邂逅(3)

 今日は同じ階の奧さんに誘われたコーラスグループの発表会だ。若い頃はビジュアル系と呼ばれるバンドの追っかけをしていたこともある。音楽は嫌いじゃ無い、でも正直素人の歌になど興味は無かった。

 暗殺者とともに生活し周囲に溶け込むこと、それが組織の与えた指令だ。ご近所付き合いも義務のひとつなのだ。


 諒子はシックなブルーグレーのワンピースに身を包み、背中にかかる髪をアップにしている。少し広めの首元にはプチネックレスを下げた。化粧も普段より時間をかけた。鏡の前に立つと、まるで自分でない誰かがそこにいるように思えた。


 普段は京平を幼稚園に預けた後、クリニックの受付の午前パートに入る。午前の診療が終われば京平を迎えに行き、自宅マンションへ帰る。それから公園へ行ったり、本を読んでやったりしながら午後の時間を過ごし、京平の昼寝の合間に掃除機をかけて洗濯物を取り込み、夕食を準備する。

 別段着飾る必要もない。組織に拾われた時点で諒子は自分というものは捨ててしまった。


「良い子にしてるのよ」

 諒子はしゃがんで京平と目線を合わせる。京平は少し寂しそうな表情を浮かべるが、控えめに頷いた。背中には青色のリュックを背負わせている。京平が好きな機関車のキャラクターのリュックだ。


「あなた、京平をよろしくね」

「ああ」

 着飾った自分にも鳴瀬は眉一つ動かさない。彼は仕事のパートナーだ。特別な感情を抱くことは禁じられている。諒子は微かにでも期待したことをひどく後悔した。京平に手を振り、玄関を出る。

 鳴瀬は諒子を見送ったあと、スマートフォンで天気予報をチェックする。今日は概ね晴れだ。洗濯機から洗濯物を取り出し、ベランダの物干し竿に干していく。


 京平は待ち遠しそうにそわそわしながら鳴瀬の様子を伺う。

「行こうか」

「うん」

 京平ははにかみながら頷く。

 京平とは乳児の頃からの「知り合い」だ。血は繋がっていないが、4年も一緒にいるとそれなりに愛着は湧くものだ。諒子も京平のことを大事にしていると思う。


 玄関の鍵をかけ、階段を目指そうとして鳴瀬は足を止めた。5歳児には5階分の階段は厳しいだろう、と思い直してエレベーターホールへ向かう。

「あら、京ちゃん、パパとおでかけなの」

 乗り合わせた初老の女性が笑顔を向ける。京平は恥ずかしがって鳴瀬の背後に隠れた。

「大きくなったわね、可愛い盛りねぇ」

「ええ、そうですね」

 鳴瀬は愛想笑いで返す。なぜ他人の子にそうまでして興味を示すのか、理解しがたい。彼女は顔を合わせるといつも同じ反応をする。


 マンションから最寄りの地下鉄駅へ向かう。行き先は隣町の市立図書館だ。京平は本が好きだ、と諒子から聞かされた。今朝のことだ。夜寝る前に絵本の読み聞かせをしており、お気に入りの絵本は内容を覚えているという。


 京平をどこへ連れていこうか、一晩悩んでも答えが出なかった。朝起きて諒子に尋ねたところ、図書館が良いという答えを得た。市立図書館なら広い公園が隣接しており、遊ばせておけば手がかからない。公園には役目を終えた蒸気機関車が設置されている。電車が好きな京平はきっと喜ぶだろうという話だった。


 電車に揺られながら、京平は嬉しそうに足をぶらぶらさせている。口数の少ない子だ。子供は両親の会話から言葉を覚えると聞いたことがある。諒子との間には必要最低限の会話しかない。可哀想な子だ、と鳴瀬は思う。自分と諒子が本当の両親ではないと知ったら京平はショックを受けるだろうか。

 彼は他の子供たちのように過度に甘えようとしない。京平は本当の両親ではないと気が付いているのではないかと錯覚することがある。


 地下鉄の階段を上り、歩道に沿って歩けば銀杏並木の向こうに市立図書館が見えた。ガラス張りの立派な建物で、太陽光を取り入れる吹き抜けの一階にはカフェと展示スペース、二階から五階が図書館になっている。

 ガラスと鉄骨を組み合わせた洒落たデザインに建設当時は税金の無駄遣いではないか、と抗議の声もあったようだ。しかし見事な図書館が完成し、今は多くの市民が利用している。


 児童書コーナーは親子連れで賑わっていた。読書スペースにはカラフルな椅子が並び、母親が子供に本を読んで聞かせている。キッズスペースも併設されており、子供たちの明るい声が聞こえてきた。

 京平はずらりと並ぶ本棚に驚いたらしく、物珍しそうに左右をきょろきょろ見回している。

「好きな本を探すと良い」

 鳴瀬は京平の背中を押す。


 京平は棚に並んだ絵本をじっと眺めている。何かを探しているようだ。

「どんな本がいいんだ」

「えっと、狼ときつねが出てくる本」

 それを聞いて、鳴瀬は狼ときつねをキーワードにスマートフォンで検索を始める。検索結果を京平に示した。

「どれでもない」

 京平は首を振る。


「絵本をお探しですか」

 明るい笑顔で声をかけてきたのは若い女性だ。黄色いエプロンの胸元には向日葵のマークにボランティアと書かれている。

「狼ときつねの絵本ですね、これではないですか」

 女性はコミカルな狼ときつねの絵本を持って来た。「ぼくらともだち」というタイトルで人気作品らしく、シリーズで刊行されている。

「これでいいか」

 鳴瀬の問いに京平は首を横に振る。有名なシリーズでは無かったことで、女性は首を傾げる。


「そうねえ、あとはこれかなあ」

 女性が次に持ってきたのは狼と猫の本だった。

「あのね、狼ときつねがケンカするお話だよ」

 京平のヒントに女性は思い当たる本がないらしく、頭を悩ませている。諦めて他の絵本に、と鳴瀬がいいかけたとき、女性に助け船が出た。


「その絵本は今は書庫にあるよ」

「あ、手塚さん」

 手塚と呼ばれた細身の男性は、縁なし眼鏡をかけた温和で真面目そうな雰囲気だ。首から図書館のスタッフ章をかけている。本職の司書のようだ。

「この本じゃないかな」

 手塚は検索用パソコンにタイトルを入力する。画面に表示された書影を見て、京平はこれ、と指差しながら鳴瀬を見上げる。

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