サボテン(4)

「で、何の話だっけ」

 黒シャツの男、深井は古びたワークチェアに腰掛け、耳をほじりながら足を組む。真砂は渋い表情を浮かべる。用件は電話で伝えたし、今も言ったはずだ。

 背後には鳴瀬がいる。今日契約書に捺印をもらわねば、後がない。真砂は奥歯を噛みしめる。


「パソコン一式のリース契約書に印鑑をいただきたいんです。こちらの説明不足で不備があり申し訳ありません」

 立たされたままの真砂は丁寧に頭を下げる。

「こっちも忙しいんだよね」

 どう見てもそうは見えない。そもそも仕事などしていないではないか。そうは思うが、真砂はぐっと言葉を呑込む。


「まあ、印鑑押してもいいけど」

 深井はもったいぶった態度で真砂が手にした書類を見やる。

「ありがとうございます」

「注文のときに伝えたんだけどさ。プリンターが無かったのよ」

 深井はポケットからタバコを取り出し、火を点けた。深井は真砂の顔を覗き込み、煙を吐き出す。真砂は煙を浴びて一瞬顔をしかめるが、努めて愛想笑いを浮かべる。


「プリンターですか」

「そう、カラーのあるじゃん。これにサービスでつけてよ」

 すでに金額が決まった契約にプリンターを無償でつけろという。これは完全に脅迫だ。真砂は冷や汗が背中に流れ落ちるのを感じた。原価ギリギリなのに、プリンターをサービスする余裕も義理もない。

「それはちょっと、難しいです」

「これからもおたくに注文するからよ、サービスしてくれてもいいだろう」


 深井はニヤニヤ笑いながら困惑する真砂の反応を楽しんでいる。そもそも契約書に印鑑を押すのは当たり前の話だ。話題のすげ替えも甚だしい。奥の応接室から含み笑いが漏れてくる。下っ端の深井が相手をどう言いくるめるのか監視しているのだ。

「印鑑が無ければ契約は無効です。機材一式を回収させていたくことになります」

 鳴瀬が一歩前に出る。その声音は堂々として揺るぎない。


「あぁ、なんだと」

 深井が机をバンと叩いて立ち上がる。その怒声に真砂は肩を竦めて縮み上がった。鳴瀬は素早い動きで深井の首元に手刀を突きつけた、かに見えた。

「ひっ」

 驚愕に目を見開いた深井は首元にゆっくりと目線を動かす。名刺だ。鳴瀬はまるで刃物のように名刺を喉元に突きつけている。

「申し遅れました。プラスコアジャパン契約担当の鳴瀬と申します」

 鳴瀬は平然と名刺を差し出す。深井は威圧感に押され、慌てて名刺を受け取った。様子を伺っている強面の兄貴分たちの雰囲気が変わった。鳴瀬を警戒している。


 深井は焦った。ここで無様をさらせば兄貴分から袋だたきに遭う。

「鳴瀬さんよ、俺たちも忙しいんだよ」

 深井は懸命に鳴瀬を威嚇する。長身の鳴瀬を見上げる深井の姿はいかにも滑稽だ。

「そうは見えませんけどね」

「なんだと、コラァ」

 鳴瀬の冷静な返事に、頭に血が昇った深井は我を忘れて噛みつく。


 真砂は隣でそれを呆然と眺めている。鳴瀬は世間知らずなのか、一切融通が利かない性格なのか。

「こちらも月末で忙しい。ここに印鑑をくれませんか」

 鳴瀬は書類の該当箇所を指差す。黒縁眼鏡の奥の眼光が深井を射貫く。深井はその目に射竦められたように動けない。

「どうやら、担当はあなたではないらしい」

 話にならないと判断した鳴瀬は応接室へ入って行く。真砂は震える足をパンと叩き、鳴瀬についていく。


「お手数ですが契約書に印鑑をお願いします。ここに印鑑が無ければ契約は成立しません」

 口調こそは丁寧だが、有無を言わせぬ圧があった。マホガニー製の立派な机、革張りの椅子に座る紫色のシャツの男が鳴瀬を凝視する。大理石のテーブルの応接セットには黒いスーツに赤シャツ、白に金ラインのジャージの男が大股開きで座っている。

 棚には金箔貼りの虎の彫像、机の背後には立派な神棚が設えられていた。


「あんた、度胸あるね」

 紫シャツが口元を歪める。

「仕事ですから」

 鳴瀬は書類を机に置く。紫シャツは机の引き出しをゆっくりと開ける。鳴瀬はその動きをじっと見据えている。どうしてただの契約書回収がこんな緊迫した取引になるのか、真砂は息を呑む。

 紫シャツは引き出しから小ぶりの金庫を取り出した。印鑑に朱肉をつけ、鳴瀬の指示に従い押印する。


「こちらにもチェックをお願いします」

 紫シャツは鳴瀬を上目使いで見る。目尻に走る傷は何かの勲章なのだろうか。鳴瀬も視線を逸らさない。紫シャツは胸元から金張のボールペンを取り出し、チェックを入れた。

「ありがとうございます。控えは郵送いたします」

 鳴瀬は書類を真砂に手渡す。真砂は慌てて書類を営業カバンにしまった。鳴瀬がチェックした書類だ、これで不備はない。安堵の溜息が漏れた。


 鳴瀬と真砂が帰ったあと、深井は紫シャツを着た若頭補佐の稲垣に小突かれた。

「舐められやがって」

「すみません、兄貴」

 深井は平謝りする。


「しかし、あの鳴瀬とかいう男、カタギの目じゃねえ」

 稲垣は鳴瀬の深い闇を宿した目を思い出す。刑務所で一緒になった奴にヒットマンがいた。五人を殺したことがあると自慢げに話していた男の目は汚濁していた。

 鳴瀬の目には澄んだ闇が宿っていた。純粋な闇だ。稲垣は思わず身震いした。

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