サボテン(5)
「鳴瀬さん、ありがとうございました。このご恩は必ず」
社への帰りの山手線の中、真砂は鳴瀬をひたすら拝み倒していた。感激のあまり興奮する真砂に対して鳴瀬は冷静な態度を崩さない。
「あの事務所の雰囲気に動じないなんて、一体どういうメンタルなんです」
真砂は鳴瀬がヤクザの事務所で普段と変わらぬ態度で堂々と立ち振る舞ったことに心底驚いている。
「仕事を早く片付けたかっただけだ」
鳴瀬は車窓に流れる景色を眺めながら感情のこもらぬ声で答える。
「あ、近藤主任だ」
真砂はポケットで振動しているスマートフォンを取り出す。近藤は同じ部署の先輩だ。画面にはLINEのメッセージが入っていた。
「契約書は回収できたかって」
真砂はメッセージを読んで眉根を顰めて唇をへの字に曲げる。
「あのう鳴瀬さん、今回の件、近藤主任が仕組んだんです」
真砂がおずおずと話し始める。
「どういうことだ」
真砂の話によれば、厄介な筋者の事務所に契約書を回収に行くことになったのを知った近藤が、片山部長に入れ知恵をして鳴瀬を同行させるよう仕向けたという。
「近藤主任は鳴瀬さんに契約書を突き返されて憤慨していました。それでヤクザの事務所に行かせようって」
真砂は申し訳なさそうに鳴瀬の顔色を覗う。社内での融通の利かない態度が外で通用するか見せしめだ、と豪語していたという。鳴瀬は無言で話を聞きながら眉一つ動かさない。
「他の先輩たちと賭けをしていたんです。ぼくが契約書を回収できるかどうかって」
それで頃合いを見計らったメッセージを飛ばしてきたのだ。真砂は腹立たしさに唇を噛む。
「賭けは君も参加していたのか」
「ええ、はい。ぼくは回収できる方に賭けました」
鳴瀬とならできる気がしていた。
「賭けは君の勝ちだな。返信をしてやるといい」
鳴瀬は口角を上げてニヤリと笑う。こんな顔をするのか、と真砂は意外に思った。
電車がガタンと揺れ、はっと我に返る。真砂は無事に回収できました、と慣れた手つきで返信をした。近藤主任の驚く顔が目に浮かんでほくそ笑んだ。
「一歳になるぼくの娘なんですよ」
真砂がスマートフォンの待ち受け画面を鳴瀬に示す。淡い水色のドレスを着て頬をピンク色に染めた小さな女の子だ。柔らかな髪に小さな花を連ねたリボンをつけている。弾けるような笑顔に真砂の顔も思わず綻ぶ。
「笑っても泣いても可愛いです。毎日、家に帰るのが楽しみですよ」
画面に映る娘を見つめる真砂は優しい笑みを浮かべている。
これが一般的な親の感情なのか。鳴瀬は真砂を静かに観察する。慈しみを込めた瞳に、我が子への深い愛情が伝わってくる。
自分は京平をこんな目で見つめているだろうか。鳴瀬は自問する。京平のことは可愛いと思うし、真っ当な人間に育って欲しいと願っている。しかし、その気持ちはどこか他人事だ。偽装家族として関わっている間はそれなりに世話をしなければならない、という義務感はある。
自分には愛情がない、と鳴瀬は思う。生まれてこのかた愛情というものを教わったことがないのだ。望めば裏切られる、信じられるのは自分だけ。そんな世界で生きてきた。
ただ、人が人を愛することを頭では理解できている。それにより、愚かな行動を取ることも。他人への愛情など持てばただの足枷にしかならない。
真砂はきっと、娘のために躊躇わず命を投げ出すことができるだろう。自分はどうだ。誰かのために命を賭けることができるだろうか。
いや、命を賭けるほどの人間など周囲にはいない。そう考えて、鳴瀬の思考は停止した。
「鳴瀬さんもお子さんがいるんですよね」
「ああ、五歳になる」
「かわいい盛りじゃないですか」
真砂は自分の娘が五歳になったときのことを想像しているのか、目尻が垂れ下がり頬が緩んでいる。
「手がかからなくて助かっている」
淡々とした答えに真砂は内心驚く。まるでペットのことを評価しているような響きに違和感を覚えた。
「賢そうですね、鳴瀬さんのお子さん。あ、写真は無いんですか」
「無い」
鳴瀬の短い答えに真砂の顔が曇る。親なら子供の写真の何枚かはスマートフォンに保存しているはずだ。
これ以上突っ込むのも場の空気が悪くなりそうなので真砂は引き下がることにした。やはり鳴瀬は変わり者だ、と思う。
鳴瀬がスマートフォンを取り出した。待ち受け画面に写真が設定されている。
「あ、写真あるじゃないですか」
真砂は画面を覗き込む。そこには鉢植えのサボテンが映っていた。
「サボテン」
「そうだ、金晃丸という」
「きんこうまる」
真砂は目を丸くして鳴瀬の言葉を復唱する。鳴瀬は画面をフリックしてメッセージを作り始めた。子供の写真ではなく、サボテンを待ち受けにするとは。真砂は複雑な表情で正面を向いた。
車内アナウンスが新橋駅到着を伝えた。急ぎ社に戻り、真砂は回収した契約書を鳴瀬に手渡した。ヤクザから無事に回収できた契約書を手放すのは名残惜しい気持ちにすらなったが、提出しなければ成績にならない。
「本当にありがとうございました」
真砂は深々と鳴瀬に頭を下げる。
「お疲れさま」
鳴瀬はデスクにかけて何事も無かったかのように事務処理を始めた。
電車の中で九番街のマスター吾妻に今日夜二十時には店に行く、と伝えた。帰社時間から残りの業務を計算しての時間だ。
「鳴瀬君、ご苦労様。大丈夫だったかね」
何食わぬ顔で業務に戻った鳴瀬に難波が遠巻きに声をかける。安田と女性スタッフも鳴瀬の様子を興味深く見守る。
「何も問題ありませんよ」
鳴瀬は顔も上げずにそれだけ答え、事務処理に集中し始めた。
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