執念の炎(5)
手塚はエントランスを出ようとして足を止めた。ガラス扉の向こうからこちらに向かって上背のあるスーツ姿の男が歩いてくる。背筋を伸ばしたその佇まいには見覚えがあった。鳴瀬史郎だ。まさか、ここでかち合うとは。
狭いエントランスには認証装置があるのみ、身を隠す場所はない。かといってもうエレベーターホールへの自動ドアは閉まっている。住人ではない手塚がここにいると怪しまれるに違いない。
鳴瀬は市立図書館で手塚が仕事の邪魔をした男だと気付いた様子はなかった。しかし、さすがにあのとき息子に絵本を探してやった司書だと覚えているだろう。ここでかち合うのはまずい。
知らんふりをしてエントランスを出るか、友人がこのマンションに住んでいて迎えに来るのを待っていると偽るか。いや、どちらも良策とは言えない。鳴瀬のシルエットが近付いてくる。手塚はきつく唇を噛む。
しかし鳴瀬はエントランスを避けるように向きを変えた。手塚は様子を伺いながら息を潜めてエントランスを出る。
鳴瀬は建物の端にある非常階段に向かっている。なるほど、エレベーターではなく、階段を使うつもりなのだ。健康に気を使っているのだろうか、奴らしいと手塚は鼻で笑う。
鳴瀬と距離を取り、非常階段へ向かう。階段には柵も無く、住人以外でもここから各部屋へ上がれるようになっていた。セキュリティとはこんなものか、と肩を竦める。
手塚はツツジの植え込みに潜み、五階を見上げる。しばらくして鳴瀬の姿が見えた。鳴瀬は五階の西側から三つ目の部屋の扉を開け、中へ入っていった。
***
自宅マンションに帰り、シャワーを浴びてTシャツと黒のジャージのズボンに着替える。ブラックコーヒーを淹れてソファに身を投げた。まだ気分が高揚している。
明日から鳴瀬に貼り付き、行動パターンを把握する。相手はプロだ、尾行がバレないよう細心の注意が必要だろう。
殺しの舞台はどこにしよう、武器もいつものペン型の細工針でなく、ナイフを調達してもいい。手塚は思いを巡らせる。こんな楽しい気分になるのは初めてかもしれない。
コーヒーを飲むと気分が落ち着く。寝る前の強いカフェインは避けた方がいいと言われるが、手塚には全く効かない。ブラックを飲んでもすぐに眠ることができた。
カバンから喜久子の小説原稿が覗いている。手塚は原稿を取り出し、パラパラと捲ってみる。枚数にして150枚程度、長編の新人賞に出すのだろう。
喜久子は派遣職員だが、下手な正職員よりも仕事に真摯に取り組んでいる。時間内に終わらせようとテキパキ動くし、いつも利用者のことを考えて行動している。好感が持てる女性だ。
今日、喜久子を食事に誘ったのは、蜂谷昴の目をかわすためだった。昴の執着を解くのは一筋縄ではいかない、そう直感した。
図書館で働いていることは知られてしまった。相手の方が優位だ。鳴瀬と逆の立場か、と自嘲する。
女性と付き合っていることにすれば、諦めるだろうか。喜久子は手塚にとってカードのひとつだった。彼女を手なずけておけば、利用できる。
館内で一番うまく扱えそうなのが喜久子だった。他の女性スタッフは手塚に色目を使う。利用しようと近づけば、昴の二の舞になってしまう。これでは何人始末しなければならないのか、手塚は溜息をつく。
他人と必要以上に関わるのは危険だ。喜久子とは適度な距離を取って、うまくあしらうつもりだ。
手塚は喜久子の原稿に目を通し始める。
離島にある古い廃映画館が舞台で、映画監督を目指す女子大学生が島の歴史ドキュメンタリー映画を作り、映画館を再建して上映するというものだった。
島の偏屈な老人たちや純粋な子供たちとの交流、同じ志を持つ学生たちの友情、そして恋。
ヒューマンドラマとして成功する要素が詰め込まれている。
彼女の普段の仕事の制作物から文章力は極めて秀逸だ。島の豊かな自然や人物の感情表現など、女性らしい細やかで美しい筆致で書かれている。本を読む者はアウトプットのレベルも高い。
下読みをしていたとき、まともな本を読んだ人間かそうでないかはすぐに分った。一ページ目で落とすかどうか、見定めることができた。
喜久子の物語は構成良くまとまっており、文章も個性があり読み応えがある。しかし、何か足りない。ここが選考を突破できない要因だ。
手塚は真剣な目つきで原稿を読み、赤字を入れていく。誤字脱字が多少あるものの、文法そのものの大きな間違いはほとんど見つからなかった。
あとはこのよくできたヒューマンドラマにほんの少しのスパイスがあればプロと肩を並べられるはずだ。その点は彼女自身に考えてもらうことにしよう。
手塚は原稿をファイルに入れて明日返却できるようバッグに戻した。
***
電車の揺れに身を任せ、昴は呆然としていた。外を流れる灯りは荒涼とした砂漠に落ちた星のようだ。
大学図書館であの男を見つけた。手塚彰宏、それが男の名だ。館内の防災責任者のパネルに名前を見つけた。
手塚にホテルでのセックスをネタに揺さぶりをかけたが、動じなかった。人違いだと平然と言い放った。諦めきれず、職員通用口を確かめ、手塚を待ち伏せした。
他人を気にしない場所でなら話ができるかもしれない、そんな一縷の望みをかけた。
コンクリートの石段に座って通用口を眺め続けた。扉が開くたび、心臓がドクンと撥ねた。
ブルドッグを思わせる意地悪なおばさん職員が最初だった。若い女性二人連れはこれから遊びにでも行くのだろうか、楽しそうにはしゃいでいる。
そのあとうだつの上がらなそうな猫背の中年男性、派手なスカートを履いた太った若い女性。ここは規模が大きく、職員の数が多い。手塚の姿を見落としたのか、もしくは残業で夜中まで残るのかもしれない。
陽が落ちて、もう諦めようかとしたとき。ようやく手塚が通用口から出てきた。慌てて立ち上がり、足がもつれそうになり手すりに縋り付く。
昴は手塚の後を追った。手塚は自転車置き場に向かっている。ここなら腹を割って話ができる。そう思ったとき、手塚は自転車置き場にいた女性に話しかけた。
彼女は恥じらいの混じった笑顔を向けて、嬉しそうだ。きっと、手塚に食事にでも誘われたのだろう。
案の定、二人は自転車で仲良く連れ立って行ってしまった。
取り残された昴は悔しさと切なさがないまぜになった気持ちで拳を握りしめた。
気がつけば電車に乗っていた。停車駅のアナウンスは聞きなれぬ町の名前だ。いつの間にか乗り過ごしてしまった。
昴は慌てて電車を降りる。遠ざかる電車のライトを見つめながら、惨めな気持ちでホームに立ち尽くした。
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