邂逅(2)

 新宿駅から小田急線で自宅マンションのある町田へ一時間。町田市は東京都と神奈川県の境にある街で、地理的に神奈川県に食い込むような形になっているが東京都の一部だ。都内へのアクセスが良く、駅前は繁華街が賑わい近隣は豊かな緑も多く住みやすい土地だ。


 JR町田駅から二駅、早足で四十分ほど歩けばマンションが見えてくる。鳴瀬はいつもエレベーターは使わず五階まで非常階段を駆け上る。基礎体力の衰えは暗殺業では命の危険に繋がることを知っている。


 時計は午後十時を回っている。キッチンにはいつもラップをかけた夕食が用意されている。ハンバーグに野菜サラダ、冷や奴とひじきのおひたし。味噌汁は卵を落として温めるだけになっている。

 帰宅してすぐにダイニングテーブルを覗いてしまうのは心無しか諒子の作る夕食が楽しみなのかもしれない。


 顔を洗い、キッチンに戻ると諒子が起きだしてきた。

「おかえりなさい」

「ただいま」

 演技でもない、淡々とした夫婦の会話。鳴瀬は組織に与えられた役をこなしているだけだ。きっと彼女もそうに違いない。諒子は味噌汁に火を入れる。十分に温まった頃合いに卵をひとつ落とした。その間に鳴瀬は電子レンジでハンバーグを温める。


「明日の土曜日のことなんだけど」

 鳴瀬が食卓についたタイミングを見計らって諒子が声をかける。何やら言いにくい話題のようだ。

「同じ階の奧さんからコーラスの発表会に呼ばれていて」

 それが明日の土曜日だという。諒子は内向的で、積極的に人づきあいをしない方だ。同じ階の藤田家の奧さんは人柄も良く、廊下ですれ違うといつも笑顔で話しかけてくれる。その藤田さんからの誘いで断りにくいようだ。


「君が行きたいのなら行ってくるといい」

 鳴瀬はサラダにドレッシング代わりにオリーブオイルと塩をかける。鳴瀬は諒子に必要以上に干渉することはない。今回のことも好きにしろ、という返事だ。

「発表会のあとにランチに誘われているの」

 つまり、京平を置いていってもいいかということだ。諒子の歯切れの悪い口調はそれを言い出しにくかったのだ。


「わかった、京平の世話はしておく。気にせず楽しんでくるといい」

 優しい言葉だが、すべてを察している鳴瀬の冷静な口調はどこか突き放された気になる。鳴瀬が余計な感情を露わにすることはない。過度に依存して束縛してくる以前のパートナーより何倍もまともだ。しかし、彼の目には自分が映っていない、と諒子は思う。

「ありがとう、お仕事お疲れさま。おやすみなさい」

 諒子は薄い微笑みを浮かべて寝室へ戻っていった。


 鳴瀬は遅い夕食を済ませて食器を食洗機に入れる。シャワーを浴びてパジャマに着替え、自室のパソコンを起動した。

 新宿駅の指定のロッカーから取り出した旧約聖書を机に置く。聖書のページを捲るとページの中央に二センチほどの窪みがあった。ナイフでえぐり取られたような窪みにはUSBメモリが嵌め込まれている。

 鳴瀬は聖書を机の脇に置いた。この本はすでに用済みだ。USBメモリをパソコンに差し込む。画面中央にパスワードを求めるメッセージボックスが軌道した。


 ―15892


 鳴瀬はキーボードで五桁の数字を入力する。この数字は天狼での鳴瀬の所属コードだ。

「鳴瀬史郎」

 暗証番号の次は声紋認証だ。認証が降りたことを示すアラーム音が鳴り、モニタに狼のシンボルが浮かび上がる。シンボルをクリックすると次のターゲット情報が表示された。

 

 逢見学園大学付属病院 役員秘書室室長 早川哲也 46歳

 役員秘書室は理事長や病院長などの重役秘書の所属する部署で、早川はマネジメントを総括している。38歳まで製薬会社のMRをしており、病院へ出入りしていた縁で能力を買われヘッドハンティングで室長となる。

 早川は臓器移植斡旋の非営利団体と繋がりがあり、電子カルテから抜き出した患者リストの横流し、違法な臓器提供に絡んでいる。


 違法な臓器移植は海外の医療発展途上国で行われることが多く、昨今新聞でも問題として取り上げられている。移植を行ったは良いがその後の感染症が原因で苦しみ、日本で処置を受けられずに結果死亡する。

 早川はそうした問題をクリアしている。なぜなら、移植は日本国内で行われるからだ。金が欲しい倫理観の欠如した医者や看護師を闇サイトで集め、午前中から待ち合いがガラガラの閑古鳥の鳴く施設を借りて移植をやらせる。医療者は潤い、施設は赤字が解消され、患者は寿命が延びる。まさにウィンーウィンの関係だ。


 問題は臓器の提供元だ。正規ルートでの提供待ちは年単位だ。待っているうちに手遅れになり、死ぬこともある。

 早川は院内の医者と組んで臓器提供の意思のない遺体から臓器を抜き取らせている。司法解剖で開腹し、臓器を抜き取って縫い合わせてしまえば分かりはしない。外見が綺麗に見えていれば遺体の体重が減っていても遺族は気が付かない。

 身よりのない者、事故で不慮の死を遂げた者、臓器提供者は本人の意思に関係無く選び放題だ。


 臓器移植の闇ビジネスは競争が激しくなっている。敵対する組織からの依頼か、はたまた天狼からの直接依頼か。鳴瀬は詳細ないきさつについては知らされていない。ただ指定のターゲットを納期までに始末する、それだけだ。


 まずはターゲットの行動パターンを調べる。そして、ひと目につかず暗殺を実行するロケーションも決める必要がある。締め切りは今月末日。

 鳴瀬は逆算してすべきことを整理する。バッファを取っておくために二五日までに実行する。鳴瀬はスマートフォンの予定表に殺害予定を入力した。


 USBメモリをパソコンから抜き取ると、白い煙が立ち上り焦げ臭い匂いが微かに鼻をつく。自動的に内部の回路が焼き切られたのだ。これでデータを復元することはできない。


 パソコンを閉じようとして、鳴瀬は手を止める。

 明日は諒子が戻るまで京平と過ごすことになる。どこへ連れていくべきか、悩ましい。ある程度放置しても良く、時間を潰せることはないか。公園、遊園地、動物園。インターネットで検索をするが、5歳の子供と遊ぶのは骨が折れそうだ。鳴瀬は小さく溜息をついた。

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