流儀と矜持(3)

 銀座まつ風は創業87年、ミシュラン五つ星ホテルで経験を積んだ料理長が妥協なきこだわりの料理を提供する老舗料亭だ。


 食材は産地にこだわり、契約農家で栽培された低農薬の野菜に果物、その日の早朝豊洲に買い付けにいった魚介類、肉は幻の牛と言われる見島牛を使う。

 政府要人が外国高官を接待するために貸し切りで利用することもあり、一見さんお断りの店だ。


 中山に招かれて早川がまつ風に入っていく。普通なら送迎も行うところだが、早川は自分の車で移動し、代行で帰るのが常だ。

 鳴瀬はそうした行動パターンを見越して早川を待ち伏せしていた。


 黒のオーダーメイドのスーツにダークグレーのシャツ、黒のネクタイ。鳴瀬は闇に紛れるように息を潜める。

 予約した代行業者の車が駐車場脇に停車した。早川のベンツのナンバーを確認している。鳴瀬はサングラスをかけてモスグリーンのセダンに近づき、運転席の窓をノックする。


「早川氏の依頼ですか」

「ああ、そうだよ」

 髪を後ろに撫でつけた男が窓を開けて答える。

「早川氏は今夜宿泊することになりました。これはキャンセル料です」

 鳴瀬は封筒を手渡す。男は中身を確認し、すんなり納得したようだ。

「またよろしくお願いします」

 代行業者は三万円をせしめて引き上げていく。あとは早川がここへ戻ってくるのを待つのみ。


***


 鳴瀬は駐車場脇に立つ楠の幹の影に身を潜めている。時計を見れば夜十時を回っている。この辺りは人通りが少ないが、目撃されることは避けなければならない。

 早川を確保したらこの先の改装中の神社の境内に引き込んで殺す。すでに下見は済ませてある。


 神社で殺生をすることに気が咎めない訳ではないが、鳴瀬は無宗教だ。そもそも、神や仏がいるならば早川のような人間がのうのうと生きているのはおかしいではないか。


 街頭の明かりに人影が映る。接待を受けて上機嫌の早川が車に戻ってきた。

「早川さんですね、車を向こうに停めてあります」

 鳴瀬は代行業者を装って近づく。

「ここへ回してくれないのか」

「この辺りは路上駐車にうるさくてね。すぐ先ですよ」

 鳴瀬の妙な迫力に押され、早川はやむなくついていくことにする。


 目の前の男は仕立ての良いオーダーメイドのスーツに身を包んでいる。上背があるが均整が取れており、男ながら見惚れるような体格をしている。

 男は神社の鳥居をくぐる。

「ここを抜けた先です」

 早川は男の背を追う。苔むした狛犬が薄闇の中でにんまりと笑っているように見えた。

 奥に見える社殿はシートに覆われ、修復中だ。薄暗い電灯に照らされた参道を歩いていく。


 男が急に立ち止まった。早川も足を止める。物言わぬ男の背が迫ってくるような錯覚に、早川は後ずさる。これは何かおかしい。代行業者にしては身なりが良すぎる。

「ひいっ」

 早川は悲鳴を上げる。恐怖と緊張で声は掠れていた。

 男が振り返り、鋭い瞳で早川をじっと凝視する。


「早川哲也46歳、逢見学園大学付属病院役員秘書室室長の身分を利用し闇臓器売買に関与。間違いないな」

 早川は歯をガタガタ震わせ、鳴瀬の問いに答えることができない。

「俺はお前を殺すことになる。八秒だ、八秒時間をやる。これまでの人生を振り返ると良い」

 落ち着き払った低音の声。この男はプロだ。早川は恐怖に怯えた目を見開く。裏稼業に携わる者として、暗殺で報酬を得る仕事が映画やドラマでなく実際に存在することを知っていた。


「た、助けてくれ。金は払う。お前の報酬の二倍、いや三倍でも良い」

 早川は取り乱し、鳴瀬に懇願する。

「時間を無駄にするな、あと三秒だ」

 鳴瀬は腕時計をチラりと見やる。ポケットから黒の革手袋を取り出し、両手に嵌めた。

 そしてスーツの袖口から鋼の糸を取り出した。


「悪いが、時間だ」

「ひええっ」

 早川は背を向けて逃げ出そうとする。鳴瀬はその体格からして驚くほど俊敏な動きで駆け出した。鋼線で輪を作り早川の首にかけて引き絞る。

 頸動脈を締め上げられ、早川は呻き声を上げる。呼吸ができない。首の肉に鋼線が食い込む痛みと息苦しさに涙と鼻水が流れ出す。


「うぐぐ」

 早川が白目を剥く。鳴瀬は無慈悲なまでに表情を変えず、鋼線を握る手に力を込める。

 不意に背後から鋭い殺気を感じた。反射的に身体を捻って避ける。閃く刃が脇腹を掠めた。瞬間、早川の束縛が解けた。

「貴様は、あの時の」

 鳴瀬は刮目する。


 目の前に立ちはだかるのは癖のある毛先を遊ばせ、燕脂のストライプの開襟シャツ、胸元にはシルバーのネックレス、黒のスキニーパンツに革のショートブーツ姿で軽薄な笑みを浮かべる男だ。


 間違いない。深夜の非常階段で出会った男だ。仕事を邪魔された怒りが蘇り、鳴瀬は唇を歪める。

 男は黒い鋼のナイフ、オンタリオキメラを手にしている。シンプルで実用的な軍用ナイフだ。慣れた手つきで弄び、鳴瀬を挑発的な目で見つめている。

「ひぃぇええ」

 早川は情け無い声を上げながら石畳を這うように逃げ出した。鳴瀬は早川の背を睨みつけ、チッと舌打ちをする。


「一体何者だ」

 鳴瀬は目の前の男にまっすぐに向き合う。本来なら、この男は後回しだ。プロとして早川にけりをつけなければならない。しかし、鳴瀬の意識は早川でなく男に向いていた。

 自分が冷静でないことにひどく苛立ちを感じている。


 男は口元を歪めて楽しそうに笑う。

「日常生活で貴様っていう奴、あんたが初めてだよ。鳴瀬さん」

 名前を呼ばれ、鳴瀬は眉根を顰める。この男、どこまで自分の素性を知っているのか。


「どこの組織だ」

 鳴瀬は低音で脅しをかける。

「俺は名刺なんて持ち合わせてないよ。それにこれは仕事じゃない」

 癖毛の男はおどけて肩をすくめる。

「あんたはプロの殺し屋だろう。人に頼まれて人を殺す。俺は自分のために人を殺す。スタンスは違えど、殺しは俺たちの共通言語だ」

 古びた街灯がバチッと音を立てる。


「俺たちだと。貴様と一緒にするな」

 鳴瀬は不満げに眉根を寄せ、唇を歪める。ふと、鳴瀬が目を細める。男のその軽薄な雰囲気に惑わされていだが、顔立ちに見覚えがあった。

「貴様確か、手塚といったか」

「ははは、バレたか」

 手塚は嬉しそうに笑う。図書館で見た真面目そうな好青年がこんなにも豹変するとは、鳴瀬は手塚の心理に狂気を見た。

 

 

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