サボテン(1)
朝六時、目覚まし時計が鳴る30秒前に鳴瀬史郎は目を覚ます。昨夜帰宅したのは午前二時、漸く眠りについたのは三時だった。頭がすっきりしないのは睡眠不足のせいではなく、
それでも日課はこなす。鳴瀬は半身を起こし、目覚まし時計のアラームを止める。洗面所で顔を洗い、髭を剃る。鏡に映る顔はひどくやつれているように見えた。
グレーのスゥエットに着替えてマンションの部屋を出る。非常階段を駆け下り、マンションの敷地から歩道へ。横断歩道を渡り、コンビニを通り過ぎて緑道公園の遊歩道を一周する。頭を覆う鈍痛を振り払うためにペースを上げる。
「おはようございます」
毎朝すれ違う老夫婦に会釈する。彼らは早朝の散歩が日課で、鳴瀬と逆回りで遊歩道を歩いている。
まるまる太った白鳥が泳ぐ湖を通り過ぎ、ポプラ並木を抜けてマンションへ。鳴瀬は階段をダッシュで駆け上がり、自室へ戻った。
キッチンでは妻の諒子が朝食の準備をしている。鮭の焼ける香ばしい匂いが食欲をそそった。ぬるめのシャワーで汗を流す頃には頭はすっきりしていた。しかし、屈辱に乱された心に残滓は残る。
ワックスで髪を整えて紺色のスーツに白いカッターシャツ、ネクタイを締め、胸元に社章のピンバッジをつける。黒縁眼鏡をかけた姿は生真面目なサラリーマンだ。
自室の窓際に置いた鉢植えのサボテンを観察する。
土がカラカラに乾燥している。この状態からあと2日放置して水をやることにする。表面に霧吹きをして湿らせてやる。
サボテンは近所の付き合いで行ったフリーマーケットで息子の京平が欲しがったものだ。リビングに置いていたが、京平が棘を触って指から出た血を見て大泣きした。それからサボテンを怖がるようになったので、鳴瀬が自室に引き取って育てている。
部屋は見事に殺風景だ。職業柄、いつ突然姿を消すことになるか、または組織から
そんな中でサボテンは唯一不要なものだった。
「いただきます」
食卓につき、手を合わせる。味噌汁に焼き鮭、白飯、ほうれん草のおひたしは作り置きだ。諒子の作る料理の味は好きだ。塩分控えめで味つけが安定している。
組織が世を欺くために手配した偽装妻で、鳴瀬には彼女に対する愛情はない。関心がない、といった方が良いかもしれない。関心をもったところでいつ引き離されるか組織の采配次第なのだ。
鳴瀬は新聞の決まったページに目を通しながら朝食を手早く済ませる。
鞄を手に出勤しようとしたとき、息子の京平が起き出した。玄関先に諒子に手を引かれて見送りにやってくる。
「あなた、今度幼稚園の発表会があるのよ」
「悪いが、不参加だ」
鳴瀬は即答する。諒子はその答えを知っていたかのように、不快な顔も見せず頷いた。
「いってらっしゃい」
京平が手を振る。鳴瀬は京平の頭をくしゃくしゃと撫でてドアを閉めた。
エレベーターで別の階に棲む若いサラリーマンと乗り合わせる。ルートは同じだ。これから地下鉄駅へ向かうのだ。スマートフォンを取り出し、ネットニュースと株価をチェックしている。待ち受け画面には笑顔の子供の写真が見えた。
諒子と京平は血が繋がっていない。偽装家族として生活を送っている。鳴瀬には二人に対する余計な感情はない。組織の指令通り仕事をこなす、そのためのツールでしかない。
鳴瀬には生活力がある。子供の頃からサバイバル仕込みの自炊の方法は叩き込まれたし、身の回りのこともすべて自分でこなしている。
偽装家族を構成させるのは期間を限ってその地域で生活するための隠れ蓑であり、暗殺者の精神安定のためだ。もし用意された者が気に入らない場合、申告すればすぐに代わりを送り込むのだと。
鳴瀬はこれまで三組の人間たちと
彼らも自分と同じワケありだ。京平はもう少し大きくなり、適正があれば暗殺者としての道を進むかもしれない。
京平には人として最低限のことは教えてもいい、と思っている。ただ、鳴瀬も本当の両親の愛情を知らない。子育てというよりは、職場の部下に業務を教えるような感覚に近かった。
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