第三章

執念の炎(1)

 ブルーのダウンライトが丁寧に磨き上げられたグラスを憂鬱に照らしている。店内に流れるローテンポのジャズはしみったれていると思っていたが、今の昴には気怠い調子が妙にしっくりきて心地良い。


 カウンターの椅子に浅く腰掛け、氷が溶けてしまったグラスを弄ぶ。モスコミュール一杯なのにすでに酔いが回っている。アルコールに溺れるなんて愚か者のすることだと思っていた。アルコールの与える酩酊感はこうも寂しさを紛らわせてくれるとは知らなかった。


「お、昴じゃん」

 馴れ馴れしく隣の席に座ったのは、高山 友貴ともきだ。日焼けした浅黒い肌、明るい茶色に染めた髪は軽薄に見えるが、五反田のスポーツジムでインストラクターをしており、休日はもっぱらテニスをしている根っからのスポーツマンだ。

「ひとりで飲んでるの、珍しいじゃん」

 友貴はクラフトビールを注文し、お通しのピーナッツをポリポリ摘まみ始める。


「そうでもないよ」

 昴は唇を尖らせる。確かに、新宿に出るときはいつも連れを誘って飲んでいた。ひとりバーで感傷に浸るなんて、正直柄じゃ無いと自嘲する。

「まだ探してるの、アイツのこと」

 昴は友貴の問いに答えず、答えずにギムレットを注文する。


「ずいぶん諦めが悪いじゃん」

「ほっといてくれよ」

 友貴に揶揄され、昴は微かな苛立ちと共にギムレットを一気にあおる。きついアルコールが体内を駆け巡り、心臓の鼓動が早くなるのを感じる。


 あの夜。行きずりの男に誘われるまま、ホテルになだれ込んだ。あれほど情熱的に抱かれたのは初めてだった。男の激情に身も心も暴かれ、抗いがたい快楽に溺れた。情交の後の抱擁はまるで魂ごと抱かれているような錯覚に陶酔した。

 昴はまた会いたいと言ったが、男は一夜限りだと拒絶した。薬を盛られたのか、気付いたときは朝日が差していた。


「そんなのヤリ捨てだろ、もう忘れろよ」

 友貴の言う通りだ。男にとってはただの遊びだったのだ。昴は形の良い唇を噛みしめる。

 この街には寂しい人間が集う。体の繋がりでしかそれを癒やせない者もいる。一夜限りの遊び、と男は言った。昴もそうやって見目良い相手を見つけては寂しさを紛らわせてきたし、相手に執着されることを嫌いあっさりと切り捨ててきた。


 どうしてもあの男を忘れることができず、新宿界隈のマイノリティ同士の飲み仲間に情報が無いか聞いて回った。友貴もその一人だった。遊び人と思われていた昴がそこまで本気なことに驚いていた。

「見てられないな、そんな相手に必死になってもいいこと無いって」

 友貴はビールを飲み干し、二杯目にジントニックを注文する。黒髪を撫でつけたバーテンダーが氷をかき混ぜる涼やかな音が響く。


「うん、わかってるよ」

 昴は項垂れる。ヤリ捨てした男を必死で探す姿はさぞや滑稽だろう。しかし、どんなことをしても情報が欲しかった。あの男にもう一度会いたい。会ったところでどうしたいのだろう、もう一度抱いてくれとせがむのか。自分でも分からない。

 あの男にどうしようもなく惹かれている。あれから誰と肌を重ねても、何もかもが虚しく思えた。


「いい奴紹介してやるぞ」

 友貴は真顔で昴に向き合う。髪を茶色にするならその黒すぎる眉毛も色を合わせたらいいのに、と昴はぼんやり思う。

「そんないい奴いるの」

「俺だよ」

「ばーか」

 昴はおかしくなって友貴の肩をバシバシ叩きながら笑う。涙が浮かぶのは笑いのせいだけではなかった。


「でもさ、真面目な話、そいつ危ない気がするよ。この辺の連中が誰も知らないなんてさ。そいつとヤッた奴はもしかして殺されたりとか、さあ」

「それ、推理ドラマの見過ぎじゃない。俺は生きてるじゃん」

 友貴は本気で心配しているが、昴は笑い飛ばす。

「気晴らしになったよ、ありがと」

 昴はギムレットを飲み干し、席を立つ。友貴はそんな男のことを忘れろ、と念押しした。昴は生返事をして店を出る。


 週末の繁華街は眠ることを知らない。酔っ払ったサラリーマンが肩を組んで道路の真ん中を闊歩し、コンパ帰りの男子学生はお気に入りの女子を二次会に誘おうと必死だ。

 路地に立つミニスカートの女の甘ったるい声を無視して雑沓を抜けていく。ふと、あの男と同じ背格好のシルエットを見つけた。人混みをかき分けて走る。


 アルコールが一気に体内に巡り、呼吸が荒くなる。男は薄暗い路地に入っていく。見失ったらお終いだ。もう一度、会いたい。

 昴が路地に駆け込むと、男は壁に向かって立ち小便をしていた。顔は似ても似つかぬ垂れ目に団子鼻だ。昴はひどく落胆して路地を出た。


 毛足を遊ばせた髪にくっきりした二重瞼、すらりと通った鼻筋に端正な唇。怜悧な輝きの奥に微かな憂いを帯びた目が魅力的だった。薄闇の中であの瞳がじっとこちらを見つめていたのを覚えている。

 もう一度会いたい。これほど他人に執着することは無かった。恋なんて生ぬるいものじゃない。魂が激しくあの男を求めている。毎夜あの熱を思い出しては心を引き裂かれ、身を捩る程に。


 ***


 昴は逢見おうみ学園大学付属図書館を訪れていた。銀杏並木と時計台がシンボルの県内最大級の大学図書館だ。専攻している建築史学の教授から比較対象として古代建築について調べるようアドバイスがあった。

 アレクサンドリアの都市計画を行ったディノクラティスについて書かれた洋書がこの図書館の書庫にあるはずだ。


 建築史学を専攻に選んだのは、亡き父への歪んだ憧憬でもあった。父は優れた建築士で、家庭を顧みずに仕事に没入した。有名メーカー勤務から独立して建築事務所を立ち上げた。名指しで仕事の依頼が次々に舞い込み、激務が重なった。


 個人事業主になったことで健康診断をおそろかにし、自覚症状から膵臓癌が見つかったときにはすでに手遅れだった。

 仕事優先で子供に関心の無かった父は、美容師の母に子育てを任せきりだった。昴には父との思い出が無い。


 立派な観音開きの扉を押して、図書館に足を踏み入れる。入るなり、天井の高さ、奥行きにその巨大さが実感できた。ここでは昴は部外者だ。まずは利用申請が必要になる。

 天井に吊られた案内を見つけ、受付カウンターへ向かった。



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