邂逅(1)

「それじゃ鳴瀬君、先に失礼するよ」

 難波部長は一応申し訳さなそうに自分のデスクから鳴瀬に声をかける。鳴瀬は難波を一瞥し、会釈をしてまた手元の書類に集中し始めた。十九時に業務を切り上げれば池袋にある九番街に二十時までには到着できる。


 鳴瀬は組織が用意した職場で与えられた仕事を淡々とこなしてきた。ホテルマンやシステムエンジニア、塾の講師。暗殺が本業だが、表向きの仕事をしている時間の方が長い。

 中でも今の企業の契約担当はさして面白みのない仕事だった。しかし、書類に不備が無いかチェックをしていくという単純作業は向いていると鳴瀬は思う。


 今日のようなイベントは稀で、基本的に社内で黙々とパソコンや書類と向き合う。こうして目立たぬように過ごし、そのうちの転勤とともにこの会社から籍は無くなる。鳴瀬史郎という名前も偽りだ。

 鳴瀬のアイデンティティは常に組織が与えるものだった。


 最後の書類に目を通し、部長の決裁箱へ入れた。これで今日予定していた業務はこなした。

「お先に失礼します」

 鳴瀬は基本的に定時で帰る。そのように業務をコントロールしている。事務職はある程度残業代が無いとやっていけない、と安田や女性スタッフはぼやく。鳴瀬は妻がパートで家計を助けている、と説明している。


 実のところ、プラスコアジャパン社でのひと月の働きよりも一度の暗殺の方が断然金になる。それでも鳴瀬は与えられた仕事を真面目にこなしている。普通の人間たちの中で生活できることは学びでもあるからだ。


 会社を出て新橋駅へ向かう。今日は金曜日とあって駅前は特に賑わっている。ICカードをタッチし、改札を通る。電光表示を見上げると、人身事故で約十分の遅れと出ていた。

 電車が到着し、ホームに溢れていた人がなだれ込む。皆スマートフォンを眺めて自分の世界に没入している。人身事故のニュースなど何気ない日常風景のひとつなのだ。


 池袋駅を出て足早に九番街へ向かう。雑居ビルの暗い階段の奥にランタンの仄かな光が見えた。時計を見れば、十九時五十四分。

 ドアを開けると二組の客がいた。静かに読書をする中年女性と初老のサラリーマンだ。二人は向かい合わせに座り、自分の時間を楽しんでいる。

 ドアが閉まると、マスターの吾妻がランタンの明かりを落とす。閉店の合図だった。


 吾妻はカウンターに座る鳴瀬に温かいルイボスティーを淹れる。鳴瀬はカフェインを取らない主義で、店の自慢の焙煎珈琲を口にすることはない。鳴瀬との付き合いは五年目に差し掛かるが、ルイボスティーしか出したことがない。

「あなたに手紙が届いています」

 吾妻はアイボリー色の洋封筒をカウンターに滑らせる。封筒には狼の紋章のついた赤い封蝋が施されている。鳴瀬は差し出された封筒をそのままにルイボスティーを口に含む。


 チンと軽やかなベルが鳴り、初老のサラリーマンが伝票を持ってレジ前に立っている。「キリマンジャロを」

 サラリーマンはタンザニア産の豆を自宅用に購入した。時々店にやってきてコーヒーを楽しんで帰るだけだったが、最近は自宅でも豆を挽いているらしくいろんな種類の豆を購入している。

 フロアに客がいなくなった寂しさからか、最後の女性客も周囲を見回し本に栞を挟んで立ち上がり、会計を済ませて足早に出て行った。


「あなたのランクは据え置きだそうです」

 吾妻の穏やかな声に、鳴瀬は静かにカップを置き無言のまま澄んだ深みのある赤を見つめる。あのとき、広告代理店の男の暗殺をしくじった。待ち伏せの場所に先客がいたのだ。あの男の目的は分からない。仕事を邪魔されたことで組織の信用を失った。

 組織の暗殺者の中でも最上ランクである特級を取り上げられても文句は言えない、そう思っていた。


「首の皮一枚か」

 鳴瀬は肩を揺らして自嘲する。

「いえ、あなたには十分すぎる信頼があります。今回の件はターゲットの転落死で片付けられました。あなたには不本意ですが、結果オーライでしょう」

 一度のしくじりで命を狙われ、東京湾に浮かんだ暗殺者を吾妻は知っている。鳴瀬には組織がまだ期待をしているということだ。しかし、この先失敗は許されなくなるだろう。


 鳴瀬はルイボスティーを飲み干す。封筒の中身を確認し、取り出したものをポケットにしまった。吾妻はカウンターに灰皿を置く。鳴瀬は真鍮製のジッポで封筒に火を点け、灰皿に投げ込んだ。火が消えるのを待たずに店を出る。


 向かう先は新宿駅だ。封筒の内側に書いてあったメッセージは新宿・西・5。鳴瀬は電車を降りて駅西口ヘ向かう。

 中二階にある錆びの浮いた鍵式のコインロッカーの前で立ち止まり、ポケットからキーを取り出す。吾妻に渡された封筒に入っていたものだ。


 キーに書いてある番号は十二番。ロッカー番号十二を探す。ロッカーを解錠すると、中に一冊の分厚い本が入っていた。タイトルは「旧約聖書」だ。鳴瀬は本を取り出し、バッグに入れた。

 回りくどいやり方だが、こうして組織からの暗殺指令が入る。吾妻は組織との連絡役だが実際の指令を知ることはない。ただ鳴瀬に指令の場所を教えるだけだ。

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