執念の炎(3)

 職員通用口を出て、自転車置き場に着いたところで喜久子を見つけた。彼女も自転車通勤だ。白のノースリーブに黒のカーディガン、ベージュのチノパン姿で肩にはオレンジ色のハンドバッグを下げている。ナチュラルメイクに肩まで伸ばした黒髪をまとめ上げ、清楚な佇まいだ。


「綾野さん、お疲れ」

「あ、手塚さん。今日は早いんですね」

 喜久子は振り向いて手塚に会釈する。派遣職員である喜久子はいつも定時で業務を切り上げさせられる。残業は正規職員が担うので、手塚と帰りの時間が合うのは珍しいことだった。


「良かったら晩飯食べに行かない」

 思わぬ手塚の誘いに、喜久子は舞い上がる気持ちを抑えて手塚を見上げる。

 優しくて人当たりが良く、知識も豊富な手塚は利用者のみならず図書館スタッフにも好感度が高い。若い女性スタッフの中には密かに彼を狙っている者もいる。

 飲み会には参加するが、特定のスタッフとプライベートで仲良くしているという話は聞いたことがなかった。


 喜久子は自分に声がかかったことに驚き、戸惑いを感じていた。

「突然で迷惑だったかな」

 手塚は頭をかきながら申し訳なさそうに苦笑いする。喜久子は一人暮らしで、冷蔵庫にストックしているきんぴらゴボウと、割引シールが貼られたスーパーの惣菜で済ませようと思っていた。アパートに誰を待たせているでもなく、断る理由はない。


「いえ、ぜひご一緒させてください」

「良かった」

 手塚はこの近くで気になっていたカフェがあると、スマートフォンを使いグーグルマップを表示する。創作洋食のカフェでレビューも悪くない。自転車で5分ほどの距離だ。

 手塚はマウンテンバイクに跨がり、赤色のママチャリに乗る喜久子を先導する。喜久子のスピードに合わせてゆっくり進み、曲がり角では振り向いて方向を示す。仕事中と変わらぬ気遣いに喜久子は感心する。


 煉瓦造りの壁に蔦が伸びたカフェはなかなか人気店のようで、店内は若者を中心にほぼ満席だった。手塚が事前に電話で席を確保していたので、スムーズに座ることができた。

 レトロなランプが照らす店内で手塚と向かい合い、喜久子は緊張する。職場の男性と外で二人きりになるのは初めてだった。

 手塚はハンバーグ定食、喜久子はデミグラスソースのオムライスを注文する。セットでサラダと前菜がついてきた。


「そう、綾野さんは二年目になるんだね。ずっと一緒に働いている気がするよ」

「手塚さんは十年なんですね、いつも頼りにしてます」

 共通の話題は仕事のことだけ、なんだかお見合いのようだ。喜久子は緊張した笑顔を作る。手塚の知識は広く深く、何に興味があるのか分かりにくいと気が付いた。


「あ、おいしい」

 喜久子はオムライスを口に含み、思わず頬に手をやる。普段あまり外食をすることがないため、味の凝った料理に感激する。濃厚なデミグラスソースにふわふわの卵、ソースの風味を邪魔しないチキンライスがマッチしている。

「喜んでくれて良かった」

 手塚は嬉しそうに微笑む。そんなに美味しそうな顔になっていたのだろうか、喜久子は頬を赤く染めた。


「休みの日は何をしているんですか」

 食後のコーヒーを飲む頃にはずいぶん打ち解けていた。手塚は聞き上手で、頭の回転が早いのか返しも上手い。いろんなことをつい話してみたくなる。

「僕は基本的にインドアでね、部屋で読書をするか外に出るときは本屋巡りをしているよ。綾野さんは何をしてるの」


 切り替えされて、喜久子は口ごもる。読書、映画鑑賞、そんなことは誰でもやっている。そうだ、思い切って小説執筆のことを話してみよう、手塚なら馬鹿にすることなく真面目に聞いてくれそうな気がした。


「あの、小説を書いてます。文芸誌のコンテストにも投稿しているんだけど、なかなか結果は出なくて」

 打ち明けて喜久子は急に恥ずかしくなり、慌ててコーヒーを口に含む。これまで職場の誰にも話したことが無かった。

 小説は高校生の頃から書き始めた。本が好きで、自分も読者の心を揺さぶる物語を書いてみたい、と思ったのがきっかけだった。

「いい趣味だと思うよ」

 手塚の反応に、根暗な女だと思われないだろうかと心配していた喜久子は安堵する。


「その、派遣の仕事だけだと厳しくて。あわよくば兼業作家としてやっていけたらいいなって、本気で頑張っているんですけど鳴かず飛ばず」

 喜久子は肩をすくめて自嘲する。手塚は真剣な眼差しで興味深く話を聞いている。

「でも、この間講評サービスで褒めてもらえて嬉しかったの。来月締め切りの公募に出そうと思って、帰ったらすぐにパソコンに向かってる」

 恥じらいを誤魔化すために早口でまくしたてる。


「良かったら読んでみたい」

「え、それは」

 思わぬ展開に喜久子は戸惑う。ネットの小説サイトに細々掲載しているが、顔を知る相手に読んでもらったことはない。

 しかも、読書家の手塚に読んでもらうなんて、恐れ多い。喜久子はカップの中で揺らめくコーヒーを見つめ、答えを出しあぐねている。


「講評サービスってお金がかかっているんじゃないのかな。僕で良ければ下読みをしてみるよ。学生時代はバイトで雑誌社の公募の下読みをしたことがあるんだ」

 渡りに船の申し出だった。講評サービスは月額一万円で、派遣の給料から捻出するのは厳しい額だ。雑誌社で下読み経験のある手塚が作品に目を通してくれるなら、こんなに心強いことはない。

「いいんですか、手塚さん」

「もちろん」

 喜久子は椅子から飛び上がりそうになる。


「そうだ、お礼を決めておかないと」

「綾野さんの作品が読める、それで十分だよ」

 なんという裏の無い人なのだろう。手塚の普段の言動から後から見返りを要求するようなことは考えられなかった。

「もしかして、そこにある」

 手塚は目聡く喜久子のカバン指差す。そこにはクリップ止めしたプリントが覗いていた。休み時間も校正を進めようと持ち歩いていた原稿だった。


 ***


 誘ったのは自分だからと手塚が支払いを済ませてくれた。店を出て、恐縮しながら原稿を手塚に手渡す。

「これ、赤入れしていいのかな」

「お、お願いします」

 まるでラブレターを渡している気分だ。喜久子は深々と頭を下げる。


 大きな交差点で手塚に別れを告げた。小説を読んでもらえる。喜久子は自転車を漕ぎながら頬を緩める。気恥ずかしさもあったが、どんな感想をもらえるか楽しみで胸が躍った。小さな秘密を共有できたことで手塚との距離が縮まったのも嬉しかった。


 

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