが切れた口腔内に凍みて痛む。
手加減なしの鳴瀬の拳は強烈だった。蹴られた脇腹も鈍痛が引かない。おそらく肋骨にひびが入っているだろう。
悦楽と絶望を同時に味わった。鳴瀬に自分の本性を曝け出すことができたが、激しく拒絶された。見捨てられた気分だ。
これほど誰かに執着し、拒絶されることが辛いとは。隣に座る昴は傷心の手塚を気遣ってか、先ほどから沈黙を守っている。
マスターが昴に二杯目のカクテルを出す。
「なぜあの場所にいた」
手塚は正面に並ぶライトを受けて輝くグラスをぼんやりと見つめながら尋ねる。昴はマルガリータを一口含み、躊躇いがちに話し始める。
「もう一度あんたと話したくて、図書館の職員通用口で待ってた」
夜七時を回って、扉から出てきた男を見て昴は目を見張った。一夜限りの情を交したあの男だ。
「手塚さん、やっぱりあんただと確信したよ」
昴は手塚の不機嫌丸出しの横顔を見据える。手塚は居たたまれない様子でモヒートを煽り、痛みに目を細める。
鳴瀬が早川を狙う場所に赴くため、職場で別人の身なりを作るしかなかった。それをまさか昴に目撃されるとは。よほど気が逸れていたようだ。手塚は頭を抱える。
「ここで逃したらダメだと思って後をつけた」
鳴瀬にストーカーまがいのことをしていた手塚だが、それを差し置いて昴に迷惑そうな目を向ける。
夜の街に繰り出した手塚はまた行きずりの相手を探すのだろう。昴は燻っていた執念に火が付いた。とことんまで追いかけてやろうと。そこで、神社での殺し合いを目撃することになる。
「話、聞いちゃったよ。あんた人殺しなの」
昴は躊躇いがちに尋ねる。手塚は天井を見上げ、小さく溜息をついた。
「そうだよ」
「そう、なんだ」
昴は言葉に詰まる。隣に座る男は平然と人を殺したと言う。恐怖心よりも嫌悪感よりも、手塚が自分とは別世界の人間なのだという現実にただ失望し、愕然とする。
「どうしてあの夜、俺を殺さなかったんだ」
激しく抱かれ、これまでに無い感情を覚えた。昴はまた会いたいと縋り付いた。しかし、手塚は昴を眠らせてその場を去った。
「俺は人を殺さずにはいられない、衝動が抑えられないんだ。だが、獲物は選ぶ、それは悪党だ。お前とヤッたあと、繁華街でドラッグの元締めをしていた男を殺した」
昴は唇を噛む。手塚とのセックスの余韻に微睡んでいたとき、手塚は人を殺していたという。
「何で俺に手を出したんだ」
昴の声は微かに怒りに震えている。
「殺しの前の儀式のようなものだ。欲望のままに殺すと現場が面倒なことになる。だから別の欲求を満たして心を落ち着ける、それだけだ」
手塚は淡々と語る。それが日常のサイクルかのように。
「相手は誰でも良かったのか」
昴は膝に置いた拳を握り締める。
「後腐れの無さそうな奴を選ぶ。遊んでそうな男だ。男なら寝たから付き合えと泣きつかれることも無いし、孕む心配もない。それに、多少乱暴にしても頑丈だから気兼ねなく…」
言い終わる前に、昴は手塚の脇腹に肘鉄を食らわせた。
「くそ、お前っ」
手塚は脇腹を押さえて悶える。
「俺を馬鹿にしたお返しだ」
昴は唇を尖らせて、カウンターに突っ伏したままの涙目の手塚を冷ややかに見下す。
「お前を誘ったのは失敗だった」
「どうしてだよ」
「今のこの状況だ」
手塚は情けない声でぼやく。
「マスター、刺激の少ないのを頼む」
手塚が手を上げてマスターを呼ぶ。白髪交じりのマスターは怪訝な顔で首を傾げる。
「この人、口内炎のでかいのができて酒が凍みるんだって。もう水でいいよ」
昴の横槍に、マスターはすぐにグラスに氷無しの水を差し出す。
「それで、警察に突き出すか」
手塚は頬杖をつきながら投げやりに尋ねる。
「わからない。どうすりゃいいんだよこんなの。惚れた男が殺人鬼なんて。その上、殺し屋に恋してるなんて」
昴は深刻な表情で頭を抱える。
「鳴瀬に恋だと、そんなわけあるか。奴は俺の獲物だ。今回は油断しただけ、次は仕留める」
「歪んでるけど恋だよ」
「そんな感情じゃない、そもそも俺はホモセクシャルじゃない」
手塚は不満げに昴を一瞥する。
手塚への鳴瀬への執着に、昴は嫉妬した。恋という形ではないのかもしれない。殺し合いというとんでもないやり方だが、手塚は鳴瀬に本当の自分を曝け出してぶつかっていた。それまで冷静だった鳴瀬も手塚に対して激情に支配され、己を見失っていたように思えた。
「男とヤるくせに」
「ただの性欲処理だ」
手塚はつまらなそうに返す。昴は怒りに拳を固めたが、一呼吸置いてそれを下げた。
「寂しい男だね、あんた」
昴の声には憐れみが滲み出ていた。昴は財布から五千円札を取り出し、カウンターに置く。釣りはいい、と言って店を出て行く。
残された手塚はグラスの水を飲み干す。ぬるい水でも口の中が痛んだ。なんて情けない。
手塚は唇を噛んで立ち上がる。黒い雨水の跡のついたコンクリートの階段を駆け上がる。雑居ビルの並ぶ路地に立ち、左右を見回す。
曲がり角に昴の背中が見えた。手塚はその背を追い、走り出す。
「痛えなぁ、ぶつかりやがった」
黒いランニングシャツの男が肩をぶつけてきた。これ見よがしに痛がってみせ、大声を上げる。連れのソフトモヒカンがニヤニヤ笑っている。騒ぎに気が付き、昴は足を止めた。
黒シャツの男は手塚の前に立ちはだかる。手塚と背丈は変わらないが、シャツから覗く堅牢な筋肉は相当身体を鍛えているのが分かる。
「ああ痛え、肩が痺れてやがる」
黒シャツは肩を押さえて痛がる振りをしている。手塚は微かに目を細める。
「病院に行った方がいいんじゃないか」
ソフトモヒカンが手塚をちらりと見やる。小綺麗な格好をした軽薄な男だ。トラブルを怖れてすぐに財布を出すという思惑だった。
「わかった、ここは人目につく。あっちで話をしよう」
手塚は二人のチンピラを路地へ誘い込む。昴は青ざめた。手塚は鳴瀬と戦って手負いの状態だ。あの乱暴者二人が相手ではさすがにボコられてしまう。
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