流儀と矜持(2)
「おっ、早川室長だ」
中山が俊敏な動きで目の前のカフェテラスに走り込む。ひとりテーブルに着いた男にぺこぺこと頭を下げている。おベっかを使い、おもねりへつらう姿は周りの目など気にしていないのだろう。
早川は中山を感情の無い目で見上げている。口元には冷めた笑いが浮かぶ。傍目には愛想笑いに見えるが、内心では見下しているのだろう。
残念ながら中山が自慢していたほどの関係性はなさそうだ。
早川の背格好も確認できた。次に会うのは週末夜の銀座だ。今日の目的は果たせた。鳴瀬はその場を離れようとした。
「お待たせしました」
早川の席に別の男がやってきた。
「では、また」
早川はその男と話があるらしく、中山をていよく追い払う。中山は話し足りなさそうだったが、早川に雑にあしらわれ流石に空気を読んでその場を去っていった。
鳴瀬は足を止める。早川と相席した男には見覚えがあった。
ストレートの黒髪、長めの前髪に縁無し眼鏡、人当たりの良さそうな人相の細身の男。市立図書館で京平に絵本を探してくれた司書だ。確か手塚と言った。
何故大学病院のカフェテラスに現れたのだろう。鳴瀬は違和感を覚えた。早川と親交があることも気になる。
鳴瀬はカフェインレスの紅茶を注文し、中庭に面したガラス窓の近くの席に座った。
「何か飲むだろう」
早川は甲斐甲斐しく手塚の飲み物を注文に行く。手塚が立ちあがろうとすると、それを制した。
「では、アイスカフェラテをお願いします」
手塚は早川の押しに負けて頭を下げる。
早川は二杯分のドリンクをテーブルに置いて座り、足を組む。
早川たちのテーブルは二つ向こうだ。
ガラスの向こうには緑豊かな中庭が広がっている。車椅子に乗った背中の曲がった老婆と若い女性が満開のハナミズキを見上げていた。頭にネットをつけた子供が両親に手を引かれてはしゃいでいる。
清潔だが無機質な建物の中でここは患者の憩いの場になっているようだ。
鳴瀬は二人の会話に耳を澄ませる。
「校正が終わりました。原稿をお返しします」
「手塚さんは仕事が早い、そして正確だ。図書館に押し込めておくのは勿体ない」
早川は手塚から茶封筒を受け取る。その言葉の響きに偽りは感じられない。
「君は医学知識もあるね、副院長も感心していたよ」
「いえ、せっかく依頼いただいたので必死で勉強しました」
手塚はひたすら恐縮している。邪な理由で父の医学書を隠れて読み漁っていたことがこんなところで役に立つとは皮肉だ。
「君は有能だ。役員室秘書に引き抜きたいくらいだよ」
早川は手塚にご執心だ。医者の論文校正の依頼に良い仕事をしたようだ。
「僕は本が好きで、今の仕事が性に合っています。論文校正もまた必要であればお受けしますよ」
手塚は涼やかに答える。
「そうか、出過ぎたことを言ったようだ。またぜひ頼むよ。これから学会資料の英訳も待ってる」
早川は席を立つ。カフェテラスを出ようとしたとことろでまた別の業者につかまっていた。
あの好青年に見える手塚が臓器売買にかかわっているのだろうか、と鳴瀬は一度は疑った。しかし、彼は大学図書館の職員で教授や学生の論文執筆の支援をしているとわかった。
ここにいる理由も不自然ではない。鳴瀬は手塚への警戒を解いた。
手塚もカフェラテを飲み干し、席を立った。ゴミ箱へ容器を捨てて顔を上げたとき、窓際の席に一人で座る黒いスーツの男に目をとめた。
瞬間、呼吸が止まった。
あの周囲から浮き立つ、闇を纏う雰囲気は脳裏に焼き付いている。鳴瀬史郎だ。こんな場所で会うとは、まさか自分を追ってきたのか。
手塚は心臓が強烈に脈動するのを感じた。プロの鳴瀬が自分を狙うとなると、かなり手強い。
危険な状況なはずだが、肌が粟立つほどのスリルに快楽にも似た興奮を感じていた。思わず口元が緩む。
しかし、鳴瀬の目線の先にいるのは早川だ。冷静な素ぶりだが、手塚にはわかる。あれは獲物を狙う目だ。触れたら瞬時に火傷するような氷の瞳。
あんな目で見据えられたら正気ではいられない。早川が鳴瀬のターゲットだとわかった。これで鳴瀬の行動を把握しやすくなる。
早川に嫉妬にも似た歪んだ感情を抱きながら手塚はカフェテラスを後にした。
***
手塚は足早に大学図書館へ戻った。司書室に籠り、パソコンを起動する。
鳴瀬が早川を狙う理由に心当たりが無いわけではない。プロの暗殺者が狙いをつけるとなると単に感情によるものではなく、それなりに利害関係が大きいはずだ。
早川は役員秘書室長という役職持ちだが、そうは言っても事務職だ。やたら羽振が良いことで有名だった。
大学病院に出入りする医療機器業者は早川に口利きを依頼するのが近道だという。早川は役員連中に近しく、顔がきく。賄賂で便宜を図っているのだろう。
かつては業者の賄賂でベンツを乗り回したり息子にパソコンを買わせたりと権威に物を言わせてめちゃくちゃをやる教授もいたらしいが、それも昔の話だ。
現在は贈収賄禁止法で、特に大学病院への目付けは厳しい。医療機器メーカーもコンプライアンスでそういったことは禁止する流れになっている。
件の教授はベンツを取り上げられ、ママチャリで出勤していたというのは語り草だ。
しかし、今でもその伝統が密かに息づいている。早川は狡猾な男だ。元MRという経歴からどちらの立場もよく弁えている。
パソコンが起動した。手塚は個人ドキュメントからプログラムを起動する。仮想のデスクトップが表示された。
エクセルのリストから早川の名前を検索する。そこには大学のネットワーク下のユーザー全てのIDとパスワードが記録されていた。
ここの情報システム部は間抜け揃いだ。手塚が情報システム部のサーバに侵入し、全職員のID、パスワードのリストを抜き取ることは容易かった。
手塚は仮想デスクトップのログイン画面に早川のユーザーIDでログインする。この方法ならログイン履歴が残らない。
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